2009年1月13日火曜日

一日一食半


● 豪華な?昼食


 一日一食半
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 六十を過ぎ、リタイヤしてから食事の量を減らした。
 もともと食の細い方であったが、それでもさらに細くした。
 力士が現役を退くとすぐにやることは、食事の制限をして体重を落とすことだという。
 それに似ている。 

 よく食べるというのは、年とったものには悲劇である。
 反面教師というか、それを目の前で見ているせいか、肉体的に食べないというより、心理的に食欲が沸かなくなってくる。
 ショッピングセンターへでかけると、多くのリタイヤメントを見かける。
 いるいる、欲望に身を任せてしまった、恥知らずな人間が。
 なんて書いたら怒られますよね。
 でも書きたくなるのが、この人たち。

 デブではなくて「スパーウルトラ・デブ」。
 超肥満というより「極肥満」。
 太鼓腹というのは、もっこり腹が出ている状態をいう。
 一面かわいらしい響きがある。
 ここの太鼓腹は、度を越している。
 この強引に突き出た腹を、何とか支えるためにのみ背骨がくっついているといった感じ。
 もちろん、バンドなど締められない。
 ヘソの上でちょこんと止めているだけ。
 そのバンドを越えて、肉が垂れ下がっている。

 女性はさらに大変。
 ビヤダルどころではない。
 よくお笑い番組で、お相撲さんの縫いぐるみを着て登場してくるのがある。
 いちどこけたら、もう立ち上がれない。
 腰についた肉をブルンブルンと振って歩いている。
 肉の慣性で円運動が生じる。
 よって前にいく推進力が生めない。
 体をゆすりながらやっと、前に歩けるようになる。
 その足を最初見たときは、体の重さでむくんでいるのではないかと勘違いしてしまったほど。

 みっともないとか、恥じらいとかいったものをトウーの昔に忘れてしまっている。
 人間である意識を忘れてしまっている。
 「食欲が先立って、品性が感じられない」
 このセリフが好きで、あちこちで使っている。
 ここまで悪口をいうと叱られそうですが、実際そう感じてしまう。

 少子亡国論というのが以前にあった。
 人口減少が亡国につながるというショートカットな論理であった。
 どこまで増えればいいのかという目安が展開されていなかった。
 ただ、減ったら大変だ、大変だと繰り返していた。

 人口が減少するのは、増えすぎたからである。
 いわゆる「個体数調整」という自然のメカニズムが動いているということ。
 「適正な人数」と動物としての人が感じるまで、減少傾向は続く。
 人は人間である前に生物体としての「人」である。
 その生物体が多いと感じれば、自然は減るメカニズムを発動させる。
 それは人間がどうこうできるレベルではない。
 科学のレベルではなく、自然種のレベルである。
 
 だが、肥満はどうだろう。
 これは人間の欲望が極限化された、醜い姿。
 「肥満亡国論」、これの方がはるかに説得力がある。
 「己のが食欲」という欲望を制御できなくなった亡者たち。

 昔はあの世に「餓鬼」という地獄があった。
 昨今はなくなった。
 いまあの世にあるのは「飽鬼」という地獄であるという。
 無理に口を開けさせられ食い物を注ぎ込まれる地獄だという。
 歴史の流れと共に、あの世の地獄構図も変化してきているようだ。

 もし、人が己が欲望を制御できないなら、国家がやるしかない。
 国を亡国の岸辺へ追いやらないためにも国家権力が介入するしかない。
 すこぶる「怖い、論理」
 肥満犯罪法を設定し、肥満刑務所を造り、自分をコントロールできなくなった極肥満人間は軽度禁治産者とみなして、数ヶ月の刑務所暮らしをさせて、適正な体重までおとすように指導する。
 そのくらいの強権をもって臨まないと、人間に未来はないということ。
 でも、これ不可能。
 刑務所が膨大な数になり、国家の負担が増大し、それによって国家が破産するかもしれないからだ。
 

 真面目な冗談はさておいて、こういう右をみても左を見ても極肥満という社会に住んでいると、「ああわなりたくない」という自制心がすべてに先行するようになる。
 それが心理的食欲制御のメカニズムになる。
 「ものを喰いたい」という欲望が萎えてくる。
 
 仮に一食抜こうとすると、はじめはその時間になると体がおかしくなってくる。
 まずイライラが高じてくる。
 そして、どなりちらしたくなる。
 さらには、体に震えがくる。
 腕を前に抱え込んで震えを止めないとどうにもならなくなる。
 「イライラと震え」、これが食を抜くときに体が反応するノーマルな現象である。
 こういうときは家にいるとヤバイので、なるべく散歩に出るようにする。
 電柱の数や家の数を数えたり、曲がり道の向こうに見えるものに神経をとがらせたりして、空腹の意識を拡散させようとする。
 こういうことを一週間続けると、だんだん体がそれに慣れてくる。
 震えも苛立ちも納まってくる。

