2008年8月25日月曜日

「日本沈没」1:東京壊滅


 ● 東京壊滅
[Newton 2000年10月号 ニュートンスペシャル]より


 「日本沈没」1:東京壊滅
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 図書館に小松左京の「日本沈没 上・下」がありました。
 文庫本で2006年1月1日発行、第5刷8月1日版で、まだ新しい。

 最終ページに「本書のプロフィール:本書は、1973年3月に光文社から書き下ろし出版されました」されたとある。
 出版から「35年」の歳月がたっている。
 35年とはほぼ一世代である。

 昔、読んだときは地震発生のメカニズムに最も興味があった。
 いわゆる太平洋プレートが大陸プレートにもぐり込み、その反動で地震が起きるという説である。

 それから13年後の、1986年には伊豆大島の三原山が噴火し、全島民1万人の脱島作戦が行われました。
 日本沈没が現実のものとなりつつある、と思ったほどです。
 ちなみに、この中に大島に嫁いだ小学校の同級生が一人混じっていたので、この噴火とその救出作戦については印象深く残っています。


★ 全島1万人、史上最大の脱出作戦 三原山噴火13時間のドラマ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Ningen/mihara/sub_mihara.html


 その後、富士山噴火説もあり、広島が安全だといってその時期、避難された方もいたとか。
 実際、そいう話を家のはす前の方から聞きました。
 話好きのオバサンで「富士山が噴火するよ」と。


★ 富士山噴火で首都圏壊滅
http://jp.youtube.com/watch?v=ZITLJxSzpig&feature=related

★ 富士山噴火は2030年前後東海南海地震に連動
http://jp.youtube.com/watch?v=37M1CLIohSk&feature=related

★ The history of the eruption of Mt. Fuji. 富士山の噴火史
http://jp.youtube.com/watch?v=UeO-wbTxK48&NR=1


 22年後の1995年に神戸大震災が起った。
 私はこのときすでに、こちらにいたため、断片的なニュースで知るだけでした。
 原因は「活断層」という。
 この言葉、このときはじめて聞きました。
 活断層とはなんぞや。
 地震というのは、主に関東地域で起こり、それは2枚のプレートによるせめぎあいによって生じる場合が多いと聞かされていましたので、まるで知りませんでした。

 ところが突然予想だにしなかった関西に地震が起き、それとは全く別のメカニズムで活断層のズレで生じたとあります。
 最終死者7,000人。


★ 1995年 阪神大地震 Great Hanshin earthquake, Japan
http://jp.youtube.com/watch?v=h2k3jtjaL0o&feature=related


 なんと「日本沈没」にはそのことがちゃんと書かれているのです。
 昔、読んだときには地元の関東地方のみに興味があったため、活断層なるものは読み飛ばしていたようです。


 日本沈没のシナリオによれば、伊豆天城山の噴火から始まり、三原山が煙をあげ、そしてこの活断層による関西地方に飛び火する。
 8月のある日「京都大震災」となり、死者「4,200人」と小松左京は書いています。

 ここから日本沈没が動きだす。
 このとき「197*年」の日本の人口は「1億1千万人」。

 翌年の3月、政府が「日本沈没を公式発表」する。
 首相発表の内容は、
 「調査期間の予測によりますと、この変動は、ここ「1年以内」の間に起こり、その変動の結果、日本はそのほぼ全域が海中に没し去ることになる、ということであります」。

 猛烈なスピードで、日本人口1億1千万人の脱出が開始される。
 伊豆大島の全島民避難はこの小説を思い起こさせました。
 そして、たった6ケ月で「7千万人」が日本を離れる。
 全人口の「2/3」にあたります。
 読んでいて、すごいと思った。
 そんなことが可能か、と思いました。

 それまでに2千万人が死に、残された2千万人のうち、自ら日本の国土と運命を共にした人たちも多くいたとある。
 9月が最後の山場となり、その月、日本列島は海に沈んでいく。
 エピローグは「竜の死」


 今回、読み返して最も興味あったのは、地震メカニズムではなかった。
 7千万人という脱出者についてである。
 メカから文化・民族へと興味の焦点が移っている。
 それだけ、年齢を経たということであろうか。
 それとも、日本に住んでいないということによってもたらされる視点の変化であろうか。


 おそらく、近いうちに関東地区に地震が発生し、東京は壊滅するだろう。
 そうメデイアは伝えている。


★ Newton 2000年10月号 ニュートンスペシャル
  ワーストケース  
東京壊滅 巨大地震 ...
http://www.newtonpress.co.jp/search2/sample/kiji_phtm/p2000/p200010/p200010p060.html


 防災対策、避難対策もとられているが、それを上回る規模で来た場合、あるいは想定外の事象が発生した場合、どこまで有効に働くだろうか。
 有効の限界を超えるほどなら、もはやお手上げにならざるを得ない。

 来るはずはないと思われていた関西に地震が発生したということを考えれば、自然の驚異とは人の考えを超えて動くところにある。

 Wikipediaを見てみる。


 南関東直下地震
──────────
 南関東直下地震(みなみかんとうちょっかじしん)とは、2007年(平成19年)~2036年(平成48年)の間に、関東地方に70%の確率で発生すると想定されている直下型の大地震。
 「マグニチュード7級」と想定される。
 別称に「首都直下地震」、「東京大震災」、「東京直下地震」など。

 1600年以降、マグニチュード8級の1703年12月31日の元禄大地震と1923年9月1日の関東地震(関東大震災)が発生しており、このクラスの地震は200~300年間隔で発生するとされる。
 またその間、1855年11月11日安政江戸地震と1894年6月20日の明治東京地震が発生しているように、マグニチュード7級の地震が数回発生するとされており、「いつ発生してもおかしくない」状態である。

 関東地震や東海地震に比べ地震の「規模は小さい」ものの、日本の経済、政治の中心地ゆえ経済活動や国家の安全保障に甚大な被害を及ぼすものになると予想されている。
 1992年に「南関東地域直下の地震対策に関する大綱」を制定し、さらに2003年に中央防災会議において「首都直下地震対策専門調査会」を設置し、首都特有の問題を含む対策を検討している。

 震災発生時、本社機能がマヒしないように関東地方以外に本社機能を代替する支社を設置する企業が出てきている。

  被害想定
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 2005年に発表された中央防災会議の報告によると、被害が最も大きい場合、死者13,000人、負傷者170,000人、帰宅困難者6,500,000人、全壊の建物850,000棟、避難者総数700万人、経済への被害112兆円と、今の日本にとてつもない被害を及ぼすと想定されている。
 ちなみに、東京都防災会議地震部会が2006年3月に発表した最終報告では、被害が最も大きい場合でも死者は約5,600人とされた。


 あの東京で死者「1万3千人」だという。
 とても信じられない数字である。
 誰がどう考えても、「おかしい」と思う。

 神戸大震災で7千人である。
 神戸市の人口は「150万人」である。
 東京は一千万人都市である。
 7倍としても「5万人」は想定されはずである。

 Wikipediaによれば神戸は「実際は山林や北区などに見られる裏六甲より北の農村部の方がはるかに面積は広い」とある。
 この5月におきた中国の地方部の四川地震でも「7万人」である。

 一千万都市東京から見て人口の一割としても「100万人」を記録しても不思議はない。
 関東大震災で「10万5千人」である。
 「いつ発生してもおかしくない状態である」とWikipediaはいう。
 そして、関東地震や東海地震に比べ地震の「規模は小さい」と Wikipedia はいう。

 なら、関東大震災級を超える地震がきたらどうなるのだろう。
 「来ない」とはいえないだろう。
 かくも密集してきたバベルの塔のような東京で死者「1万3千人」という数字はどうみてもありえない。
 不安を抑えるため、どうせ分からない事なのだから気休めにと、過小に見積もっているのかもしれない。

 自然は想定を超えたところで動きだす。
 まず「東京壊滅」と見ていい。
 安穏の「避難」などできないと判断して差し支えないだろう。
 自然はそんなに優しくはない。

 『死する心積もりを持たせること』

 それが究極の災害対策かもしれない。
 それには成功している。
 「地震のメカニズムはまるで分かっていません、今できることをやるだけです」という。
 どう考えてみても「それしかない」
 それ以上は?マークである。
 ということは、内輪で設定し、内輪の対策をとることしかできない、ということである。

 「東京大震災はきません。来るのは
南関東直下地震です」
 ですから、「安心です」
 「気休めのふりまき」
 よく使われる、社会心理の沈静方法。
 大きなものを、小さなものにすり換える「世論操作テクニック」
 裏を返せばこういうこと、

 『もうダメだよ、覚悟しなさい』

 怖いものは見ないように、触れないようにしているだけである。
 恐怖は心に秘めて、顔でニコニコしているしかない。
 人が人を呼び、超高層が超高層を呼ぶ。
 脆弱な基盤の上に。

 選択肢は「東京壊滅」が最も太い。


 ちなみに我が娘、東京のド真ん中に住み、江東ゼロメートル地帯に勤めている。
 24時間のどの時間で発生するかで、被害は大きく異なる。
 通勤時に当たれば地下鉄で、まず助からないだろうと思っている。


★ YouTube - 東京大震災 Major earthquake of Tokyo
http://jp.youtube.com/watch?v=hlkCyjwD4-I



 現在人口「1億2千7百万人」

 どう見ても多すぎる。
 小学校のとき先生から「日本は小さな島国で、人口密度がひじょうに高い」と教わった。
 数十年も昔の話である。

 その後、「日本列島が膨らんだ」という話は聞いていない。
 しかし、人口は急激な勢いで膨らんだ。
 ということは、更なる人口密度の上昇があった、ということになる。

 「狭い日本、そんなに急いで何処へいく」

 そんな標語があった。
 ちなみに、これは「官製標語」である。
 下に「****警察署」と刷り込まれていた。

 言わんとしていることは何か。
 「小さな日本」と「過密な人口」を、交通標語に置き換えて表現した、ということである。

 人口の高密度はスラム化を促す。
 スラム化しなければ、過密な人口を支えきれない。
 都市、特に東京に集中している。
 東京は「美しいスラム」である。
 古典用語のスラムは「汚さを象徴」する。
 現代用語のスラム、すなわち「美しいスラム」はコンビニエンス、すなわち「便利さを象徴」する。
 便利であることによって、高密度に人口を受け入れられる。
 どこへ行っても人だらけ。
 人間の重さに耐えかねて「満杯日本、日本シンドローム」の冗談が出るほど。

