2008年10月18日土曜日

ウラン3:高速増殖炉開発不能

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 ウラン3:高速増殖炉開発不能
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 人はどの程度の未来を考えて行動しているのだろうか。

 免許更新の時に「事故で脳死したとき、臓器を提供しますか」という問いに、うろたえたことがある。
 死について、さほどに身近に考えたことはそれまでなかった。
 人はどちらかというと、こういう問いはできる限り回避したいものです。
 それが本音でしょう。
 恐怖とは向かい合いたくない、誰でも思うことです。

 今の楽しさだけで「コロッと」逝きたい、そう思うのがあたりまえです。

 でもこの問いは、それを微塵にも砕いてしまいました。
 「なんだ、そんなことも考えていなかったのか、ならオマエはなんで生きているのだ」
 対応する答えはこうなるしかありません。
 「ごめんなさい」
 なんとも惨めである。

 人は未来をどの程度のスパンで考えているのだろうか。
 おそらくは死の問題と同じで、「ほとんど考えていない」というのが正解でしょう。

 ところがいやなことに、「適正人口」なるものをやってしまった。
 そして判ったことは、こういうこと。

 「自分が死んだあとも、人類は生きている

 自分の死んだあとは「SFの世界」になるかもしれないというオボロな予想があった。
 強いていえば、自分の死んだあとの世界を、そういう世界に押し込んで、考えないようにしていた、ということです。
 ところが適正人口をやったために、それが崩れてきた。

 自分と同じヤツが生きているのが未来だ、ということになってきた。
 ちっとは環境が変わったが、人間的にはまるで変わっていない。
 メシも喰うし、エネルギーも使う。
 「おじいさんは山へしばかりに」ではおさまらない世界である。

 百年のスパンで考えれば十分モノはある。
 それは孫の死までのことであり、何となく見通せる。
 その先はわからない。
 適正人口もそこまでである。
 が、この問題「その先も、人類は生きていますよ」というテーゼを突きつけてきた。


 OECDの「オイル商品論」は「需要供給の経済学」で未来を見る。
 分かりやすい。
 今自分が生きている社会で考えればいい。
 その後のことは「まったく考えなくていい」。
 数十年のスパン。

 「予測可能な未来において化石燃料は枯渇しません」という論理は、孫の代までを見ている。
 それから先、そんなこと「分かるか!」で押し切れる。
 百年のスパン。

 適正人口は百年後を見るが、その後も「数十億」という膨大な数の人類が生存しているという大前提がドデーンと腰を据えている。
 ここでは「予測可能な未来」などは「子どもだまし」になる。
 そんなこと「分かるか!」だけではちょっと押し切れない。
 「メタンハイゾレートがあるさ」なんてノーテンキなこと言ってすますにはちょっと荷が重い。

 どうやって、コイツラを食わせ、生活させるか。
 そのくらいのこと考えろよ、「オマエ、人間だろう」、首の上に頭がついているのだろう。
 オマエはそのときは死んでいるんだから、今は考えるだけでいいんだ。
 ええ、そうですが。
 「また惨めになってくる」
 そのスパンはいかほど。

 そんなこと、いくら繰り返し考えても答えのあるものではない。
 こうなると「悟り」の境地が必要になってくる。

 でも、とりあえずなんとか自分を納得させないといけない。
 でないと、どうにも思考がおさまらず、イライラがつのってくる。

 薄ぼんやりでも納得させるものを探してみた。
 見つけたのはサムライの世界。
 江戸幕府成立から崩壊まで「264年」
 日本の歴史のなかで、かくも「安定した時代」はなかった。
 諸般いろいろあったたとしても、少なくとも、日本人の社会、歴史を展望して思考の中でしっくりする時代であることに間違いない。
 安定した時代が264年続いたということは、それが見渡せる時間の限界かもしれない。
 いくら社会の発展が急激であろうと、そのくらいは視野に入れておかねばならないだろう、ということなのかもしれない。

 終戦後から264年というと「1945年---2209年」になる。
 すなわち、21世紀、22世紀。
 来世紀一杯はその視野に入ってくる。

 「200年」のスパンで考えろ、ということか。

 来世紀にも我々と同じ人類が生存しているということ。
 人類史からいえば200年なんて、鼻くそみたいなもの。
 「予測不可能な未来」に我々とそっくりな人類が住んでいるということ。
 そいつらは、同じようにメシも喰うし、エネルギーも浪費する。
 当たり前だが、その当たり前を納得するのが難しい。

 その程度のことが考えられなくてどうする。
 考えるだけでも当たり前だろ。
 実際にどうなるかは、オマエの死後のこと。
 オマエに責任があるわけじゃネエ。
 だから、考えろ。
 考えなかったら「当たり後」になるぞ。
 と、言われても。

 強いていえば、人間の限界、思考の限界を超えるということ。
 そして「2209年」といえば、「23世紀」の入り口にあたる。
 SF風にいえば「維新の風」が吹き荒れそうな雰囲気を濃厚にもっているかも。

 なんだか勝手につけたような論理。
 「いい加減さ」もここまでくるとイヤになってくる。
 でも、そうでもしないと未来のこと、おさまりはつかない。
 どうでもいいから、自分に納得させなければならない。
 ものを考えるというのは、なんとも不可解なこと。
 「予測可能な未来」で十分ではないのか、十分だろう、ナッそうだろう。
 そうに決まってるさ。

 ウーン、でも。



④.高速増殖炉の開発は見通しがたっていない、おそらく不能
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 ところで問題の「高速増殖炉」とはいったい何なのか。

 Wikipediaで抜粋で見てみます。

 高速増殖炉(こうそくぞうしょくろ Fast Breeder Reactor:FBR)とは、 高速中性子による核分裂連鎖反応を用いた増殖炉のことをいう。

 原子炉で使用される前の「MOX燃料」は、燃料となる「プルトニウム239」と「ウラン235」が微量と、あとは核分裂をほとんど起こさない「ウラン238」で占められている。

 高速増殖炉とは、この核分裂をほとんど起こさないウラン238を燃料となるプルトニウム239に転換するのに適した原子炉である。
 プルトニウムの燃焼による発電をしながら、使用前以上に増やすことが出来る原子炉である。
 もちろんすべてのウラン238がプルトニウム239に転換され尽くし、それが燃え尽きると終わりである。