 著名な寺の修行僧は朝の托鉢の後、その托鉢で得たもので一食をとり、それが一日のすべての食事だという。
 つまり、人間てヤツは一食食べれば、それで命に別状はないということである。
 そして、一番長生きをする職業の統計をとると「坊主」だという。
 
 「人間一日一食」で十分ということである。
 習慣づければ体はそれに対応してくれる。
 脳みそで考えることより、体は賢く反応してくれる。
 ちゃんとやるべきことはやってくれる。
 人の思考などというものは、浅はかなものだ。
 中途半端な知識でモノを考えないのがいい。
 自分はバカではないが、そんなに頭もよくない、と思うのが手っ取り早い。
 半月つづければ、もうその時間に空腹なるものを感じることはなくなる。
 同様に、食べる量も減らしていける。
 そこまでくればあとはさほどの無理はいらない。
 地道にやっていけば、一日の食べる量をコントロールするのに難しさは感じなくなる。

 一日二食。
 朝は食べない。
 起き立てに食欲はわかない。
 働いている人は、これから通勤となりエネルギーを無理にでも補給しておかないといけない。
 動物学的には起きてすぐに食べるのは体に悪い。
 誰でも知っていること。
 早起きをして、小一時間散歩でもして、体を動かしてから食事をするのが少しは健康的なスタイル。
 しかし、社会生活ではそうはいかない。
 無理にでも血糖値を上げないといけない。

 24時間働けますか。
 強引に血糖値を上げるために、「朝食を喰え」と薦められる。
 体の負担が大きくなってもいいから「朝食を喰え」と教えられる。
 知らず知らずにそれが正しい食事と思い込んでしまっている。
 企業戦士を作るための医学界の陰謀か。

 ライオンは起きてすぐに餌狩りはしない。
 体中をベロベロなめて、だらだら長時間すごしてから、それからよいこらしょと様々に狩りに出かける。
 一般動物で、起きてすぐ食事をとるのは人間だけ。
 それでも、昔は朝ひと働きしてから、食事をしたものだが。
 生物としてではなく、社会の要求にあわせている。
 いたしかたないこと。

 修行僧だって、托鉢して回ってから食事にありつく。
 昨日の残りがあるからといって、決して起きてすぐ食いはしない。
 この姿をみれば、おのずと動物としての人が見えてくるというもの。

 いつものことだが、言うことが偏見に満ち満ちていてきつい。
 それを楽しんでいる部分も多分にある。
 「イイコチャンにはならない」、という信念にすがりついているのだろうかと、われながら自分のスタンスにあきれることがある。

 てなことで、勤務なきリタイアメントは「朝食を食べてはいけない」
 働くことをやめたら、つまり社会的な拘束を逃れたら、できるかぎり「動物としての人」に戻ったほうがいい。
 これは生物学的に言っての話。
 文化的にいうと「朝食を抜いてはいけない」ということになる。
 どちらを選択するかは個人の自由。


● 輸出用のざるうどん

 この国で作られている日本向け輸出用のウドンです。
 昼はウドンかソバ。
 大盛り。

 トップの写真は我が食する「豪華な昼食」です。
 トウフ半丁、サラダ、トマトときゅうりの野菜、
ちくわ、味噌汁。

 下の写真が「ささやかな夕食」です。
 トウフ半丁、サラダ、トマトときゅうりの野菜、ハム添え目玉焼き、スモークコッドの切り身、味噌汁。
 「ご飯はついていない

 よって穀物類は昼の麺類大盛り一食になる。


● ささやかな夕食

 まず「トウフ」
 ありがたいことに、どこのスパーマーケットでも売っている。
 パック入りで2,3種類出回っている。
 絹ごしも木綿ごしもある。
 日本円で100円から200円ほど。
 昼夜半丁、一日一丁である。
 トウフの上には乾燥ワカメを戻したものをおき、それにネギをたっぷりおき、最後はオカカである。
 「トウフの具、三段重ね」である。
 チョッツチョッと添えるだけ、それだけで豪華に見える。
 料理は「美学」でないといけない。
 
チョッツチョッで美学になる。
 乾燥ワカメとオカカは日本食料品店で買っています。


● どこでも手に入るトウフ


 つぎは「サラダ」
 サラダとくればレタスに決まっているが、それにタマネギの薄切りとニンジンの短冊を混ぜる。
 ニンジンは時にピーマンになるが、今日は赤でいこうか、緑でいこうか、そこが思案のしどころ、といった風になる。
 「見た目」これは料理の基本。
 見た感じで「食べてみたい」という欲心が出ない料理は、はなから落第。
 