 そこで減るメカニズムが動きだした。
 未来的には2050年には1億人ほどになるという。
 それでも多いようで、2100年には9千万人を切るという予想が見通しの大半を占める。

 おそらく、過密な人口を適正化するために、「社会的人口調節機能」が反応し、日本に節度をもたらすよう動いているのであろう。

 「適正」という用語のもつ意味はなんだろう。
 どういう形であろうと、人口減少が実行されないと、「日本がもたない」。
 高度成長に「浮かれている時代」は過ぎ去った。
 「成長理論」で武装している限り、破綻は近づいてくる。

 現代において「成長のゴール」とは「破綻点」の言い換えのことである。

 だが、その前に自然の暴力が起きる可能性もある。
 もしかしたら、それは「日本という島」の持つ
「自然的人口調節機能」であるのかもしれない。

 「いつ発生してもおかしくない」状態であるという。
 「東京壊滅」「首都消失」なら、それはそれである。
 増えすぎれば、それまで考えもしなかった「減るメカニズム」が動くであろう。
 生物学でいえば「個体数調整」。
 通常の論理であり、自然の事である。
 とりたてて不可思議なことではない。

 後から「知らなかった」などという能書きを言うことではない。
 「なぜ、言ってくれなかったのだ」などと愚痴ってもはじまらない。
 
 とりたてて、「見知らぬメカニズム」が動くことは不思議なことではない。
 小さな要因が、大きな動きになって地表に現れることは十分にありえる。
 神戸大震災でも、これまであまり知られていなかった原因によっている。
 人間はすべてが分かっているわけではない。
 ささやかな自然の営みの表皮の一部を知るに過ぎない。

 科学とは、科学を超えるものを理解することは出来ない。
 科学とはささやかな人間の知能が作り出した、人間にとっての「知るための枠組み」である。
 自然の持つ枠組みではない。

 人間の知能は自然を超えられない。
 自然は科学、すなわち「人間の知能」の外側にある。
 自然にとって科学とは、米粒のものでしかない。
 「科学を超えるもの」など自然の中にはあたりまえにいくらでもある。

 「エイズ」が不治とされるのがその典型だろう。


★ ニュートンスペシャル
  ワーストケース 東京壊滅 巨大地震
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 日本は世界でも有数の地震多発地帯で、東京はこれまで何度も巨大地震に襲われてきた。地震 のメカニズムとともに東京を巨大地震がおそう可能性を探る。
http://www.newtonpress.co.jp/search2/sample/kiji_khtm/k2000/k200010/k200010p060.html

 PART2 火災 ワーストケース
 震度7、午後6時半発生のケースをシミュレーション

1]. 東京の最悪のケースでは3万件が火元になり、東京23区の約20%が焼失する
2]. 東京は神戸にくらべて人口では約9倍、世帯数では約7倍の規模である
3]. 冬の夕方午後6時、巨大地震発生と同時に多くの場所で火災が発生し延焼していく
4]. 神戸での事例をもとに、東京での最悪の火災をシミュレーション
5]. 大規模火災のときには、火災合流が発生する
6]. 関東大震災で避難場所だった被服廠跡で3万8000人の被害を出した火災旋風
7].ワーストケース--火災旋風が多数出現
8]. 大規模な火災では、いつでも火災旋風がおこりうる。避難場所も安全ではない
9]. これだけあるガスタンクや石油タンク
10]. これだけある化学工場や石油・石炭製品の製造工場
11]. トンネル内で事故がおきると、大規模な火災につながる可能性がある
12].震度7の激震。初期消火も消火活動も不可能
13. 火災による危険の大きい場所はどこか。東京都の「火災危険度マップ」



★ ニュートンスペシャル
  ワーストケース 東京壊滅 巨大地震
http://www.newtonpress.co.jp/search2/sample/kiji_khtm/k2000/k200010/k200010p110.html

 PART4 竹内均が語る地震の心得
 いつかくる巨大地震にそなえて、私たちは何をすべきか

1].地震の心得1
  地震の中では、人は何もできない
2].地震の心得2
  すばやく被災状況を把握することで、被害を最小限に食い止めることができる
3]. 地震の心得3
  日本列島では、直下型地震はいつでも、どこでも発生する
4]. 巨大地震がもたらす被害を最小限におさえるために何をすべきか--竹内均
  望まれる早期災害把握システム
  家屋の補強に教訓を生かせ
  身を守る事前のそなえ
  東京の地震対策は最重要課題



 でも、東京壊滅の次には「東京復興」という希望がある。
 捨てたものではない。
 余分なものが滅び、新しいものが芽吹いていく。

 復興への力強さが人を鍛えてくれる。
 明日の日本を支えるのが、責任なすりあいのパパママ文化ではいかにも心もとない。
 復興は仮面をかぶってやれるほど甘くはない。

 それが明日への希望に灯をともしてくれる。
 「明日へという」復興が。


 なを現在時点で、桜島は噴火警戒レベル:3、浅間山はレベル:2である。

★ 気象庁 | 噴火警戒レベルとは
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/STOCK/kaisetsu/level_toha/level_toha.htm




<つづく>



【Top Page】




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2008年8月18日月曜日

マネー洗浄:国家の品格


● 日本の紙幣


 マネー洗浄:国家の品格
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 と、言っても麻薬とかヤクザの裏金とかの「マネー・ロンダリング」のことではない。

 日本人は「清潔好きの民族」だといわれている。
 アジア人の中で、なぜヨーロッパ文化に入り込めたかという理由に「清潔」というファクターを掲げる人は多い。
 江戸期の日本の都市はヨーロッパよりはるかに衛生的であったというのは、多くの書物で見ることができる。

 これは今でも続いているようだ。
 おしぼりから始まって、殺菌作用のあるペーパー手拭、そしてウオシュレットまで。
 日本人が他民族の中に入り、少なくとも人種的差別以外で拒否されないのは、この清潔感にあるといっても間違いではない。

 アジア人がヨーロッパ人に見下されるのは「清潔感の欠如」による、という人もいる。
 もし、アジア人の清潔感がヨーロッパ人のそれを上回ったら、おそらく「汚らしい西洋人」としてバカにし、鼻も引っ掛けないのではないかと言われている。


★ 洗うを洗う
http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/mizu11_arau/index.html
★ 清潔感を洗う
http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/mizu11_arau/no11_f01.html



 中華料理はおいしい。
 でもチャイナタウンの裏を歩きたいとは思わない。

 「きれいさ」がない。

 ゴミ・ヨゴレに対する感覚が違う。
 日本人の感覚がよりヨーロッパに近く、部分的にはそれを上回っている。

 中国人の感覚はヨーロッパ人とは質的に違うようだ。
 中国人とは一緒に釣りに行かないという人がいる。
 日本人は自分が出したゴミを最後に持ち帰る。
 中国人は散らかしっぱなしにする。
 注意するのも気がとがめるので、そのままにしてしまうが、どうも後味が悪い。
 自分が罪を犯したような気になってしかたがないと言う。
 だから、次に誘われても中国人とはいかないという。

 中国人がチャイナタウンなどに固まってしまうのは、もしかしたらその清潔感の違いによるのかもしれない。
 いい悪いの前に、その長い歴史文化が横たわっている以上、個人の問題ではなくそれは民族的社会思想というものの感覚であろう。
 きれいさに対する「感度」の問題であり、日本人が鋭敏すぎ、中国人が緩いということなのだろう。
 逆に中国人からみれば「やりすぎ」、そう目くじら立てることのものではない、ということかもしれない。


 その「きれい好きの日本人」でも、汚いものをきれいにするという発想を持たないものがある。
 「お金」である。
 昔、親によく言われた。

 「お金は尊い、でも汚い。たくさんの人の手を渡ってくる」


 そのお金にまつわる記事があった。


★ 食品やものからのSARS感染の可能性は? SARSウイルスを正しく理解する ...
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7663/tabemono.html
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 中国;銀行では紙幣を24時間「隔離」:China imposes 24-hour quarantine on bank notes。
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 チャイナ・ディリー紙の報道によれば、中国の銀行では、受け取った紙幣を24時間の「隔離」処置の後、流通にまわすことを決めた。
 これは紙幣を通して SARSウイルスが感染することを防止するためとしている。
 さらに中央銀行は新しい紙幣を準備して、これを流通にまわすという。
http://www.abs-cbnnews.com/abs_news_flash_article.asp?FlashOID=8341

 紙幣増刷で新型肺炎封じ込め…中国
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 【北京=東一真】
 国営新華社通信などによると、中国人民銀行(中央銀行)は、新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)の封じ込め策の一環として、新たに紙幣を増刷することを決めた。 
 紙幣は流通する中で、SARSウイルスを媒介する危険性があるとして、古い紙幣を回収、新たに印刷した紙幣を大量に流通させることで、紙幣の「衛生レベル」を高める狙いがある。
 増刷の量は明らかにしていない。 
 人民銀行は、同時に消費者にクレジットカードでの支払いを奨励したほか、商業銀行に対して、クレジットカードの使用環境を早急に改善するように求めた。
 紙幣を使う頻度を減らすための措置と見られる。 
 中国では現在、1分(=0.01人民元、約0.15円)から、100元(約1,500円)まで13種類の紙幣が使われている。
 クレジットカードはあまり普及しておらず、紙幣が支払いの中心となっている。
読売新聞 http: //www.yomiuri.co.jp/business/news/20030428it12.htm


 「SARSウイルス」とは何か。
 Wikipediaを見てみる。

SARSウイルス
 ────────
 SARSウイルスは、重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome , SARS)の病原体として同定された新種のコロナウイルスである。
 飛沫感染により広がるとみられている。

 * 2003年3月頃から中国広東省を起点とし、大流行の兆しを見せ始めたSARSの原因が新種のウイルスにある可能性は、2002年頃から指摘されていた。
 * 3月下旬、台湾のテレビ報道で謎の新病発生と報道される。
 * 3月27日、香港大学の研究チームがSARSの原因が新種のコロナウイルスと特定したと発表。(コッホの四原則に適合)
 * 4月1日、世界保健機関(WHO)はコロナウイルスが主な原因との見解を公表。
 * 4月10日、SARS患者から検出されたコロナウイルスの遺伝子配列が、既知の種のものとは大きく異なっているとのベルンハルト・ノッホ研究所(ドイツ)等による解析結果が発表された。
 * 米疾病対策センター(CDC)は、世界各地のSARS患者からほぼ同じ遺伝子配列のコロナウイルスを検出し、これが原因である可能性が高いことを発表した。
 * エラスムス大学(オランダ)の研究チームが、SARS患者から分離された新コロナウイルスをサルに投与するなどの方法で、SARSの原因であることを検証した。
 * 4月16日、WHOはSARSの原因が新種のコロナウイルスと確認されたと発表、これをSARSウイルスと命名した。