 通常、「軽水炉」では燃料棒中のウラン235を「熱中性子」により核分裂させ、エネルギーを生成する。
 この核分裂により燃料棒中の核燃料は減少する。

 熱中性子は高速中性子よりもウラン235やプルトニウムの核分裂を誘起しやすいが、燃料棒中のウラン238に捕獲されてプルトニウム239を生成する確率は低い。

 逆に高速中性子はウラン235やプルトニウムの核分裂を誘起しにくいが、ウラン238に捕獲されてプルトニウム239を生成する確率が高い。

 この性質を利用して、消費した燃料以上のプルトニウムを生成するように設計されたものが高速増殖炉である。
 高速増殖炉の「高速」は、利用する中性子が「高速中性子」であることに由来する。
 高速増殖炉では、ウラン238をプルトニウムに転換させるため、ウラン資源を事実上数十倍にできる。
 このため「夢の原子炉」と言われ、日本、フランス、中国など国内でのエネルギー使用量に比べ資源が少なく、エネルギー使用量の多い国で開発が推進されている。


 つまりこういうことのようである。

 原子炉の燃料は「ウラン235」と「プルトニウム239」である。
 ところが、この燃料にはムダな物体である「ウラン238」が含まれている。
 一般の原子炉では核分裂を誘引するに「熱中性子」を使うために、それに反応しないウラン238はムダな燃料になる。
 だが、「高速中性子」を使う原子炉では、このウラン238が高速中性子に反応し、プルトニウム239に変身してくれる。
 変身したプルトニウム239は当然のことながら原子炉の燃料に使える。
 よってこれまでムダであったものから、有効な燃料を抽出できるということになる。


 Wikipediaを続けます。

 核分裂を起こしやすいウラン235は天然に存在するウランの0.7%程度にしか過ぎない。
 約99.3%は核分裂をほとんど起こさないウラン238である。
 よって、エネルギー源として利用できるウランは、ウラン資源の1%にも満たないことになる。
 しかし、高速増殖炉によってウラン238をプルトニウムに転換することができれば、核燃料サイクルが実現し、理論上ウラン資源の「約60%」をエネルギーとして使用することが出来るため、ウランの利用効率を飛躍的に高くすることが出来ると考えられる。


 単純にいうと、原子炉燃料はたった「0.7%」しかウランに含まれていない「235」を使っている。
 つまり、現今の原子炉は含有量1%以下のウランに依存しているということである。
 残りの「99.3%」は「238」というムダなものである。
 このウランの大半を占める「238」をエネルギー源として使えるようになれば、85倍(60%/0.7%)ものエネルギーを取り出すことができ、万々歳、夢の出来事になるというわけである。

 でも世の中そうはうまくはできていない。
 簡単に問屋は卸してくれない。
 理論的に実験的に可能であっても、それを実用化するとなると月とスッポンくらいの差がある。
 実験で可能であったからとて、それで実用化できるわけではない。


 炉心を冷却し熱エネルギーを取り出す冷却材として、一般原子炉である軽水炉では中性子の減速材を兼ねて軽水を利用する。
 これに対し、高速増殖炉では、高速中性子を減速させないように加熱溶融した液体金属(主に金属ナトリウム)を使用する。

 冷却剤として使用される金属ナトリウムは酸化されやすく、空気に触れると発火し、水に触れると爆発をする。
 しかも、軽水は透明だが金属ナトリウムは不透明であり、これを用いると内部状態の計測が難しくなる。
 冷却材である金属ナトリウムの管理が難しく、容易に発火するため、取り扱いには極めて高度な技術を必要とする。

 現在「もんじゅ」が停止を余儀なくされている理由は、この金属ナトリウムの漏出が原因である。
 また、特にタービンに繋がる系統に熱を伝える二次冷却系は、軽水と接触する可能性が高いため、大きなウイークポイントとなると考えられている。
 さらに、冷却系の取り扱いの難しさから、同型炉での事故例が多く、既に事故を原因として廃炉になった炉もある。
 金属ナトリウムが漏出したときのために、循環系の設置される区域は窒素ガスが充填される。
 そのため、人間が容易にその区域に入ることが出来ず、緊急時のメンテナンス性が損なわれている。

 また、プルトニウムの炉内での挙動に未解明な点がある。
 フランスのフェニックス(Phe'nix)では、原因不明の出力低下があり、その原因は未だに解明されていない。
 これがフランスがスーパーフェニックスから撤退する理由の一つであった。

 加えて、燃料加工やプルトニウムに対応する炉などに費用が掛かる。
 通常の原子炉よりも費用がかかることや、現在開発中の高速増殖炉の多くが何らかの事故を起こしていることなど、経済性や安全面、政治的な問題から開発を断念する国が少なくない。


 つまるところ、先進国が逃げ出すほどに技術的に相当困難なもののようである。


 「ウラン1」で見てきた「愚かな核」によれば

 日本の原子力開発長期計画による高速増殖炉の開発が初めて言及されたのは1967年でした。
 その時の見通しによれば、高速増殖炉は「1980年代前半」には実用化されることになっていました。
 ところが実際には高速増殖炉ははるかに難しく、----2000年の長期計画では、ついに数値をあげて年度を示すことすらできませんでした。
 2005年の「原子力政策大綱」として改定された計画では、「2050年」には初めての高速増殖炉を動かしたいと書かれていますが、そんなことが実現できる道理がありません。

 とあります。


 この「原子力政策大綱」の概略を電気事業連合会のホームページでみてみる。


★ 電気事業連合会【でんきの情報広場】
  原子力政策大綱 - 原子力政策
http://www.fepc.or.jp/future/nuclear/seisaku/seisakutaikou/index.html
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 原子力政策大綱は、2005年(平成17年)10月に、今後10年程度の原子力の基本方針として閣議決定されました。
 原子力政策大綱における原子力発電、原子燃料サイクルに関する主な方針は次のとおりです。

 原子力発電、原子燃料サイクルに関する主な方針
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● 原子力発電は基幹電源
 原子力発電は、地球温暖化とエネルギー安定供給に貢献しており、基幹電源として位置づけて、着実に推進していく。

● 2030年度以降も現在の水準程度かそれ以上
 原子力発電は、2030年度以降も総発電電力量の30~40%程度という現在の水準程度か、それ以上の供給割合を担うことを目指す。