 小学校やハイスクールの昼食は弁当だが、リンゴ1個にビスケットと数枚という子どもは多い。
 よって昼休みにリンゴをかじっている姿を頻繁に見かける。
 この姿、街のフードコートでも見かける。
 それも美人のオネエサンがリンゴにかぶりついている。
 近くのオフィースの事務員である。
 リンゴをかじる姿というのは絵になる。
 でも日本では子どもを除いてあまり見かけない。

 エッツ、というのを見たことがある。
 スーパーマーケットの前においてある椅子に腰掛けていた小学校高学年くらいだろうか、その子があの赤いニンジンをガリガリとかじっていた。
 おいしいのだろうか。
 うまそうに喰っているという雰囲気にはまるで見えなかったが。
 買い物の親を待っている様子であった。
 ニンジンを丸ごと食べるというのは馬の姿しか思い浮かばない。

 かくいう私もニンジンを丸ごと食べたことがある。
 隣の家の家庭菜園にニンジンがあった。
 オッサンが引き抜いてきて、おいしいから食べろという。
 イヤッツ、と言うわけにもゆかないので、小さなものだったので、丸ごとかじった。
 おいしくはないが、まずくもない。
 「うまいか」と聞かれて「スイートだ」と答えた。
 でも、その後、ニンジンの丸かじりはしていない。
 
 「アイアンシェフ」の没頭で鹿賀丈史が黄色いピーマンをガブリと食べるシーンがある。
 「まずい」といった雰囲気を隠すために、なんとかかんとか作り笑いをしているシーンである。
 ニンジンもピーマンも生でガブリと食べるものではないようだ。
 料理をするか、添え物か。
 ニンジンは安く、ピーマンはやたら高い。
 ニンジンはわずかなお金で山のようにくる。
 もし食糧危機がきたら、なんとか最後はニンジンを食って生きながらえる、そんなこともできそうにおもえてくる。
 でも生ものは最初に枯渇してしまうだろう。

 タマネギ、これはおいしい。
 最近のタマネギは切っていても涙がでない。
 ちょっとタマネギっぽくなくなってしまったが、その分手軽に使えるようになった。
 スライスしているときつまんでみる。
 甘くておいしい。
 これはいける。
 昔は湯がいてオニオンスライスにしていたが、最近はそのままレタスにまぜてサラダにしてしまう。
 タマネギのないサラダはひと味落ちる。
 レタスにはアジがない。
 それだけでは素っ気ない。
 ドレッシングに依存して食べなければならない。
 サラダの味を作るのがタマネギ。
 タマネギが入るとサラダの味が出てくる。

 上に載せる具は昼はワカメだけだが、夕食はさらにその上にカニカマモドキをほぐいて散らす。
 カニカマモドキはスパーマーケットでも売っているが、日本食品店に行ったときついでで買ってきている。

 つぎは「キュウリとトマト」
 当たり前のことだが、どこでも売っている。
 トマトは一日1個、昼夜半分づつ。
 キュウリは大きさにもよるが一日一本か、大きなものだと二日で一本になる。
 あたりまえだが特別な料理方法などはない。

 でもこちらでは「焼きトマト」というのがある。
 なぜあんな水っぽいものを焼いてしまうのだろう。
 文化の違いといえば、そうなのだが。

 小さいときに冷やしトマトをよく食べていた。
 単に冷やしたトマトを丸かじりするだけだが。
 キュウリは縦に半分に切り、それにミソをつけて食べていた。
 その頃の3時のオヤツだったのだろう。 

 どちらも今は皮をむいている。
 キュウリはピラーでいともたやすくむける。
 このピラーというのは、まったくアイデアそのものである。
 うまいものを考えたものだと思う。
 トマトは水っぽくて皮が肉にへばりついてピラーはきかない。
 頭と尻を切り落として、まな板に据え、回しながら周囲の皮を包丁で落としていく。
 ネギを薄くスライスできるか、このトマトの皮むきが容易にできるかで包丁の価値が決まる。
 切れる包丁は扱いが下手でも、勝手にトマトの皮を薄くそぎとってくれる。
 キュウリは安いが、トマトは倍値段する。
 でもトマトの方に手が出る。
 野菜にして果物という感覚だろうか。
 冷えたトマトの丸かじり、リンゴの丸かじり、歯ごたえはまるで違うが、ニアンスは似ている。