 貨幣というのは人の手を回ってくる。
 よって、ついでにヨゴレとともに病原菌も運んでくる。
 この例はたまたま、中国で「SARS」が発生したときに、とられた処置である。


 日本で別の何らかのウイルスが蔓延し、その感染媒体が貨幣ということも、決してないとはいえないということである。
 予防医学の原点の一つは廻り巡る「貨幣をきれいに」することである。
 病気について能書きをいう前に、手から手へ渡される貨幣はできるだけ清潔に保たれていなければならない。

 「日本の貨幣はきれいか」

 貨幣の目的・行為それ自体が汚い。
 これは仕方がない。
 なにしろ、名も知らぬ人々の中を回ってくるもの、手渡しされるものである。
 きれいなわけがない。
 文句をいってもはじまらない。
 汚くとも回ることが、貨幣の使命である。
 ピン札でタンスに仕舞われていては貨幣の役目をもたない。


★ 日経ネット : 「タンス預金」30兆円 日銀推計、2007年の滞留1万円札
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080823AT2C2201L22082008.html
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 日銀は22日発表したリポートで「タンス預金」など使わないまま滞留する1万円札は、2007年平均で30兆円に上ると推計した。
 1990年代半ば以降の金融システム不安で、高齢者を中心に定期預金をおろして現金で持つ動きが広まった。長引く低金利も影響している。

 1995年の滞留1万円札は1兆―5兆円程度とみられ、10年余りで大幅に増えた。

 リポートは同様の手法で普通預金残高も分析。
 2007年度の約310兆円のうち120兆円が、財・サービスの購入に充てられず口座に置いたままの資金と試算した。
 (2008年8月22日 21:17)



 なら、問題はそれをきれいにする方策がとられているか、である。

 「赤ん坊のそばに硬貨をおくな」とは、よく言われる言葉である。
 赤ん坊はなんでもしゃぶる。
 十円玉であろうと、百円玉であろうと、何でも口にいれて嘗め回す。
 硬貨はきれいになるであろうが、雑菌に対する抵抗力の少ない赤ん坊はどうなる。
 危険この上ない。
 よって、赤ん坊のそばに硬貨をおくな、ということになる。
 つまり、「硬貨は汚い」という認識の上にたっている。

 ではなぜ、そんな汚いものをほっておくのだろう。

 汚いものをきれいにする方法はいろいろある。
 家なら掃除をすること。
 モノなら洗濯すること。
 体なら風呂に入るかシャワーを浴びるかして、石鹸で垢などを落とすことである。

 貨幣はモノである。
 なら、きれいにするには洗濯するのが一番いい。
 とすれば、日本の貨幣は「洗濯できるか」という問になる。
 コインはできる。

 紙幣は。
 できない。
 洗剤を使わずとも水に浸しておくだけでも、多くのヨゴレは落ちる。
 これができるか。
 できない。
 なら、こうなる。

 「日本のお札は汚い」

 間違いのない結論。
 ではなぜ、きれいにしないのか。
 理由は簡単。
 できないから。
 なぜ、そんな簡単なことができないのか。
 「紙で作った」から。
 だから紙幣。
 でも、それは昔のこと。
 現在の日本の技術力では、それを上回ることなどなんでもないこと。


 Wikipediaを見てみる。

 ポリマー紙幣
─────────
 「ポリマー紙幣」(ポリマーしへい、英語 polymer banknotes)は材料として合成樹脂を使用した紙幣である。
 「プラスティック紙幣」とも呼ばれる。
 オーストラリア準備銀行 (RBA) とオーストラリア連邦科学産業研究機構 (CSIRO) の共同開発によって作られ、1988年に通貨としてオーストラリアで発行されたのが最初である。
 また同国の技術供与もしくは受託生産によって現在世界20カ国以上で同様な紙幣が製造・発行され流通している。

 従来、紙幣に用いる紙の原材料として、耐久性がある麻や綿(日本では楮や三椏)が使用されてきた。
 だが、これらの材質は一般でも調達可能であり、偽造紙幣を製造することも可能であった。

<略>

 その後、現在見られるようなポリマー紙幣がオーストラリアで開発された。
 ポリマー紙幣の導入目的は通貨のセキュリティを向上させるものであった。
 オーストラリアでも1967年に通貨偽造事件が発生しており、近年のカラーコピーの飛躍的な性能向上に伴う偽造事件の増加が懸念されていた。
 そのため1968年からRBAはCSIROとの共同研究を始め、紙幣に対する偽造防止として1972年に提案された技術が基になった。

 この技術とは透明な合成樹脂のフィルムに白いインクを印刷し不透明化したうえで、伝統的な印刷を行い、その上に流通しても磨耗しにくくする保護膜をコーティングするものである。
 またOVD(特殊ホログラム)を入れる部分は印刷をしないため、向こうが透けて見える。
 またこの合成樹脂による紙幣用紙は非繊維質かつ非多孔性の素材であり、紙による紙幣と比べて、耐久性や防水性にすぐれ耐用年数が長く、機械加工がしやすいうえに引き裂きにくくて、リサイクル可能である。

 難点といえば生産コストが高く「熱に弱い」こと。

 そして従来の紙による紙幣よりも手捌きが異なるため、現金自動支払機で扱うために特別な技術を開発する必要があったことである。

 だが、ポリマー用紙の確保と高度の技術が必要であるため偽造するのが困難であり、カラーコピーに対する偽造防止技術をポリマー紙幣に盛り込むことも可能であるため、紙幣の偽造抵抗力が飛躍的に向上した。
 またコスト高であっても長持ちするため結果的に安上がりになる利点がある。
 そのため、オーストラリアなどでは一般に使用頻度が高く寿命の短い低額面からポリマー紙幣が導入された。
 1992年になって、オーストラリアは全面的に流通する紙幣をポリマー紙幣に移行することを決定し、1996年までに実施した。

 1993年にインドネシアもスハルト政権25年を記念する50000ルピア紙幣を発行し100000ルピアの最高額流通紙幣もポリマー紙幣に変更(現在は紙の紙幣に戻されている)された。
 その後も1999年5月3日にニュージーランドが5ドルから100ドルまですべてポリマー紙幣に置き換え、ベトナムやルーマニアも同様にポリマー紙幣に置き換えている。

 またポリマー紙幣で記念紙幣を発行する事は世界各国で続けられており、たとえば台湾の中華民国中央銀行が1999年6月にニュー台湾ドル50周年記念50ドル紙幣をポリマー紙幣で発行したほか、中華人民共和国の中国人民銀行も2000年11月にミレニアム記念100人民元紙幣を発行している。

 通常流通する紙幣として一部の券種であるが2005年にはメキシコ、2007年には香港の10ドル政府紙幣、2008年にナイジェリアとイスラエルでポリマー紙幣に移行するなど、世界各国で発行されるようになってきている。





● ポリマー紙幣


 熱に弱いという弱点を除けば、そこそこ優秀なお札素材といえる。
 さらに、もう一つ、サイトを見てみる。


★ ポリマー紙幣の特徴
http://www.tradition-net.co.jp/door/door_money/main_aud.htm
─────────────────────────────────────────
 1988年記念紙幣としてポリマー紙幣が世界で初めて発行されました。
 1992年、5ドル札から一般紙幣にも徐々に導入され、1996年に現在流通している全ての豪ドル札はポリマー製になりました。

 なぜポリマー製にする必要があったのか。
 それは清潔で長持ち・偽造されにくい、といったことが挙げられます。

 環境保全に積極的なお国柄、当然、紙幣もリサイクルを考えています。
 従来の紙のお札だと木を伐採しなくてはならず森林破壊にも繋がりかねません。
 また、紙幣の平均寿命はたったの6ヵ月。
 しかしポリマー紙幣ならば2年以上は長持ちするのです。
 使用頻度の多い額面など多少の差はありますがほぼ4倍は長持ちするということです。

 もう1つの特長は、偽札をつくるのがほとんど不可能だということです。
 ポリマー紙幣には3段階のセキュリティーが設けられており、この技術は、物理学やバイオを応用したもので、パスポートやチケットにも有効だということです。

 セキュリティー
──────────
 透明フィルム(窓)(上の写真参照) 紙では不可能
 紫外線 紫外線により光る部分がある
 準備銀行だけが判別できる項目 企業秘密



 ポリマー紙幣を上回る紙幣素材は開発できないのか。
 できそうな気がする。
 高速増殖炉を造れ、といっているわけではない。

 では、なぜやらない。
 日本の技術力から判断すると、すなわち「やる気がない」。
 そういっていい。

 予防医学が発達している現在、「洗えるお札」が出来ていても、何の不思議も疑問もない。
 あって当たり前だと思う。
 でもそれがない。


 面白い質問が「Yahoo知恵袋」にあった。


★ 日本の紙幣ってなんだか気品あふれているような気がします。 どうして ...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015571915
───────────────────────────────────────────────
 日本の紙幣ってなんだか気品あふれているような気がします。
 どうしてこんなに美しいのですか。
補足:
 美しい日本の美しい紙幣・切手・印紙…。
 これも日本の素晴らしい職人さんの印刷技術(線描・透かし・特殊インク・非木材紙)の賜でしょうね!