● 原子燃料サイクルの確立
 使用済燃料を再処理し、回収されるプルトニウム、ウラン等を有効利用することを基本とする。

● プルサーマルの推進
 使用済燃料を再処理し、回収されるプルトニウム、ウラン等を有効利用するという基本方針をふまえ、当面、プルサーマルを着実に推進する。

● 高速増殖炉は「2050年頃」からの導入を目指す
 高速増殖炉は、ウラン需要の動向や経済性等の諸条件が整うことを前提に、2050年頃から商業ベースでの導入を目指す。

● 使用済燃料の中間貯蔵
 使用済燃料のうち、再処理能力の範囲を超えて発生したものについては、中間貯蔵し、その処理の方策は2010年頃から検討を開始する。

● 放射性廃棄物の処分
 放射性廃棄物は、適切に区分を行い、それぞれの区分ごとに安全に処理・処分することが重要である。


 同じく【でんきの情報広場】から抜粋で。


★ よくあるご質問 原子力政策大綱とは、どういう計画か?
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 我が国における原子力の研究、開発及び利用は、原子力基本法に基づき、平和目的に限り、安全確保を前提に、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術進歩と産業振興を図り、人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的としています。

 原子力委員会は、-----1956年以降ほぼ5年毎に原子力の研究、開発及び利用に関する「長期計画(原子力長計)」を策定し、基本的施策の方向を示してきました。
 2004 年から改定作業が進められてきた原子力長期計画は、名称を原子力に関する施策の基本的考え方を明らかにし、各省庁における施策の企画・推進のための指針を 示すとともに、原子力行政の関わりの深い地方公共団体や事業者、さらには原子力政策を進める上で相互理解が必要な国民各層に対する期待を示す、「原子力政 策大綱」として、2005年10月にとりまとめられました。

 その後原子力委員会は2006年4月に政策評価部会を設置し、原子力政策大綱の基本的考え方に基づく政策の妥当性評価などを行っています。


 この「原子力政策大綱」は下記のサイトになりますが、219ページという膨大なものです。

★ 内閣府原子力委員会 原子力政策大綱
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/taikou/kettei/siryo1-3.pdf



 つまるところ、2005年に作成されたこの大綱で述べていることは「45年後」あたりから導入を目指すということです。
 この科学が発展している時代に45年後ということは、大綱を作った「誰もが、導入できるとは考えていない」ということを示している、ということです。

 石油が枯渇するとか、人口減少がどこまで進むかといったことなら、おぼろげの姿を見ることはできます。
 でも「科学技術の45年後」などといったものに現実性を見出せるとはとても考えられないでしょう。
 ということは、

 『
原子力政策大綱は自ら、高速増殖炉の開発は「不能」と宣言している

とみて差し支えないと思います。
 大綱とは政府のリップサービスと見ておいたほうがいいと思われます。


 その月日と同じくらい昔のこと、大学の講義で現代科学論とかいった授業がその分野の著名な先生を招いておこなわれました。
 そこで聞いた話ですが、このようなものがありました。
 「ガンはおそらく、ウイルスであると思われるが、早晩その正体はつきとめられ、それによって十数年もすればガンは克服されるであろう」と。

 ところが、四十数年たった今、ガンは克服されたかというと、まるで昔と変わってはいません。
 対策は「早期発見、早期除去」しかない。
 広がらぬ小さいうちに物理的に除去する以外に処方がない。
 ということは、この四十年間を超える医学あるいは科学のもたらしたものは、「発見の技術と除去手術の精妙さ」だけであったということになる。

 抗ガン剤というのがある。
 一時、ガンの成長を抑えるが、体に対する副作用はすこぶる大きく、すぐにガン細胞はそれを越えて繁殖する。
 少しばかり寿命を延ばすだけのものでしかない。
 ガン本体にはまるで効き目がないシロモノ。

 では、なぜその筋の専門家が「ガンは十数年もすればガンは克服されるであろう」といった発言したのであろうか。

 この時期、すなわち1960年代は科学技術にたいする絶対の信頼があり、それが信仰にまで高まっていた時代だったのです。
 すべてのものは科学の前にひれ伏す、技術をもって不可能なことはない、自然は科学によって解明され、人間こそが最大の英知である、そんな思想が世界をおおいい包んでいたのです。

 ナイジェル・コルダーの「20年後の世界」という本が出版されました。
 これは各分野の専門家に20年後の世界の様子を想像して記述してもらったものを編集したものでした。
 なにしろ古い昔のことで、うつろ覚えなのですが、たしか宇宙旅行が可能になる、といったことも書かれていたような気がします。
 1961年に「地球は青かった」という言葉を残したガガーリンの宇宙飛行が成功しており、遅れたアメリカは同じその年、ジョン・F・ケネディが「1960年代中に月への有人飛行を行う」と宣言し、1962年にジョン・グレンが有人飛行をしている。
 この本はその後の1966年の翻訳出版になりますから、20年後には宇宙旅行もおこなわれているだろうという設定は滑稽なものではなく、ありえる姿と思われました。

 でも、20年後に宇宙旅行はなされず、45年後の今日、やっと訓練を受けた専門家による宇宙ステーションへの行き帰りが可能になっただけで、宇宙旅行は普通人にとっては夢の夢の物語にすぎません。


 この「科学信仰」がピークを迎えようとしたとき、「原子力開発長期計画」による高速増殖炉の開発がスタートしていきます。
 ちょうど20年後の宇宙旅行が可能であろうと想像されたとまったく同じように、「20年後の1980年代に高速増殖炉は実用化されている」だろう、というわけです。

 しかし、45年後に宇宙旅行は端緒についたが、ガン征圧は見通しがたっていない。
 高速増殖炉についてはまったくもって闇の中。
 ためにさらに「45年後に実用化したい」という、リップサービスで終わっている。


 なをこの時期にガンに対してこのような希望的発言ができたのは、すこぶる確固とした背景があるのです。
 それは「結核」です。
 長い間、「不治の病」と言われた結核が劇的に征圧されたという歴史がり、それを踏まえてのガンも征圧可能という見通しがつけられたのです。

 明治初期まで結核は労咳(癆?、ろうがい)と呼ばれていたものです。
 日本では「国民病・亡国病」とまで言われる程の侵淫を見た病気です。
 若い人の死亡率が高く、子どもの頃、血を吐いたとき、きれいな血なら喀血で肺結核、汚れたいたら吐血で胃病だと教わったものです。