 「おかず」は昼はちくわ。
 冷凍ものを日本食品店から買ってきて、ただグリルで焼くだけ。
 時に、サツマアゲやツミレなどになる。 

 夜はスモークコッドと目玉焼き。
 スモークコッド(スモークたら)の切り身はスーパーマーケットで売っている。
 他の魚の切り身もあるが、味付けをしないといけないようなので買わない。
 スモークコッドのほかには、日本食品店から冷凍したシシャモ、アジのひもの、秋刀魚のひらきやホッケなどを買ってきて、解凍してグリルで焼く。
 醤油をかけて食べられればそれでいい。
 グリルで焼くものは、単にグリルで焼くだけ。
 それ以外、何もしない。
 味付けなどまったくない。

 よって、まともな料理といえるのは目玉焼きだけ。
 フライパンに油を敷いて、ハムを焦がし、タマゴを焼く。
 これもそれだけの料理。

 おかずに「肉」がないが。

 目玉焼きに添えたハムが唯一の肉系。
 昔は家族が別のものを食べていたとき、私だけはステーキだった。
 肉もブタ肉は嫌いで、ビーフオンリーだった。
 ところが、最近はしつこい肉に食欲が沸かなくなってしまった。

 外で食べることもあるが、例えば昼などはケバブ。
 昔はビーフ、今はチキンかベジタリアン。 
 あの頃からは考えられない変わりかた。

 そういえば完全なベジタリアンが息子の友人にいた。
 肉と名のつくものはすべてダメ。
 野菜か魚に限られていた。
 年齢的に食べるということを人生の最大目標にしていた世代に生まれ育ったので、好き嫌いのない連中ばかりが周囲にいた。
 よって、我が人生ではじめて出会ったベジタリアンであった。
 宗教的にベジタリアンならわかるのだが、そうではないらしい。
 日本人である。

 息子の友人にはいろいろなのがいる。
 例えばタマネギであろうと長ネギであろうと「ネギ」と名のつくものはすべてダメ。
 これはちょっと珍しい。
 私はネギが大好き。
 添え物にチョビッと出されたネギというのはどうも好きになれない。
 常にネギは山のように切り刻んでおいて、ドバッーと入れたりかけたりするのが大好きなのである。

 あるいはタマゴのダメな子がいた。
 これはアレルギーとのこと。
 「じんましん」みたいになるらしい。
 よって、その料理にタマゴが使われているかいないかが、本能的に分かるほど研ぎ澄まされているという。
 豊かな時代には、すべてが豊かに色々なことが発生するようである。

 「味噌汁」はパックもの。
 一袋20セント、つまり15円から20円くらい。
 これに乾燥ワカメとアブラゲをいれ、ネギをドバッツーと入れてお湯を注ぐだけ。

 てなところが、私の食事なのですが。
 主食が昼の大盛り麺類のみ、というのがドラマチックでしょう。 
 よって、2食が「一食半」になってしまう。

 この食事を続けると間違いなく痩せる。
 ちょっと痩せすぎるのが心配と思うが。

 でも修行僧の一日一食から較べればはるかに豪華にして過食である。
 
 なを、一日の食べる量が写真のものだけ、ということではありません。
 食後の果物もあり、三時のオヤツも食べます。
 夜は一杯やってオツマミもあります。
 もちろん過剰にはとりませんが。


 ちなみに、この国では肥満は幸福の心理的バロメーターでもあるようです。

★ 25today 2009年1月18日
幸福度の高い肥満体
http://www.25today.com/news/2009/01/post_3068.php

 幸福度の高いオーストラリア人
 1月18日、世論調査企業ニューズポルが1,200人を対象に実施した幸福度世論調査が発表された。
 この世論調査は、体重減少企業「Weight Watchers」が同社に依頼し、体重過剰タイプの人々に自分の生活習慣を評価してもらう形で質問し、人々の幸福度、体重や健康に対する態度を判断しようというもの。

 その結果、回答者の過半数が自分を体重過剰と考えており、しかも女性の方がその傾向が強いことが明らかになった。
 また、女性よりも男性の方が、不健康な食生活または食生活に無頓着という回答の率が2倍ほど高かった。
 また、半数近くが、「ほとんどの場合、自分は健康」と考えているが、運動不足と考えている 人も80%を超えていた。

 また、回答者の半数近くが、仕事にも非常に満足していると答えており、30%ほどがまずまず満足と答えている。
 人間関係に満足していると答えた人は60%を超えており、一般的には年齢が高くなるほど幸福度も高まり、女性は男性よりわずかに幸福度が高くなっている。

 体重過剰な人々は90%が人生にも自分にも満足していると答えており、オーストラリア人は比較的幸福度が高いという結果も出た





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