 ベストアンサーに選ばれた回答
────────────────
 米国に駐在し、欧州も西欧だけでなく、ロシアや東欧や中欧を含めて出張したことがありますが、日本の紙幣ほどよくできている紙幣はありません。
 世界一といってよいでしょう。

 まず彫像技術が繊細で丁寧で素晴らしいです。
 次に印刷技術の美しさはおそらく世界一です。
 これは一般の印刷技術が日本がおそらく世界一といわれることの反映でしょう。
 日本のカレンダーなど欧米でモテモテです。

 最後に紙質が他国に追随を許しません。
 日本の紙幣には和紙の原料のコウゾ、ミツマタが使われており、しわになりにくく破れにくくいつまでもきちんとしています。
 他国の紙幣はすぐくちゃくちゃになります。
 諸外国もそれは知っており、日本はコウゾ、ミツマタを紙幣用に輸出しています。

 なおその代わり硬貨はどうも日本はいけません。
 もっと凝ったものを造ればよいのにといつも思います。


 ベストアンサー以外の回答
───────────────
その1:
 紙幣にせよ切手にせよ、専門の技芸官という役職があり、採用は大変に狭き門です。
 採用時点でデザイナーあるいは画家として、非常に高い技量が要求されます。
 いつ変更されるかわからない紙幣のデザインと生産技術を、日々、黙々と研究しています。
 日本の紙幣印刷は元々、ドイツの技術を基本としています。
 デューラーの作品に代表されるように、ドイツには銅版画の格調高い優れた伝統があります。
 他のヨーロッパの国が石版の技術を基本にしています。
 銅版画は線による表現
 石版画は面による表現が得意です。

 また日本には木版画の優れた技術がありました。
 木版画は繊細な彫りによる線の表現と、微妙な濃淡を生かした色刷りの表現です。
 日本の紙幣にはドイツの銅版=線と、日本の伝統的な木版=色刷りの技術がうまく調和していると言えます。
 初期の紙幣にはヤマトタケルや神武天皇などが肖像として採用されたため、色彩も自然と古式豊かなものになっていきます。
 現在もこの日本の伝統的な色使いを踏襲していると言えるでしょう。
 さらに強度がありながら繊細な再現を可能にする和紙の技術がありました。

 これらの条件が重なり、日本の紙幣は大変美しいものになっていったと考えられます。

その2:
 確かに日本の紙幣は良いって聞きます。
 海外に出かけたことが何度かありますが、あっちはしゃれっ気がある気がします。
 星の王子様を記念した紙幣とか出てますが(今は入手無理?)すごく可愛いです
http://www.geocities.jp/seiya4726/sekai_no_shihei_01.html

その3:
 やはり印刷技術が優れているのでしょう。
 紙幣だけでなく、切手の印刷も世界的に見ても高レベルなのではないかと思います。

その4:
 せっかくデザインはよくできるのだからやってしまおうと言う事では?
 それに日本の技術があればそのデザインを全ての紙幣に安定して印刷する事が出来るということもあると思います。

その5:
 素材がいいからです。



 日本から来た人は必ず、上に似たような感想を述べる。
 日本のものはすべていいと頭から信じ込んでいる。
 こちらに住み日本に行くと、いつも同じように思うことがある。

 「日本の紙幣は、何でこんなにチャチで安っぽいのだ。紙っぺらではないか」

 「技術大国日本にはふさわしくない紙幣だ」と感じ入る。
 やたらと、繊細にできていることのみがいいわけではない。

 誰でも常に「自分のところが一番」という考えにとらわれている。
 まず結論ありきで、そこから理由を引き出してくる。
 これは人間のサガでしかたがないこと。
 誰でも自分の住んでいるところが一番いい。

 つまり、
 「日本の紙幣が一番いいと思うのは日本人だけ」
だ、ということ。

 でもいくら紙幣が芸術作品であっても、「汚く、病原菌の伝染ルート」になりうる可能性があるなら、これは一段「劣る紙幣」といっていい。


 洗えるお札を開発し、銀行はすべてに「コイン・紙幣洗浄機」を取り付けることを義務化し、持ち込まれた貨幣はすべて洗浄し、銀行から出ていくものはみな汚れや雑菌のない「清潔なお金」にすべきではないだろうか。

 そういうことをやっている国が他にないなら、日本がまず最初にやるべきではないだろうか。
 そういう、安心感をもたせても悪いことはない。
 それこそが、「価値ある貨幣」であろう。

 「国家の品性にみあう紙幣」であろう。

 その程度のことができないほど日本がヤワだとは思えない。
 刑事を除けば、選挙違反と貨幣偽造は最も重い罪になる。
 それほどまでに貨幣とは重要なもの。
 なればそのくらいの費用を捻出したところで国家が大きな損傷を受けるわけでもあるまい。

 「現金引出機」はタッチパネルである。
 光の加減で前の人の指の指紋がくっきりと浮かびあっていることがある。
 ハンカチで指を包んで触ろうかと思うことがある。
 さほどに、人間の手は汚れている。

 「外から帰ったら手を洗いなさい」と親は言う。
 貨幣は銀行から市中に出回る。
 なら、銀行に戻ってきたら洗浄するのが理にかなっている。

 紙幣の耐用期間は約6ケ月ほどだという。
 6ケ月もの長い間、汚れたままで市中に放置していいものか。
 一般常識で考えて、どうもおかしい。
 もし、放置したままでいいなら、子どもに「手を洗いなさい」などと言うべきでない。

 現金引き出し機から出てくる紙幣が必ず洗浄されており、間違いなく「きれいな貨幣」であるなら、こんなに「心なごむ」ことはないだろう。
 それが豊かさ、ゆとりというものだろう。
 それが出来ないほど、日本の技術は劣っているのか。
 文化水準は低いのか。

 もしそうなら、日本紙幣のレベルの高さの能書きを百万遍並べてみても、まるで説得力はない。
 「日本の紙幣は決して美しいとは言えない」、ように思えてくる。

 美学とは絵柄か、それとも行動か。

 「国家の品格」とは、そういうものだろう。




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2008年8月11日月曜日

免許更新:脳死の質問


● 免許更新書類(表) <見本>


 免許更新:脳死の質問
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 先般、運転免許の更新をしました。

 免許期限の2カ月ほど前に、郵送で書類が送られてきます。
 それが「免許が切れますよ」という案内になります。
 といってもA4版1枚、裏表に書き込むだけの簡単なもの。

 それに記入して窓口にいって、所定の欄に日付とサインを係官の前で書き込みます。
 更新料を払って、横のブースでインスタント写真を撮ります。
 先にしたサインと写真が載ってコーテイングされた免許証がものの5分でできて、「はい、終わり」です。
 昔よりは若干はよくなっていますが、相変わらず本人かどうかの認識ができないのではないかと思うほどのほどの写真の悪さ。

 更新手続ですが「視力検査」がありません。

 これ、大丈夫なんでしょうかね。
 心配になります。
 そのせいか、インターネットでも更新ができます。

 昼間はどうということもありませんが、夜は怖いのではないでしょうか。
 実際、私も夜、メガネなしで走ってみました。
 怖いです。
 まあ、交通量の少ないところですので、慣れれば何とかなるだろうということは確かですが。

 ここでは夜間歩いている人はほとんどありません。
 広い歩道を歩いていれば歩行者も安全であることは確かです。
 でも、ときどきライトなしの自転車に出会うときはドッキリものです。
 暗い中、突然道路脇に自転車を見つけたときは、背筋に汗が流れます。

 ですので、暗い道はなるべく中央車線をまたいでを走るようにしています。
 そういう走り方をしても、危うくないほど車が少ないということでもあります。

 自転車に「電灯をつけねばならない」という法律はないのです。
 よってライトがついた自転車を見たことがありません。
 おそらく、自転車屋さんにもないのではないかと思います。
 というのは、自転車ライトを設置するための前方中央の「L金具」がないのでつけようがありません。

 日本の荷台のついた物を運べる式の実用自転車は見たことがありません。
 スポーツ用の自転車ばかりです。
 時々、後ろに子どもを乗せる椅子のついている自転車は見かけます。

 自転車の運転で日本と大きく異なるところはヘルメットをかぶること、これは徹底されています。
 していないとポリスに捕まります。
 自転車については何をしてもほとんど目をつぶっているポリスですが、このヘルメットの着用についてはウルサイです。
 日本では最近、ママチャリで3人乗りの自転車の基準が検討されているようですが、ヘルメットの着用は検討した方がいいように思います。。


 以前は、ちゃんと「視力検査」はありました。

 それでメガネを作ったのですから。
 もちろん、「色盲検査」などは前からありません。
 縦信号、横信号の赤・黄・青信号の位置は法的に決まっていますので、どの位置のライトが光っているかで、十分認識できます。

 免許更新の際に日本では「講習会」があって、法律が改正されたりするとその解説をしたり、あるいはスライドで事故の原因などを聞かされますが、そういうことはここではありません。
 というより、その必要がないほどに交通はスキスキということなのでしょう。
 道は広く、細い路地がまったくなく、そこにも歩行者がほとんどいないため、「飛び出し」がないという環境ですので、しつこく講習会を開くこともないのでしょう。


 私の日本での免許は更新できないので、すでに切れています。
 ここでは、海外からも更新できます。
 先般、日本にいる娘が免許が切れるのでというこということで、インターネットで調べて、処理したことがあります。

 まず、インターネットでダウンロードした書式に必要な書き込みをします。
 その内容が正しいことを、規定の地位のある人に証明してもらいます。
 その資格のある手っ取り早い人は「医者」だそうです。
 そのサインをもらい、それに写真を添付し、古い免許証と登録費用をつけて送ると、折り返しに新しい免許証が送られてくるという仕組みです。
 免許更新の金額には更新料と、海外書留料金が含まれています。

 ちなみに、この写真は自分で用意したものを同封するので、きれいなものが使えます。
 とういうことは、他人の写真を貼ることもできる、ということになる。
 旧来の顔を大きく変わっていたら「申請を拒否」できるという、規約があるのではないかと思いますが。
 でないと犯罪の温床になってしまいます。

 ではこの外国の「医者」というのはどうして証明するかという疑問が出てきます。

 その証明手段があるはずもないのです。
 近くの開業医の名前を無断借用して、勝手に「サイン」をでっちあげたそうです。
 こちらの人が日本語の名前など、分かろうはずないのです。
 ということは、ほとんど証明にならない、ということになります。
 その程度のもの、ということでしょうか。

 費用ですが、通常はカードで行います。
 今回は、私の小切手を使いました。
 日本では、随分昔に廃れてしまった小切手ですが、ここでは今も生きています。
 しかし、昨今は小切手よりもカードの方が信頼性が高く評価されています。

 以前に永住権ビザの更新をしたときは、カードは使えませんでした。
 「カードでできますか」と尋ねたところ拒否されました。
 よって小切手で済ませました。
 先日、再びその更新がありましたので、前のことがあって小切手をもっていきました。
 ところが今度は逆に「小切手は使えない」と言われてしまいました。
 時代と共に代替サービスの価値とは変動するものだと勉強させられました。