 今はどうなっているか知りませんが、大学に入るときは入学願書に胸部診断書がついていて、保健所などでレントゲンをとり、その結果を書き入れてもらうと同時に名刺半分くらいのレントゲン写真を添付して提出しました。
 同級生に胸を患ったヤツがいて、彼の言うところによると「レントゲンを撮ると小さいがカゲが出るのだが、どういうわけか入学願書のときだけはそいつが写らなかったのだ」と聞いたことがあります。
 その頃は入学願書用の写真が費用の関係で小さいものでしたので、見えなかったのかもしれません。

 喀血劇で有名なのは新撰組一番隊隊長の沖田総司で、池田屋事件で討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる、とされている。
 江戸に静養で戻り、二十半ばで死亡している。
 天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝とされている人斬りのツワモノも労咳には勝てなかったほどの病であったということです。

 ところがこの不治の病といわれるものが戦後、劇的に消えていく。
 ストレプトマイシンなどの結核菌に効果のある「抗生物質」が発見されたためである。

 このステップを踏まえてみると、「ガン抗生物質」が発見され、ガンが早晩克服されるのは科学信仰が蔓延していた時代ではタイムスケジュールに載って当たり前のことだったのです。
 ところがドッコイそうはいかない。
 ガンはいまだに死因のトップスリーにドンと腰を据えており、その王座はまるで揺るぎそうに見えない。

 このガンに対する医学会の落胆により、次に発見された病気については、また昔に戻って「不治の病」という烙印が押されることになる。
 いわく「エイズ」
 ガンのような楽言は聞かれない。
 はるかにシビアで「治療不可」で終わっている。

 
科学の限界は「ガン」で証明されてしまった。

 早期発見、早期除去、いかにも心もとないが、それしか有効な手立てはない。
 いまのところ残された手段は、「遺伝子治療」か、宇宙空間での「無重力利用」の治療・新薬の開発であろうか。

 高速増殖炉は医療におけるガンと同じ経過を辿っており、いまはエイズの見込み段階に入り込んでいるように思える。
 つまり、こういうこと。

 「
高速増殖炉開発不能



<おわり>




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2008年10月17日金曜日

ウラン2:今世紀いっぱいのエネルギー

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ウラン2:今世紀いっぱいのエネルギー
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 石油枯渇と天然ガスをやっているとき、意識的に触れないでおいたものがあります。
 「地球温暖化」の問題です。
 いま最も話題になっているテーマなのですが、これをからめると化石燃料の問題、すなわちエネルギー問題が環境問題にすり替わってしまうため、蓋をして見ないようにしました。

 「ウラン」をやるときも同じものがあります。
 「安全性」です。
 原子力発電の問題は常にこのテーマに集約されてきます。
 危険なものであることは重々分かっているが、ここではあまり深くふれずに「エネルギーとしてのウラン」にのみ焦点を当てて見ていきたいと思います。

 なをあらかじめお断りしておくことは、石油や天然ガスは一般人でもアウトラインを理解することはさほど難しくありません。
 しかし、原子力となると非常に専門的・技術的になり、素人の先走り論理は大きな間違いを生ずる可能性が問題となってきます。
 ここでやっていることはサイトのデータを検索して、それを基本知識として整理することです。
 それ以上のことができる専門的知識を持っているわけではありません。

 サイトの内容あるいはデータ本体が正しいか誤っているかどうかは残念ながら、素人ではどうにも判断がつきかねます。
 ただ、収集したデータを使って、現時点で可能性のあるであろうものを抜き出し、とりあえず納得できる形にピースをはめ込んでいくだけのことしかできません。
 素人の骨董無形な飛躍の論理になるかもしれませんが、可するか非とするかは読まれる方の自由です。

 「無知な」ということに終わってもいいと思っています。
 とりあえず、大学生のレポートぐらいになっていれば「よし」としています。


①.石油と較べて付加価値がない
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 Wikipediaで「石油製品」「合成樹脂」などを検索すると、いやになるほどの製品が出てくる。
 つまり石油とはエネルギーであるまえに、「原材料、素材」なのです。
 机の周りを見渡してみても、現在この文章を打ち込んでいるキーボードそれにマウス、スピーカー、モデムなど、CDのプラスチクケース、買い物へいけば品物を入れてくれるビニール袋など、数え切れないほどです。

 しかし、これは石油があまりに万能でありすぎるということで、他のエネルギーの能力が低いということでははありません。
 実際、「天然ガス製品」をWikipedia調べてみても、エネルギー製品を除けば合成製品など出てきません。

 重要なことは『いかに石油が優れているか』ということなのです。
 このことを深く認識しなければいけない、ということです。

 石油だけが「例外中の例外」なのです。

 あまりにも「石油は万能選手でありすぎる」ということです。
 野球選手にして、スキーのプロ、そして水泳の選手とオールラウンダーなのです。
 でも、そんな選手がちまたにごろごろ転がっているわけではないのです。

 ところが、そういう石油を普段見慣れてしまうと、それが当たり前のように思えて、他のモノにも相応の期待をしはじめてしまうという間違いを、人間がおかしはじめているということなのです。

 そして、そのようなまちがいの典型的な例が「原子力」なのです。

 天然ガスも同じです。
 これは、つまり空気です。
 「天然ガス合成製品」なるものもありえない。
 せいぜいの「擬似ガソリン」を作るぐらいなもの。
 エネルギーとしての利用しかできていない。
 そして、期待されているメタンハイドレードも天然ガスなのです。

 石炭も同じです。
 「石炭合成製品」なるものはありえない。
 石炭は「石ころ」で、エネルギーとしての
擬似オイル、擬似ガソリンを作る程度。
 これからみてもわかるように、いかに「石油が偉大か」ということです。
 その「偉大な原料」を、湯水のように燃やし続けているのが、昨今の世界。
 だからこそ、偉大な文化文明、経済成長が可能になった、ということでもある。

 人はそれを「当たり前のこと」に思ってしまっているということである。
 石油と比較して、他のものを「無能」というのは間違いなのです。

 では、なぜ石油だけが「偉大」なのか。

 なぜ、石油だけがマルチプレイヤーなのか。
 説は多々ありますが、今の時点では次のものが説得力があります。
 石油とは「海洋生物の堆積物」である、ということ。
 つまり、石油とは海の生物の死骸等が長い間に地球の変動を受けて変化したものだということ。