 日本では現在どうなっているのでしょう。
 こんな安易な方法で外国から免許証を更新することができるのでしょうか。

 なを、更新料ですが、最高5年で68ドル(6,800円)でした。
 1年単位で、たとえば2年でもできます。
 以前は1年11ドルで、5年だと55ドル(5,500円)だったようなおぼろな記憶があります。
 この5年で2割強値上がったということになります。

 2年分だけ更新したいというときは、30ドルほどで済みます。
 引越しが日常事のこちらでは、いつ州を越えるかわからないので、そういう形をとることになるのでしょう。
 州を越えるというのは、国(共和国)が変わるということになり、交通規則はその州(国)によって異なってきます。


 最初に免許を取得したときだろうと思いますが、ビックリするような質問がありました。

 「脳死状態になったとき、内臓を提供しますか」

 それが、公式の質問として載っていたのです。
 こちらは「脳死」をもって「死亡」としています。
 ですから、これにマークしておきますと「臓器提供者」として登録されることになり、交通事故で脳死状態になると、関連する手続きがとられることになるのではないかと思います。

 「あなたは交通事故を起こし、脳死者になります」よ、と言われているようでイヤーナ気分でした。
 ちなみに日本では「家族の同意」といった、ややこしいことがありますが、ここではありません。
 家族よりも本人の意志が尊重される個人主義のお国柄です。

 免許を取るにそんな質問が出てこようとはまるで予想もしていませんでしたので、このときは「うー、どうしよう」、と考え込んでしまいました。
 どれを選択してもさほどのことはないのですが、こういう質問を公的に明文化されて問われると、人間弱いものです。
 自分の無節操な気弱さを非難されているような気分になってきます。
 そのときは答えようがなかったので、「まだ、決めていない」にマークしました。


 それから、どちらかというとあまりかかわることのなかった、「死」ということに関して考えるようになりましたから、「きっかけを与えてくれた質問」であったともいえます。

 ちなみに、もし今、同じような質問が出されたらどうするか。

 まちがいなく「イエス(提供する)」にマークすることでしょう。
 そして、家族の同意は一切不要となります。
 でも古錆びた老人の臓器など使えるところがあるのだろうか、そこが心配なのですが。
 使えるなら、どんどん使って欲しいものだと思っています。

 「脳死」については日本ではいっとき国論を二分するような論争がありましたから、インターネットを検索したらケンケンガクガクの山のようなページが出てくることでしょう。

 このことは何しろどう考えても、人間一度は通る道についての問題で、避けて通ることは出来ない道筋です。 自分だけは別、というわけにもいきません。



 交通違反はどうなっているでしょうか。

 やはり一番うるさいのは飲酒運転とスピード違反。
 飲酒運転だと、即免許停止になります。
 ところがこの免許停止、車の運転ができるのです。

 「免許停止で運転ができる、そんなバカな?」。
 素朴な疑問です。

 ここは車社会です。
 「運転できない」とは「働けない」ということになり、それは「生活できない」ということになります。
 初犯のような悪質でないものなら、一般での運転はできませんが、業務上での運転が許可されています。
 軽い過失程度では、個人の生活権利までは奪えないということです。

 アルコールチェックはいつどこでもやっています。
 平日の午後の2時半にひっかかったことがあります。
 夏休みとかイースターホリデイ中とかなら理解できますが、なぜ、こんな時間に、こんなとこでという形で行われるときがあります。

 パイプに息を吹き込むと、それにつながったメーターにアルコール濃度が表示されますが、このとき免許証の提示はない。
 日本ならまず「免許証拝見」とくる。
 ここでは、パイプに息を吹き込むだけ。
 アルコールが検出されなければ、それで放免される。
 「免許拝見」は違反や事故を起こしたときのみで、それ以外は提示を求められないのです。


 スピード違反は免許停止か罰金かが選択できます。

 娘は3週間の免許停止にひっかかりました。
 ところが、1万5千円:150ドルの罰金を払えば免許停止を免れます。
 手続きをとらないと、免許停止が実行され、罰金を払えば免許停止が免除されます。
 日本へいく予定があったので免許停止のままにして、日本へ行ってしまいました。

 なを、個人の違反は日本と同じポイント制で、過去3年間の累積点数が12ポイントで免停処分になります。
 4年以上前のものはチャラで加算されませんので、常に最近3年間の違反のポイントを計算しておく必要があります。。


 スピード違反は運転者個人にはきません。
 車の所有者にきます。

 息子が免許をとってまもなくの頃、スピード違反をやらかしました。
 ちなみにスピード違反はスピードガンでやり、その速度記録と車の写真が車の所有者に送られてきます。
 夜のことで、それも後ろからナンバーだけはしっかり写るようなアングルからの車の写真で、これだけでは誰が運転していたかはわかりません。
 息子はいわゆる「わかばマーク」期間でしたので、私が運転していたことにして、罪の肩がわりをし、罰金を払いました。
 もちろん、違反代金は息子から徴収しました。

 ということは、その人のポイントが多くなり、これはヤバそうだとなったら、誰か家族のうちポイントの少ない人に肩代わりしてもらうこともできるということでもあります。

 昼間だとスピードガンは前方から捉えます。
 よって、運転席も写ります。
 顔まで正しく判別するまでには至りませんが、アウトラインは撮られており、着ているものや体つきなどからして、車の所有者にとっては誰であるかはすぐに識別できるでしょう。
 われわれが外国人はみな同じように見えるのと同様に、男女別を除けば、東洋系では身代わりを立ててもバレるということはありません。


 もし、罰金を払わないとどうなるか。
 1年毎に行われる車の登録ができなくなり、以後その車に乗れなくなります。
 よって、登録更新日に廃車してしまうならいいのですが、それ以外では車の所有者が罰金を払わざるを得なくなります。
 もちろん、廃車時に罰金を徴収されますが。


 業務用の車はほぼ「3倍」の罰金が請求されます。

 会社名義で登録している車だと誰が運転していたかが特定できない場合があります。
 そのことに対する処置であると思います。
 そのとき運転していた人が名乗りでれば、その運転手に対する平常の罰金になり、その運転者の免許証のポイントが減点される仕組みになっています。

 たとえば、もし運転者のポイントがゼロに近づいており、この違反を認めると以後、免停となり運転が出来なくなるというときは、会社にその3倍のお金を渡して支払ってもらえば、それでチャラになります。

 ですから、経済的にゆとりのある人は、所有する車を会社名義(個人商店ならその商店名)で登録し、違反したら会社が払うようにして、いくらスピード違反をしても個人の免許には一切キズがつかないようにすることもできます。
 もちろんそのときの会社の支払いは3倍になります。

 つまり、「抜け穴がある」ということです。
 でも、当局は間違いなく罰金を徴収できるという仕組みになっています。
 日本の場合は運転者を特定できない場合は、罰金の徴収はできない仕組みになっていると思いますが。
 そのため「ネズミとり」になってしまうのでしょう。


 事故を起こしてしまった場合はどうでしょうか。
 何しろ、ポリスの数が少ない。
 電柱の後ろに隠れていて、どうでもいいような違反に目を光らせる日本の警官のように、こちらのポリスはヒマではない。
 よって、法規に人身事故でなく、かつ修理費が「25万円:2,500ドル」を越えることのない事故では、ポリスを呼ばなくてよい、と唱ってあります。
 つまり当事者同士が相対で決めろ、ということになります。
 日本でも、特別な事情でないかぎり同じだと思います。

 ただ、それを法律でうたってあるかないか、その差が国の違いということになると思います。
 「ポリスは忙しいのだ」、つまらんことで呼んで欲しくない、ということです。


 参考に運転免許証のとり方について、書き留めておきましょう。
 もしかしたら、ちょっと古い制度になっているかもしれませんが、こんな具合です。

 まず「仮免許」をとりにいく。
 法規の試験のみ。
 20問の五問択一。
 合格点は80点。
 ただし、そのうちの基本的な問題がいくつかあって、これを落としたら80点でもだめ。
 また、仮免許の期間は「1年間」、そのうち始めの6カ月は本試験の実技試験を受けられない。
 つまり最低でも6カ月間は仮免許で練習をしなさいということ。

 日本の場合は6カ月以内に本試験を受けないと無効になってしまうが、こちらは「6カ月以降」でないと本試験を受けさせてくれない。
 ただ日本の場合は、仮免を取得するまでに相当の運転時間を消化していますので、一概に比較できません。
 その間、運転免許証を保持している人を横にのせれば、仮免運転可能となる。

 実技試験に合格すると運転免許証が交付される。
 よって、ペーパーテストは仮免許のときの「1回のみ」である。
 いくら仮免とはいえ、法規のペーパーテストは本免と同じでないとおかしい。
 その免許で路上を運転するのですから。
 ということは、仮免許試験で法規を通過すれば、本免で再び法規試験を行うということは、基本的に間違いといえる。
 私が日本で免許をとったころは、仮免と本免で2回ペーパーテストを受けなければならなかったはずですが、今の制度ではどうなっているのでしょう。


 運転練習は、まず始めは夜の車のいなくなったショッピングセンターの駐車場からはじめる。
 日本のような「自動車教習所」というところはない。
 自動車教習所が小さく見えるほど、ショッピングセンターの駐車場は広い。
 車の運転練習場がすぐそばにあるというのが便利なところ。
 練習にこんな至便なところはない。
 アクセル、ブレーキ、ハンドルの基本操作ができれば、ショッピングセンターの周りの一般道をゆっくりグルグル廻って、対向車への恐怖感を取り除くようにする。
 それが終われば、本免許者を横に乗せ、もう仮免許でいつでも街中を走っていい。

 路上運転をこなせるようになったら最後は、ドライビングスクールの人にきてもらい、何回かやって、試験に合格するための基本的なテクニックを教えてもらい、それをマスターすれば、いよいよ実技試験となる。
 運転しなれたドライビングスクールの車を持ち込んで試験を受けることになる。
 手続きはすべてドライビングスクールの先生がやってくれる。
 先生が家にきて、そこから陸運局まで練習がてら運転し、本番に臨むということになる。

 仮免許を受けてから6カ月から1年以内の間に実技試験を受けること、これが制約になります。
 なを1年で仮免許は切れますが、これも手続きすればその場でもう1年更新できます。
 家のものも実際に、仮免許の期限切れをやらかしましたが、すぐに新しい仮免許証を発行してくれました。
 もちろん、テストなどはありません。