 残念なことに「地上生物の死骸」は堆積しない。
 他の動物のエサになるか、太陽の熱を受けて干からびるか、あるいは腐るかしてしまうからです。

 「地上植物の堆積」は可能である。
 それが石に変わり、植物からとれる「炭の性質」を担って、石炭になったといわれています。

 よって、石油の出るところとは昔、海であった可能性が高いということになる。

 「生命の起源」は海にあり、海から陸に上がっていったという。
 石油はその「生命のエッセンス」を受け継いだもの。
 ゆえに、石油はおのずとマルチプレイヤーのエッセンスを内蔵していると言われているわけです。


②.発電用に使われるだけのものである
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 「原子力は発電以外何の役にも立たない」代物なのです。

 それが、原子力なのです。
 原子力は軍事的利用を除いて「電気を起こすこと」それ以外の仕事は請け負っていないのです。
 電気を使ってどうするかは、人様が考えることであって原子力が考えることではない。
 それ以外を期待する方が間違っている。

 なんでもかんでもできると錯覚しているのは、錯覚している人の無知に由来している。
 しかし、間違いなく電気を起こすことはできる。
 大いなる仕事が一つできることでも、優れ資源であるといえる。
 二つも、三つもできなくていい、一つだけで十分に価値がある。

 アシモ君を動かすこともできるし、インターネット網をオペレートできるのです。
 新幹線を走らせ、海水を淡水化できるのです。
 食糧を実らせ、その種子を未来に引き継ぐことを可能にしているのです。
 遺伝子を保持し、動物の種の保存すらも可能にしているのです。

 過剰な期待をすべきシロモノではないのですが、必要な役割は思う以上にこなしているのです。


③.自然資源エネルギーであり、枯渇が見えている
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 人類が使用している世界の大規模エネルギーは下記の4つです。
  ①.石炭
  ②.石油
  ③.天然ガス
  ④.原子力

 石炭は可採可能埋蔵量で最低で「200年」といわれていますので、いまのところ無尽蔵という表現でいいと思います。
 石油は先に述べましたが「約70年」、天然ガスは「約100年」という発表です。

 なを、2007年の「BP統計」では「石炭147年」「石油41年」「天然ガス63年」となっており、統計のとり方によって違って、えらく大幅なちがいが出てくる。


 Wikipediaを見てみる。

 可採埋蔵量(かさいまいぞうりょう)は、地下に存在する原油や天然ガスなどといった地下資源の埋蔵量のうち、技術的・経済的に掘り出す事ができる埋蔵量のこと。

 油田、ガス田に存在する地下資源の総量は「原始埋蔵量」といい、可採埋蔵量がゼロになったからといって地下資源が採掘されつくしたことにはならない。
 すなわち技術力の向上や産出物の価格上昇に伴って技術的・経済的に採掘が可能になる資源が増加することで、可採埋蔵量は増加する。
 さらには単純に新たな油田、ガス田などが発見される事で、原始埋蔵量も増加の可能性がある。

 「可採埋蔵量」は、回収の確実性によって高い順に「確認埋蔵量(または確定埋蔵量)(proven reserves)」、「推定埋蔵量(probable reserves)」、「予想埋蔵量(possible reserves)」に区分される。

 確認埋蔵量をその年の生産量で割った数字が「可採年数(reserves/production ratio)」である。

 可採年数=確認埋蔵量/年間需要

 主な地下資源の可採年数は、石油が41年、石炭が147年、天然ガスが63年、ウランが85年とされている。



 グラフで見ることができます。

★ IAE 財団法人 エネルギー総合工学研究所
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data1008.html

 世界のエネルギー資源埋蔵量(2007.06.05)

●石油、天然ガス、ウラン等は、資源量に限りがある。
●石油、天然ガスは埋蔵地域に偏りがある。

 解説:
 石炭の可採年数が100年以上であるのに対して、石油、天然ガス、ウラン等のエネルギー資源の可採年数が数十年となっており、このままの利用を続けていれば21世紀中に資源が不足し、利用できなくなる可能性があるとの説もあります。
 ただし、資源開発努力により、もっと資源を入手できるとの説もあります。

 石炭も資源量には余裕がありますが、地球温暖化の問題があり、適切な利用を考えなければいけません。
 石油、天然ガスは埋蔵地域に偏りがあり、これらを輸入に頼る日本にとっては不利な条件となっています。



 内閣府原子力委員会(Japan Atomic Energy Commission)のホームページから。


★ 核燃料はどのくらい埋蔵量があるのですか:学生、男性
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/qa/iken/iken-q78.htm

○ご質問の内容:
──────────────
 化石燃料はCO2の排出とともに、より重大な問題は資源の有限性です。
 原子力はCO2の排出が発電の際、火力発電より少ないことは長所ですが、資源としてはやはり有限です。

 選択肢としては
 1].有限な原子力を利用可能な時期まで利用する。
 2].高速増殖炉を再運転・増築する。
でしょう。

 が、高速増殖炉は現在行き詰まっているようです。

 1]を選択するとなると問題になってくるのは資源としての期間です。
 なので埋蔵量がどのくらいあるのかということ、それから何年くらい運転可能なのかシュミレーションがあれば知りたいです。

○回 答: 
──────────────
 ご質問の「ウラン資源量がどれくらいあるのか、それが何年程度需要を満たしうるのか」ということにつきましては、最新の知見の1つであるOECD/NEA&IAEAの”Uranium 2003”(2004)によると、以下のとおりとされています。

 在来型既知資源量は「約460万トン(459万トン)」です。
 これは「2002年推定世界需要量」の「約85年分」に相当します。

 これに未発見資源量を加えると、「約1,440万トン」で、これは2002年の「推定世界需要量」の「約270年分」に相当します。


[注1]
 「推定世界需要量」とは
 発電電力量10億kWh当たりの天然ウラン必要量について20.7万トンに基づき推定
(ワンススルーの場合。出展:”Trends in the Nuclear Fuel Cycle”(OECD/NEA(2002)))

[注2]
 在来型既知資源量= 確認資源量+(推定追加資源-区分1の量)
 未発見資源量  = (推定追加資源量-区分2の量)+(期待資源量)

a). 確認資源:
  その大きさ、品位及び形状が明らかになった既知の鉱床中に存在するウラン資源

b).(推定追加資源-区分1):
  主に直接の地質学的事実に基づいて、よく探鉱された鉱床の拡張部か、地質学的連続性は明らかになっているが、鉱床の拡がり、鉱床の特性に関する知見などの特定データが確認資源として分類するには不十分な鉱床中に存在すると推定されるもの

c).(推定追加資源-区分2):
  主に間接的な事実に基づき、よく解明された地質トレンド中あるいは既知鉱床に伴う鉱化作用が認められる地域に期待されるウラン資源

d). 期待資源:
  主に間接的事実や地質学的外挿に基づき、既存の探鉱技術により発見可能な鉱床中に存在すると考えられているもの


 なを、より新しい「Uranium 2005」によれば「474万トン」となっています。
 15万トンほど増えていますので、可採年数も「88年」ほどになります。

 ということは、最新統計の石油の「約70年」、天然ガスの「約100年」の中間あたりということになります。
 統計のとり方で違いが出てきますし、まして未来のこととで断言できることはありませんが、いまのところ推測できることは、「今世紀いっぱいはウランはある」、ということになります。