 免許の種別にはマニュアル車とオートマ車があります。

 これは日本と同じです。
 オートマ車の免許を持っていれば、横にマニュアル車の免許保持者を乗せて、おおぴっらにマニュアル車が運転できる。
 別にそれようの仮免許などいらない。
 なんとなれば、法規の試験はオートマ車をとったときにすでにパスしていることになり、もう法規は合格していることになっている。
 合理的にしてあたりまえといえば当たり前、理論的には正しい判断である。

 よって、あとはマニュアル運転技術を磨くだけでよいことになります。
 そういう能書きでマニュアル車が自由に運転できることになる。
 ただし、マニュアル免許者は必ず助手席にいないといけないが。




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【追記】


★ 朝鮮日報 2009/01/25
http://www.chosunonline.com/article/20090125000012

【萬物相】臓器提供

 スペインでは交通事故や病気で脳死者が発生した場合、医療陣はすぐさま臓器移植手術の準備を行う。

 医療陣は、脳死者が書類や日記などで「臓器提供 を拒否する」という意思を表したのか確認を行い、そのような記録がなければ、家族や親族に移植手術の同意を求める。

 遺族がいない場合は裁判所の許可を得 る。

 2000年に公布された王令により、生前に臓器提供を明白に拒否しなかった場合は提供するとものと見なされる。

 スペインの人口は4300万人と韓国より600万人ほど少ないが、一昨年の臓器提供件数は1400件と、148件の韓国の約10倍に達する。
 人口 100万人当たり33人が提供しているわけだ。
 一方韓国は3.1人にすぎない。
 スペインでこれほどまでに臓器提供者が多いのは、臓器提供に関する王令もさ ることながら、潜在的提供者を調べ、提供を奨励するシステムにある。
 また、病院には遺族の説得を担当する専属の医師や看護師がおり、遺族の80%が同意す るという。

 臓器提供には、脳死時の提供と死後の提供、生体提供がある。
 脳死時は腎臓や肺、角膜を二人に提供し、肝臓、膵臓(すいぞう)、心臓、角膜を合わせ ると、多い場合は11人を救うことができる。
 死後の場合は角膜移植だけが可能だ。

 また生きている場合は、二つの腎臓のうちの一つ、肝臓、骨髄、膵臓の一部 を提供することができる。
 2000年に脳出血で亡くなり、心臓、肝臓などを6人に提供した30代の男性が韓国初の臓器提供者だ。
 死を目前に控え、最後の頼みの綱である臓器移植を待ち続ける人は韓国の場合、1万8072人に達する。
 待機者が最も多い臓器は腎臓で、以下は肝 臓、骨髄、角膜、膵臓、心臓、肺の順。肝臓は6年、肺は4年4カ月、心臓は3年10カ月待たなければならない。

 昨年臓器の提供を受けた患者の平均待機期間 は375日に達した。
 にもかかわらず、昨年国立臓器移植管理センターに臓器提供の意思を示した人は約9万人と、2006年に比べ4万人減ったという。

 臓器提供の申請手続きは複雑でややこしい。
 米国は、運転免許証を発行する際に提供意思を確認し、免許証の前面に明記する。
 韓国も昨年9月に同制度 を導入したが、希望者の申請しか受け付けないため、提供者は1万8000人にすぎない。
 また家族間の生体提供以外は、臓器の違法売買を防ぐという理由で、 提供者の財産目録まで要求される。
 臓器提供者は保険への加入も容易ではない。
 臓器提供を奨励する社会的な取り組みとシステムが急がれる。



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2008年8月5日火曜日

ウラン1:単能エネルギー

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ウラン1:単能エネルギー
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 原子力でウエブサイトを検索してみると、その内容は大きく2つになるようです。
 一つは科学的・技術的なもの、もう一つは安全性に関するもの。

 なにしろ、日本は原爆を落とされた唯一の国。
 たった1個のバクダンであれほどの「物理的パワー」があるとは信じられない。
 それだけなら、うまく制御できれば非常な量のエネルギーを取り出せる宝の山。
 しかし、そうはいかない。
 でかいオマケがついてくる。
 「化学的危険性」、いわく放射能。


 下記のホームページのレポートを抜粋コピーします。

★ 愚かな核=原子力利用 京都大学原子炉実験所 小出裕章 2007年07月07日
http://cnic.jp/files/070707koide.pdf

今日、標準的となった「100万Kw」の原子力発電所は、広島原爆で核分裂したウランに比べて「約千発分(1,250発)」のウランを毎年燃やし、それだけの「核分裂生成物(30トン)」を生み出します。
 一方、六ヶ所再処理工場は、原子力発電所約30基(27基分)が1年毎に取り替える量に相当する「800トン」の「使用済核燃料」を毎年取り扱います。

 六ヶ所再処理工場で平常運転時に放出が予定されている放射能のうち、被爆に最も寄与すると考えられている放射能は「クリプトン」「トリチュウム」「炭素14」の3「核種」です。
 日本原燃はそれらの核種は「フィルタでは取り除けません。----十分な拡散・希釈効果を有する高さ約150mの主排気塔、沖合い3km、深さ44mの海洋放出口から放出します」と書き、全量を放出するとしています。

 六ヶ所再処理工場は、経済的な理由からクリプトン、炭素、トリチウムの捕捉は行わず、「十分な拡散・希釈」をさせるという言い訳の下、それらを全量環境に捨ててしまいます。
 六ヶ所再処理工場が毎年放出する「Kr-85」、「炭素14」などは全地球規模に汚染を広げ、全世界では「7,400人・シーベルト」の被爆を与えます。

 1,000人/1万人・シーベルトという「がん死」の「リスク係数」を当てはめれば毎年「約740人」、40年の操業では「約3万人」が「がん死」することになります。


 毎年740人が「がん死する」ことになるという。
 大変なことである。
 これまで再処理を依頼していたイギリスではソ連のチェリノブイリ事故の半分に相当する放射能をアイリッシュ海に流していたという。

 とすれば27基分の処理を行う六ヶ所再処理工場より大きな数の「がん死」データがイギリスあたりから上がってきているはずである。
 イギリスは「データ隠し」はしないと思われるので、どこかに公表されているであろう。
 できれば、そのデータをこのレポートに入れてくれれば、ひじょうに分かりやすくなったのだが。

 イギリスや原子力立国であるフランスあたりで毎年「740人」を上回るような死者データが出ているとしたら、これは即刻、原発は中止すべきであろう。
 いまのところ日常情報としての新聞テレビでは、そういうニュースを聞いたことがない。
 現在のところはこれは「確証性のないデータ」と判断して、先に進みたいと思います。

 というのは、この辺はそれが「許容の安全」以内あるのかどうか、素人にはちょっと難いためです。


 産業革命以降の人類のエネルギー消費を支えたのは化石燃料です。
 特に、現代の西欧型文明が主として依拠している石油については、その枯渇が懸念されてきました。

 では石油はいつ枯渇するのでしょう?
 それを考えるために、石油の可採年数推定値の変遷を図3(略)に示します。
 1930年における石油可採年数推定値は「18年」で、それは長く続く戦争の強力な動機の一つとなりました。
 それが10年たった1940年には、逆に「23年」に延びました。
 しかし、それでも石油権益を確保することは列強諸国の深刻な課題であり続け、第二次世界大戦の動機となりました。
 本来であればこの時点で、石油可採年数推定値には大きな不確かさがあり、それには単純な石油埋蔵量の推定だけでなく、世界の政治状況、個々の国の事情、経済的な思惑などが複雑に絡み合っていることをしっかり認識すべきでした。
 それから10年たった1960年には、石油は枯渇するどころか、可採年数「35年」に延びました。
 それでも、石油があと30年程度しかもたないというすいては、人類に対して化石燃料の枯渇を心配させるに十分な力を持っていました。
 しかし、それから30年たった1990年になっても石油は枯渇するどころか可採年数は「45年」に延びたのでした。

 最新の可採年数推定値は「50年」にまで延びています。
 おまけに、地下資源には確認埋蔵量の他にも潜在的な資源があることが推定されていて、石油の究極埋蔵量を使い切るまでには100年の年数が必要とされています。


 「石油枯渇1」の没頭で紹介したように日本石油鉱業連盟の2007年の発表によると、では可採年数は「54年」に延びており、潜在的資源量は「14年」で、合わせて石油枯渇まで「68年」としています。
 ちなみに、2002年では、「79年」であり、そこから「68年」へと、「11年」短縮されているという。
 ということは、これまで延びていた可採年数推定が頭打ちになってきたということであろうか。

 さらに、レポートの石油を「100年」で使い切るということは、「21世紀で終わり」ということになる。
 22世紀の人はどうやって、どのような主要エネルギーを確保するのだろう。


 使えばなくなる資源を「再生不能資源」と呼びます。
 問うべきは化石燃料とウランの資源量の多寡です。
 地球上に存在している化石燃料とウラン資源の量を、それぞれ発生するエネルギー量で比較して図4(略)に示します。
 再生不能エネルギー資源圧倒的な埋蔵量を誇るのは「石炭」で、それを使い切るまでに「1,000年」かかるほど豊富な資源です。
 世間では「エネルギー危機」なるものが叫ばれ、多くの人はあたかもエネルギー資源が枯渇しまうかのような錯覚に憑かれています。

 しかし、近年急速に消費が増大してきた天然ガスは新たな埋蔵地域が次々と発見されているし、海底のメタンハイドレート、地殻中の深層メタンなど将来が有望視されている化石燃料もあります。
 少なくとも「予測可能な未来」において「化石燃料は枯渇しません」

 逆に、多くの人たちが抱かされた幻想と違って、ウランは利用できるエネルギー量換算で石油の数分の一しか存在しません。
 事実を虚心坦懐に視れば、「原子力の資源であるウランは貧弱で、当面は化石燃料に依存するしかない」というのが正しい表現です。


 将来が有望視されている化石燃料もあり、予測可能な未来において化石燃料は枯渇しない、という。
 「予測可能な未来」の定義がないので、解りにくいのですが、化石燃料があるかぎり、原子力などいらないのです。


 しかし、そういうと日本原燃などは、燃えないウランをプルトニュウムに変換して利用すれば、原子力の資源は「60倍」に増えると主張します。
 しかし、完璧にそれが実現できたところで、せいぜい「石炭に匹敵する資源になるだけ」です。

 その上、高速増殖炉は技術的な困難が多く、一度は高速増殖炉開発に夢をかけた世界の核先進国はいずれも「撤退」してしまいました。
 
 日本の原子力開発長期計画による高速増殖炉の開発が初めて言及されたのは1967年でした。その時の見通しによれば、高速増殖炉は「1980年代前半」には実用化されることになっていました。
 ところが実際には高速増殖炉ははるかに難しく、----2000年の長期計画では、ついに数値をあげて年度を示すことすらできませんでした。
 2005年の「原子力政策大綱」として改定された計画では、「2050年」には初めての高速増殖炉を動かしたいと書かれていますが、そんなことが実現できる道理がありません。


 なんとなんと、1980年代が2050年にまで「70年」も延びてしまったのが高速増殖炉ということになります。
 現代の科学水準からいって、今から「40年後」に実用化したいというのは、ほとんど「言葉の遊び」で、ひじょうに高い割合で見通しが「真っ暗」ということになります。
 まるで見通しが立っていない、といったほうが適正でしょう。

 「高速増殖炉は、まったく見込みがない」と断言しても差し支えないのではないかと思います。


 日本では現在、電力の「30%を超える部分」が原子力で供給されています。
 そのため、ほとんどの日本人は、原子力を廃止すれば電力不足になると思っています。
 また、ほとんどの人は今後も「必要悪」として受け入れざるを得ない、と思っています。

 しかし、発電所の設備の能力で見ると、原子力は全体の「20%」しかありません。
 その原子力が発電量では「30%」になっているのは、原子力発電所の稼働率だけを上げ、火力発電所のほとんどを停止させているからです。
 原子力発電が生み出した電力をすべて火力発電でまかなったとしても、なお火力発電所の設備利用率は「7割」にも達しません。
 それほど日本では発電所は余ってしまっていて、年間の平均設備利用率は「5割」にもならないのです。
 つまり、発電所の半分以上は停止させねばならないほど余っているわけです。


 日本の発電所は通常はフル稼動能力の「50%」で動いている、という。

 昔、大学で安全率についての講義を受けたことがあります。
 うる覚えですが、そのときは安全率は「2」にするのが最もいいと習ったように思います。
 たとえば、「100」のものを求めるとき、その能力「100」のものを1台で動かすというのは危険であり、「100」のものを2台いれ、それを「50」「50」で動かすのが最も最良な形であり、それが「2」であるというものでした。
 ただ、残念なことにその頃は「100」のものを1台入れることすらおぼつかない経済情勢でしたので、日本の安全率は「0.6」くらいである、といったことを聞いた覚えがあります。

 静止的な安全状態を「1」としたとき、そこまでの条件すらを満たすことができなかったのが、その頃の環境だったということなのでしょう。
 それが豊かになり「1」を越え、学校で習った「2」になった、というのが昨今だということのようです。
 つまり、最も安全係数が適正な環境に今いる、ということになります。
 この場合、いかなる非常時にもそこそこ対応できる状態である、ということになります。

 よって、通常時「50%」で稼動いているというのは、もっとも安全にして良好な状態であるといえないこともありません。
 ちなみに、「安全」とは「ゆとり」であり、別の面からみると「無駄」に見えます。
 無駄を取り込むこと、いわば能力一杯でなく「十分な遊び」を持って対応しているということでもあります。

Wikipediaから抜粋してみます。

 「安全係数」「安全率」はメーカー等が工業製品に指定する使用条件の、理論値や実験によって求められる安全のための使用上限に対する倍率である。
 通常、工業製品は材質の経年劣化や環境の違い、想定外の使われ方等、実際の使用環境は多分に不確実性を含んだものであるため、ある程度の余裕をもって設計される。
 例えば、「耐荷重量: 100kg (安全係数 2.5)」のように用いる。この場合、100kgまで使用して良い、250kgで壊れる(または計算上壊れる)という意味である。

 安全率とは、部材が破壊・変形しない応力(許容応力)と、それが破壊・変形する応力(極限応力)との比である。
 通常の設計においては「1.5~2.5」が用いられ、きわめて負荷の大きいものや重大な事故または人命にかかわるものの設計においては「さらに大きな数値」が用いられる。

安全率=σs/σa   σs:極限応力、σa:許容応力

 安全率とは一言で言えばいわゆる設計上の「遊び」なのである。

 安全係数が低い例
──────────
 航空宇宙工学では、安全係数が「1.15~1.25」倍と極めて低い事が知られている。
 これは、安全のための設備や余裕が、そのまま経済性の悪化につながるためである。
 そのため、これらの業界は徹底した品質管理が行われ、また整備に多くの時間をかける。


 この考えを、一般化して当てはめてもとりたてての不都合はないように思えます。

 宇宙工学では安全係数「1.25」は極めて低いという。
 ということは「1/1.25=0.8」で8割操業では、極めて危険だということになる。
もし安全係数の下限である「1.5」としたら「1/1.5=0.67」となり、「2/3」での操業率が安全率として適正範囲ということになるだろう。
としたら、品質管理レベルからみると「50%」は確かに高すぎる。
 言い換えると、さほどに余裕がある日本は、すこぶる豊かであるといえる。

 一般平常時での安全率として「1.5」なら適正である。
 問題発生時において「2.0」なら対応に十分に余裕があるだろう。
 上限の「2.5」は特別の条件がつかない限りムダといって差し支えないであろう。
 例えば、ある機械を修理するに、その発電施設を停止しても、他の施設がその停止分を補ってくれる。

 非常時ではどうだろうか。
 「非常時」とはいかなる事態をいうのだろうか。
 非常時の「非常」という内容が分かれば非常ではなくなる。
 「想定範囲」になってしまう。
 非常とは未知ということであり、想像外の事態をいう。

 神戸大震災では、その原因を説明するのに「活断層」という、これまで聞いたこともない熟語が飛び出してきた。
 そして、7千人が死んだ。
 昨今ではミヤンマーのサイクロン(死者行方不明者14万人)、中国の四川地震(死者7万人)と想定外の出来事が起こる可能性を、常に秘めているというのが、地球という球体の上で生活するものの宿命であることを知らされた。

 非常時とは想定できない事態であるが、そのときに対応するとして「50%」稼動は、平常時では「余っている」が、非常時では「過剰に余っている」とは言いがたいように思われる。
 「豊かである」ならという条件付きだが、その程度の安全性は考慮しても不具合ではない。

 原子力発電所では末端の施設の僅かな被害ででも原子炉は停止する。
 地震の多い日本では、想定の揺れを超えた時には必ず停止する。
 そして、末端施設までの検査が終了するまで、再開はされない。
 原子力とはさほどに微妙な施設であるということである。
 安全度がすべてに優先する施設である。
 また、そうでなければならない施設である。

 原子力発電所をすべて停止し、火力発電所でまかなってもその7割で日本の総発電量をまかなえるという。
 7割稼動なら安全率からいって、ほぼ適正値である。
 非常時を想定しないなら、原子力発電所の稼動分だけオマケになり、日本では発電所は余りの状態であるということになる。

 なぜ、石油発電所でまかなえる状態にありながらも、原子力発電所を造り稼動させようとするのか。
 深夜電力のほとんどは原子力発電であるといわれている。
 なぜ原子力発電所の稼働率を上げ、石油発電所の稼働率を抑えているのか。
 「温暖化」という項目を除けば、その理由は一つしかみあたらない。

 エネルギー問題、いいかえれば「油断」である。


 なを、温暖化の問題だが、例えば東京湾にある火力発電所の年間稼働率は「30%」である。
 たった、30%しか動いていない。
 需要がピークになる日中にはフル回転して、「夜は休止」する。

 なぜなら、東京都の「窒素酸化物規制」のため、終日運転ができないのである。
 「原子力発電所の稼働率だけを上げ、火力発電所のほとんどを停止させているからです」とは、それだけ見れば分かりやすい論理だが、なかなかそうは一筋縄ではいかない。

 なら、30%しか稼動していない東京湾の火力発電所など無駄だ、不要だ、廃止してしまえ、という論もある。
 が、非常時を想定するとそうもいかない。
 以前、クレーン船が川を横切る送電線を切断して、電力供給が間に合わずいっときパニックになったことがあります。
 いつ何が起こるかわからない、予想もしなかったことが起こる、想定外の事態が発生する、それに備えるのが社会施設のもつ裏の仕事でもある。
 表の数字合わせで済むなら、こんなに楽なことはない。
 常に非常時への対応を備えておくこと、もちろんそのときは
「窒素酸化物規制」をはじめとする規制は取り払われる。
 つまり、規制が取り払われるような事態が起りうること、それを前もって考慮しておかなければ社会施設とはいえない、ということである。
 最低限の「地域内対応」の施設は保有しておかねばならない。
 それが、安心して暮らせる社会の要件の一つでもある。
 生活とは、きれい事だけで済ませられるものでもない。


 レポートの締めを上げておきます。

 いったい、私たちはどれほどのものに囲まれて生きれば幸せといえるのでしょう。
 人工衛星から夜の地球をみると、日本は不夜城のごとく煌々と夜の闇に浮かび上がります。

 残念ではありますが、人間とは欲深い生き物のようです。
 種として人類が「生きることに価値があるかどうか」、私には分かりません。
 しかし、もし地球の生命環境を私たちの子どもや孫たちに引き渡したいのであれば、その道はだだ一つ「知足」しかありません。


 人口衛星からみて、最も輝いているのは海上で、それはイカ釣り漁船の「いさり火」が放つ光だそうです。
 ここに、大量の石油が使われていた、ということになる。
 しかし、この石油高でイカ釣り漁は真っ先に「休漁」になったといいます。
 やむ得ない結果かもしれない。
 「イカ」は高価な珍味になる可能性がある。
 イカやマグロを食わなくても、いささかも人間の生存に影響はしない。
 ただ、ちょっとした「美味しいモノ」が消えるだけのこと。

 石油を濫費する業種業職は、このオイル高で淘汰されていくことにならざるを得なくなる。
 石油ストーブで栽培する、ビニールハウス温室農業も淘汰されていく。
 至極単純な物理的条件で、人間の「放埓な欲望」が押さえ込まれつつある。
 歴史の流れが変わってきている、ということなのだろう。
 「知足」ということ、無制限な欲望が押さえ込まれてくる時代に突入した。