 逆にいいますと「今世紀いっぱいのエネルギー」だということです。

 上の原子力委員会の回答でハテナマークがつくのが、
「これに未発見資源量を加えると、「約1,440万トン」で、これは2002年の「推定世界需要量」の「約270年分に相当します。」
 という文言。
 この数字「最終可採埋蔵量」ともいわれている。

 「270年」といえば、丸めると3世紀。
 とてつもないバラ色に輝くエネルギーになる。
 21世紀、22世紀、23世紀とウランに不足はないことになる。
 とすれば、世界の電力事情は万々歳となる。
 が、どうも言葉の彩にだまされているように思われてならないのだが。

 つまり、「あるかもしれないですよ」というだけ。
 そしてもしあれば
技術的に採掘できますよ、ということのようであるのだが。
 数値的にいうと
未発見資源量が「約1,000万トン」あることになる。
 すごい量である。

 でも、ウランというのは採掘できるだけではダメなのである。
 それを利用できる形に加工する必要がある。
 石油なら小規模でもなんとか精製可能である。
 小さい精製装置を開発すればいい。
 少しでも使い道はある。

 しかし、ウランはそうはいかない。
 危機管理には万全を期さないとならない。
 コストはバカ高い。
 安全性、工程規模から考えてそれだけの資金を投入して採算のとれるものでなければ成立しない。
 そして、使えるところは原子発電所のみ。

 つまり、採算割れしたら即、採掘が停止されるという性質をもっている。
 そして、採掘が停止されると、ウランはあっても無価値になる。
 つまり、ある量まとまった形で、かつコスト的にあわなければ採掘されないということになる。
 原発が動かなくなったときは、即お払い箱のエネルギーである。

 もちろん、鉱石だけでいいですよ、加工は私の方でやりますから、というのは当たり前の話だが。
 だが、それでも石炭ほどには安易には採掘できない。
 まず軍事転用を規制する安全管理から入っていかねばならない。
 あることは判っていても、採掘条件がひじょうに厳しいものだということ。

 つまりウランは「ありますよ」、というのと「使えますよ」というのはまるで違うということ。
 原子力発電所というバカ高い建造物があってはじめて価値が出るもの。
 それがなければ、ただの石ころ。
 それをあたかも、並べて書かれると、利用可能と錯覚してしまう。
 よくある、文章テクニックではあるが。
 でも、
未発見資源量が「約1,000万トン」あるというのは驚き。


 ところでこの問いだが、

 原子力は資源としてはやはり有限です。
 選択肢としては
 1].有限な原子力を利用可能な時期まで利用する。
 2].高速増殖炉を再運転・増築する。
でしょう。
 が、高速増殖炉は現在行き詰まっているようです。

 1]を選択するとなると問題になってくるのは資源としての期間です。

 という形をとっている。


 この問い自体、原子力委員会が作ったものだが、読んでみるとこう言っていることがわかる。

 「高速増殖炉は行き詰っており、なら有限資源であるウランの可採年月はどのくらいですか」

 この裏には「ウランがコスト的に採掘できなくなったら、原子力は終わりです」
と、いう原子力委員会の了解事項を暗に含んでいる。

 ウランは今世紀をもって採取不能となる。

 石油や天然ガスのように、少量出るならそれに対応する「少量生産」し、地場で「少量使用」を考えればいい。
 でもウランはそうはいかない。
 そのままでは使えるシロモノではないのである。
 バケツに一杯とってきて、火をつければ燃えるといったたぐいのものではないのである。
 灯油ストーブとか練炭とかのように、家庭で使えるなんてことは金輪際ありえない資源である。

 科学の英知を集めた精細な原子炉で、それに見合うように加工されてはじめて価値の出るものなのである。
 ということは採掘不要となったら、本当にパタリと採掘しなくなる可能性が高い。
 他の3つのエネルギー資源のように、チビチビと採掘して、チビチビと使えるような資源ではない、ということである。

 いいかえれば、最も明瞭に資源の枯渇(採算不能な採掘)が現れてくるのが、ウランだということです。
 そして、そういう意味で「最も先に枯渇する」のがウランだということです。

 ウランの枯渇とは、石油のようにその本体がとり尽くされてなくなる、ということではないのである。
 よって最終可採埋蔵量は一つの目安にしかならないのである。
 採算にあって採掘できるか、原子力発電所がそれを必要としている規模でありうるか、といった別のファクターがからんでくる可能性が大きいのです。

 石油や天然ガスは保存に回してもいい。
 特に石油はこれから、どんどん保存傾向が強まっていくでしょう。
 できる限り、来世紀まで、できたら再来世紀までも持たせたい、という願望を担っている資源なのです。

 しかし、ウランは枯渇(採算不能)の年月を計算しながら原子力発電所をつくり、枯渇と同時に原発も幕を閉じるというコスト的合理性に基づいて動いていく資源なのです。
 保存にまわしたら、そのまま石ころになってしまう可能性がすこぶる大きいものなのです。
 よって保存にまわすというのは、選択肢の大きさからいくとバクチに近くなります。

 最新鋭の原子力発電所を造ったがウランがない、ではどうしようもない。
 が、ウランは採掘したが、原発が老朽化し、稼動状態にはないではサマになりません。
 原子力発電所を造るに、あるいはリフレッシュするに予算がない、では話にならないのです。

 ウランの採掘状況をにらみながら、原発の耐用年数を検案して、処理していかねばならないのがこのエネルギーの最も微妙なところなのです。
 ウランは採れるが原発が動かない、原発は最新鋭であるが肝心のウランの供給が間に合わない、なんてことはあってはならないのです。
 投下資本の大きさからいって、ウランの採掘終了と原発の終了とが、ほぼ同じ時期に重なるようにしなければいけないという、コスト管理が要求されるのです。

 言い換えると、

 こういう利用するのに変動の激しいエネルギーは「まずは早めに使用する」
 うまくやりくりして今世紀のエネルギーはできる限り「ウランで間に合わせる」
 そして石油のように手ごろで使いやすいマルチタイプの資源は、少しでも多く「将来未来のために」温存していきたい

というのが、「本音」ではないかと思うのです。

 つまり、あまりにパワーがありすぎて、危険で、取り扱いに面倒だが、ウランというエネルギーが使えるだけでも、とんでもない「めっけもの」ということ。
 マイナス分は補って十分にオツリがくるという資源なのです。
 「人類史の流れ」のなかでは、思ってみなかった降って沸いたような「余禄」といえましょう。

 よって、うまいとこ使って、本来エネルギーである化石燃料を先延ばしに保存できれば、これにこしたことはない、といったところではないでしょうか。

 まずは「利子」から先に使っていき、元金はなるべく手をつけないで手元に置いておきたい、ということだと思います。
 


 <つづく>




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2008年10月13日月曜日

文化発信大国日本6:よみがえるがいい、アイアン・シェフ!


 ● アイアン・シェフ: ジャパネスクかクール・ジャパンか
   [Wikipedia]より
  <クリックすると大きくなります>


文化発信大国日本6:よみがえるがいい、アイアン・シェフ!
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 鹿賀丈史の呼びかけで三人の調理人がせり上がってくる。
 「料理の鉄人:アイアン・シェフ」

 先月からまた放送が始まりました。
 私の覚えているかぎりでは、これで4回目の再放送。
 一年ほどお休みでした。
 もちろん、日本で放送されたすべての番組が放送されるわけではない。
 ですから4回も再放送できる。
 日本文化がここまで「しつこく再発信」されるのも珍しい。
 というより「唯一」だろう。

 4回目ともなれば、内容はだいたい覚えてしまう。
 それでも、土曜日の8時半になるとSBSにチャンネルを合わせてしまう。
 しつこさに呆れているのだが。
 でもやはり、文化的面白さは満ち足りるほどにもっている。

 もちろん、英語の吹き替えであるが、司会のド派手な鹿賀丈史が喋る部分のみは日本語である。
 テレビで日本語を聴けるのは、早朝30分ほどのNHKニュースを除けば、これ一本。

 「よみがえるがいい、アイアン・シェフ!」

 これ、日本語。


 Wikipediaで調べてみる。

 料理の鉄人は、アメリカでもケーブルTV専門局FOOD NETWORKで放送され大好評となった。
 吹替えで放送されたが、主宰の鹿賀丈史が喋る部分のみ字幕となっていた。
 また、レポーターの太田真一郎が福井謙二に呼びかける際の「福井さん!」という部分はそのまま "Fukui-san!" とされた。
 陳建一の苗字は中国語読みが採用され "Chen Kenichi" となった。

 「料理の鉄人」はオーストラリアでも、SBSで放送されている。
 SBSはオーストラリアの多民族・多文化主義にのっとり、海外のテレビ番組を主に放送するテレビ局で、アメリカで放送されたものをSBS が輸入した形となっている。

 放送時間は毎週土曜日20:30~21:15。
 CMをカットしているためノンストップで45分間放送される。
 オーストラリアでも料理の鉄人の知名度は高く、Iron Chef公式ブックも発売されている。


 SBSは現在CMが入り、ノンストップではありません。
 また、「Fukui-san」は「フクイさん」ではなく「フクさん」と聞こえる。
 ずっと「フクさん」だと思ってきたが、聞いてみたらやはり「フクさん」である。
 フクイさんは呼びにくい。
 フクさんに縮めているのではないかと思う。


 オープニングは同じ。

★ 料理の鉄人OP
http://jp.youtube.com/watch?v=7c7MjiYLTVM&feature=related


 フジテレビのサイトから。

★ 料理の鉄人
http://www.fujitv.co.jp/jp/b_hp/rtetujin/

 “美食アカデミー”の主宰・鹿賀丈史が国内外から超一流シェフをキッチンスタジアムに招き、和・フレンチ・中華・イタリアンの鉄人に料理の腕を競わせる。
 毎回、異なるテーマ素材が与えられ、1時間で料理を完成させるのがルール。
 テーマは本番で主宰・鹿賀丈史が発表するまでは絶対秘密。
 制限時間の1時間も厳守される。
 この厳しい条件に耐えうるだけの技をもった料理人だけが、キッチンスタジアムに足を踏み入れることが許される。
 この緊張感溢れる本物の戦いから、毎回ドラマが生まれている。
 そう、この番組は料理格闘技番組ともいえるであろう。



 放送開始は1993年10月だが、これは30分番組である。
 翌年1994年4月からは45分番組となり、これは1999年9月24日まで続いた。
 この間の放送期間は5年半である。
 今は2008年10月であるから、この番組は「ちょうど9年前」に終了していることになる。

 まさに「よみがえるがいい、アイアン・シェフ」そのもの。

 SBSで放送されるのは45分番組であるから、この期のものである。
 再放送であるが、時に「これははじめてだ」という番組が入っているときがある。
 おそらくは、SBSが適宜にチョイスして放送しているのではないかと思われる。
 よって今回は、新しいものかなという興味でチャンネルを回しているということもある。

 SBSで出てくる鉄人は4人である。
 和食では道場六三郎と、その後をついだ中村孝明。
 フレンチと中華は各一人だけ、坂井宏行と陳健一。
 ところが、ナレーションでは三人とは別にもう一人せり上がってくる鉄人がいる、イタリアンの神戸勝彦。

 だがである。
 不思議なことに一度として彼が出演した番組を見たことがない。
 再放送されるとき、今度はイタリアンが入ったものが追加されるのではないのかと期待に胸を膨らましているのだが、いまのところ出てきていない。
 見てみたいのだが。
 神戸勝彦が第4のジャンルとしてイタリアンの鉄人に名を連ねたのは1997年6月ということである。



 道場六三郎が病気で入院し、欠場しているときの呼び出しは
 「二人だけよみがえるがいい、アイアンシェフ!」
でした。

 病気の道場にかわって、中村孝明が二代目和食の鉄人としてデビューしたのは1996年3月という。
 そして彼が1997年末に行われた「神田川本店」の神田川俊郎とのアラ対決の前に「もしこの勝負で負けたら引退する」と宣言、背水の陣で臨んだが敗れ、唯一の不名誉な3連敗を喫し、公言どおりに引退したという。
 このときのバトルはまだ放送されていない。
 ということは鉄人在任期間は2年弱。