 エネルギー量に対応する「知足の時代」に入りつつある、ということである。

 際限のない人間の欲望を、石油というものが、物理的に切り替えてくれるという世紀に一度しか訪れないであろうという「グレイト・チャンス」に恵まれたということである。

 「豊かな社会」を目指すことから、「足りる社会」で満足する生活へと、視点が大きく変わりつつあるということである。

 「適足」ということが、キーワードになる。


 もう一つウエブを見てみます。

★ 嘘で固めた「原発の必要性」
http://ng-nd.hp.infoseek.co.jp/matuo/matuo23.html

 ●原子力は無限のエネルギーか → 原子力(ウラン)こそ貧弱な資源

 「石油や石炭などの化石燃料はいずれ枯渇するので原子力が必要」などという宣伝文句を聞くと、「石油もあと30年でなくなるらしいから、やっぱり原子力かな」となんとなく思ってしまう人が多いようだ。
 石油枯渇30年説は1960年代広く浸透したが、その30年が過ぎた現在、石油はなくなっただろうか。
 もちろん答は「否」である。

 今日での石油の可採年数の推定値は約50年と言われており、さらに未確認のものも含めると石油の究極埋蔵量を使い切るには100年はかかると推定されている。
 一方、石炭となるとその年数は2000年を越えるとさえ言われる程だ。
 もちろん言うまでもなく、これらを使い続ければ、何千年か先にはなくなるということは事実である。
 しかし、このことは原子力つまりウランにも当てはまることであって、単にどちらが先になくなるのかという問題に過ぎない。

 では、ウランが“無限のエネルギー”と言える程石油や石炭より豊かな資源なのか検証してみよう。 

 上の図表(略)は、地球上に存在する化石燃料とウランの量を、それぞれが発生し得るエネルギー量で比較したものである。
 これを見れば一目瞭然であろう。
 ウランなど石油に比べても1/4~1/5しかないし、石炭に比べれば数十分の一から数百分の一しかない非常に心もとない資源なのである。
 従って「ウランはすぐに枯渇するので、これからは化石燃料」と言った方が正しいという訳だ。

 また、このところ推進側が躍起になって宣伝しているように「プルトニウムを利用すればウランを60倍有効に使える」と考えてみよう。
 百歩譲って仮にそうしたとしても究極埋蔵量で約3600に過ぎず、石炭には及ばないのである。
 おそらく「21世紀は石炭の時代」になるだろうと言われている。

 つまり、原子力など“無限”どころか、「極めて貧弱な資源」なのだ。

●原子力は石油の代わりになるか → 原子力は発電以外何の役にも立たない

 まず最初に石油についてその用途を見てみよう。
 左の図(略)は原油から得られる各石油製品の種類と取れる率、その主な用途を示したものである。
 これからもわかるように私たちの身の周りには様々な石油製品が氾濫している。
 車のガソリン、ストーブの灯油、食器や電化製品などに使われる多種多様のプラスチック製品、タイヤなどのゴム製品等など。そして、工場のボイラーや発電に使われる重油などだ。                 
 ではこれら石油の広範な用途の中で原子力が肩代わりできるものはどれだろうか。
 車や電車に原子炉が積めるだろうか。工場やビルの地下に動力源として原子炉を設置できるだろうか。
 はたまた、ウランやプルトニウムでお皿やおもちゃを作れるだろうか。
 そう、全く不可能だ。
 結局、原子力にできるのは「お湯を沸かして発電することだけ」なのである。

 そうなると、石油の肩代わりと言っても発電用の「C重油」(石油全体の34%)の代わりにしかならないことがわかる。
 その上、原発は小回りのきかない施設なので、発電だけはできるとは言え、基底負荷用の限られた部分としてしか利用できない。
 従って、「C重油」の中でもさらに半分程度の役割しか果たせないのである。

 現代社会は所詮石油が無ければ成り立たない「石油文明」なのだ。
 それは、原子力自身にも当てはまる。石油を使ってウランを採掘し、石油を使って原発を建設し、石油を使って核燃料を運び、石油を使って核のゴミを埋め捨てる。
 結局は原子力そのものが石油なしでは成立しない技術なのだ。
 「原発は石油の缶詰」と言われる所以である。

 もともと原子力に「石油の代替など不可能」なのである。


 天然ガスでみたように、フランスの電力の85%は原子力が生み出し、それを輸出している。
 「お湯を沸かせる」ことができることによって蒸気機関ができ、近代産業革命が起こった。
 「お湯を沸かす力」とはさほどに偉大なもの。
 はじめから否定的な目で見ていくと、目先が曇り、肝心のものが見えなくなってくる。

 「石油の肩代わりと言っても発電用の「C重油」(石油全体の34%)の代わりにしかならないことがわかる」とは。
 何を言っているのだろう。
 石油の「34%の代替エネルギー」であるというほどの「極めて豊かなエネルギー」であるということを表現している、ということである。

 先のサイトでは、「ウランは利用できるエネルギー量換算で石油の数分の一しか存在しません」という。
 「エネルギー量換算で石油の数分の一」も存在するなら、「利用しない手はない」、ということになる。
 エネルギー資源の欠乏に深刻に悩む国だ。
 ほぼ100%を輸入に頼る国だ。
 「石油の数分の一」ものエネルギーがあるなら、それを指をくわえて、ヨダレを流してみている方はないと思うのが妥当というところ。

 通常ならそう思って間違いはないだろう。
 至極当たり前の考え方。
 「利用した方がいいのか」それとも「利用しない方がいいのか」 

 原子力とは、ただ人間が勝手に「無限」と勘違いして、過剰な期待をしているだけのこと。
 その過剰な期待の揚げ足取りをしても、得るものはない。
 アワの部分で議論しても、中身は見えてこない。


 だいたいの「原子力の持つ姿」が見えてきたように思います。整理してみます。
 原子力とは下記のような特徴を持つエネルギーといえるようです。

①.石油と較べて付加価値がない
②.発電用に使われるだけのものである
③.自然資源エネルギーであり、枯渇が見えている
④.高速増殖炉の開発は見通しがたっていない、おそらく不可能


 「鉄腕アトム」は小型原子炉を持っていた。
 おなじくアシモフのロボットも原子燃料であった(ただし、ウランではない)。
 しかし、小型原子炉が実用化されて、自動車に積まれるといったことは、遠い将来にあっても全くありえないということが分かってきている。
 人類にとって原子力はさほどに手軽に扱える代物ではないのだ。

 石油のように、「原子力合成製品」といった類のものを生み出すものでもない。
 せいぜいのところ、発電にのみ使えるというだけの能力しかもっていない、つまりお湯を沸かすだけの「単能エネルギー」ということになる。

 なを、これを付け加えておきたいと思います。
 前のサイトで言われているように、

●.22世紀は「石炭」の時代がくる可能性が高い

 そうならないケースとしては地下から「メタンハイドレート」をどれほど採掘できるか、にかかっている。
 しかし、これは採取費用が石炭と比べてバカ高くなる。
 エネルギー効率を費用で比較してみて、石油が石炭を駆逐するように、メタンハイドレートが石油を駆逐するといったことは絶対にありそうもないだろう、ということ。

 間違いなく、いまのモデルからは22世紀は「石炭の時代」になる。
 なぜなら、今のところそれしか大規模エネルギーは残っていそうもないから。
 22世紀はいかに「石炭をクリーンに使う」かという技術の開発に主力がおかれてくるでしょう。

 いやでも、「それしかないなら、そうするしか仕方がない」ということ。
 突然舞い込む思ってもみなかった幸運、あるいはウルトラCなどありはしない。

 天然ガスでみたようにメタンとは天然ガスです。
 「石油からメタンへ」とは、「液体から気体へ」というプロセスである。
 しかし、石炭だと「液体から固体へ」というプロセスに変わってくる。


 「食糧とエネルギー」は人類生存の根幹にかかわること。

 「予測可能な未来」をどこに設定するかで、論議が反転する。
 100年でみるか、200年で見るかで大きく異なる。
 100年とは「予測可能な未来」、すなわち「近未来」。
 見通しは明るい。
 石油も天然ガスもウランもそこそこある。

 100年から200年だと、この先100年間の対応の仕方で明暗が分かれる。

 人類は100年から200年後も生きている。
 そして、300年後も「生きているだろう」と「思う」。
 自分の孫が百歳まで生きる可能性があるなら、100年後をうすぼんやりと想定できる。
 それが「予測可能な未来」
 しかし、200年後となると、誰もそんな人類を考えようがない。
 「中未来」あるいは「遠未来」だとどうなる。

 自分か、あるいはみえる子孫が満足していればいい、と思うのが当たり前の人情。
 中未来、遠未来に「責任はない」といっても言い過ぎにはならない。

 でも、200年後に人類が生存しているのなら、孫の孫にエネルギーを失った「砂に沈んだピラミッド」としての地球を与えるわけにもいかなくなってくる。
 もちろん、与えてもいい。
 後は「未来人が考えること」
 でも「分かっていてやる」ということは、チクリと心に痛みを感じる。
 石油も使い切った、天然ガスもなくなった。
 高速増殖炉は、まったく見込みがない。

 メタンハイドレードはそのとき本当に採掘できているのか。
 石油枯渇でみたようにメタンハイドレードはさほどに簡単な代物ではない。

 メタンハイドレードを取り出したあとの影響は。
 どの程度の海底環境破壊を招くのか。
 あるいは天然ガスを取り出した後の廃棄物の処理はうまくいくのか。

 今のところ何一つ、「分かっていない」
 今分かっている論理で、未来のモデルを作ること、それがごく普通の対応。
 未知のもので、未知のモデルを作っても「砂上の楼閣」にすぎない。
 SFの世界になってしまう。

 いまあるデータでモデルを作り、それに将来現実化したものを、繰り入れて修正していくのがノーマルな手法。

 「メタンハイドレードがあるさ」だけでは見通しにはなりにくい。
 「海底のメタンハイドレート、地殻中の深層メタンなど将来が有望視されている化石燃料もあります。少なくとも「予測可能な未来」において化石燃料は枯渇しません」。

 確かにあるものは枯渇しない。
 当たり前のこと。
 とりあえずは、「要は」見合うコストで取り出せるのか、ということ。
 枯渇と利用は別のもの。
 「取らぬ狸の皮算用」では「言葉転がし」に終わる可能性を多分に含んでいる。
 もちろん未来のことである、何も分かってはいない。
 ただ、現在の手持ちのデータから未来を見たら、ということ。

 腰痛にならんかなと心配する「アシモ君やムラタ君」が、少し猫背でストリートを闊歩している世界を想像することは楽しい。

 でもそれだけでは、人の世は終わらないように思うのだが。



<つづく>



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