 中村にかわっての三代目は森本正治。
 登場は1998年2月。
 ということは鉄人在任期間は1年半強。
 彼が最後の和食の鉄人ということになるが、もちろんまだ放送されていない。

 この名前聞いたことがあると思ったら、アメリカテレビ版"料理の鉄人"である「Iron Chef America"(アイアン・シェフ・アメリカ)」に出ていた。
 これは放送されたので、見たことがある。
 見ていて思ったことは、「これ和食か」という疑問。

 と同時に「これが日本食なのだ」という納得。

 こちらに純和風の日本料理店を開く人は多い。
 そして、みな失敗。
 すごすごと引き上げていく。
 大いに結構、大枚の開店資金がこの国に落ちる。
 経済を潤す。

 だいたい、ここで本場の日本料理を食べられるほどのお金持ちなら、時差という生理的面倒のない国では
 「ちょっと、***の料理が喰いたくなったので、日本へ行ってくるから」
ということになるのが普通。

 よって、ここでの和食は二流でよく、値段も手ごろで、かつ常に地元向け、オーストラリアン向けでないといけないのである。
 「時差のない社会」というのは、お金持ちにとって、沖縄県の向こうにある「豪州県」といった発想しかない。
 沖縄に住んでいて、そこで純和風料理を食べようとは思わないでしょう。
 食べたかったら、本土にいけばいい。
 飛行機代などは、そういう富裕層にとっては行動を縛る要因にはならないのです。

 お金持ちのオーナー経営者は日本の「和食」を持ち込もうとする。
 それが最高だと信じて疑わない。
 かれらは日本の「和食」しか知らない。
 世界という社会の中での日本食を知らない。

 誰かの本に書いてあったが、ここにいる板前は日本で食いつめて流れてきた連中だと。
 それでいいのだ。
 彼らが、地域に根を生やしたとき、そこから「クール・ジャパン」がはじまるのである。


 三代目鉄人就任当時は「NOBU」総料理長を務めていたという。
 ここで「NOBU」というレストランだが、もちろん我々一般人が入れるようなレストランではない。
 よって、実体はしらないが、世界では著名なレストランということになっている。

 先の朝鮮日報では「NOBU」がクール・ジャパンの尖兵としてとり上げられているのです。

★ 刀を置き、花を手にしたサムライたち 朝鮮日報 2008/05/25
http://www.chosunonline.com/article/20080525000021
─────────────────────────────────────────

 「クール・ジャパン」を取材するにはどこに行けばいいのか、と複数の日本人に聞いてみたところ、一番多かった答えは「NOBU」だった。
 「NOBU」は世界的に有名な日本料理店だ。
 ニューヨーク・ロンドン・ミラノ・香港など世界10都市以上に27店舗を展開しており、東京支店は都内の中心地・虎ノ門にある。

◆食でなく文化を売る
───────────
 「NOBU TOKYO」の蒔田浩巳マネージャーは、客がいない閑散とした午後に取材に応じてくれた。

 海外進出の初期は生魚に対する抵抗感をなくすため軽く火を通したり、サラダにしたりと、いろいろ工夫してみたそうだ。
 だが、「今は欧米でも“すし”と“刺し身”は低カロリーの健康食として市民権を得ました」と話す。

 「NOBU」は日本人シェフの松久信幸氏(59)がハリウッドの名優ロバート・デ・ニーロとコラボして立ち上げたレストランのブランドだ。
 もともと二人はシェフと常連客という関係だった。
 松久氏がロサンゼルスで経営していたすし店にデ・ニーロが通い詰め、意気投合しレストラン・チェーンを作った。
 ミラノ支店には有名デザイナーのジョルジオ・アルマーニも参加し、話題を集めた。

 西洋社会において「NOBU」は高級なイメージを持っている。
 米ニューヨークのマンハッタン支店はセレブが集まる店として有名だ。
 レオナルド・ディカプリオ、グウィネス・パルトロウ、ブルース・ウィリス、アン・ハサウェイ、サラ・ジェシカ・パーカーといった人気俳優たちもよくやって来る。
 世界各地に27店舗を展開する「NOBU」のチェーン店は、どこもその国の上流層をターゲットにしている。

 いろいろな話の中でも、特に蒔田マネージャーの「"箸"文化論」は興味深かった。

 「海外店ではフォークとナイフも用意していますが、常連客はたいてい、"はし"を使います。
 米国社会では、"はし"で日本料理を楽しむのが「上流層のシンボル」のようになりました。
 米国のエリートたちは、"はし"の使い方が若い日本女性よりも上手ですよ」

 つまり、「NOBU」は料理そのものではなく、日本文化を売っているのだ。

 「NOBU」だけではない。
 「すしレストラン」は世界のどの国でも高級なレストランとして知られている。
 すしや刺し身のような日本食には、「ウェルビーイング」(健康と美容にいいライフスタイル)のイメージもある。


 クール・ジャパンの最前線にある料理店の総料理長が最後の「和食の鉄人」として登場してくる。
 和食の鉄人なら、日本の名のある料亭に星の数ほどいる。

 なのに、「何故、海外から」来たのか。

 テレビ番組「アイアン・シェフ」はクール・ジャパンの先取りをしていたのだろうか。
 テレビ・デイレクターという職業は、社会の動きを敏感に察する能力を要求されるというのは確かなことだろうが。

 Wikipediaから
森本正治を調べてみる。

 三代目:森本正治(もりもと まさはる)<英語版Wikipedia解説>
先代の中村の引退直後、1998年2月に「ニューヨークからやって来た鉄人」の触れ込みで番組に登場。
 コスチュームカラーはシルバーに赤線というウルトラマンのようなもので、背中には日米の国旗を結わえた絵柄が入っていた。

 番組では「料理界の織田信長」と称されている。

 かつては寿司職人だったが、ニューヨークへ渡り、「ソニークラブ」総料理長を経て、鉄人就任時は「NOBU」総料理長を務めていた。

 道場、中村とはまた違った「ニューヨーク仕込みの和食」「地球料理」を見せつけ異彩を放った。

 ただし、道場の頃とは違い、審査員も多様化、また評価を厳しくしており、とくにこの時期、準レギュラー的に審査員を務めていた加納典明とは審査中もしばしば料理への考え方の違いで衝突するなど、苦労させられたようである。

 坂井宏行が若手フレンチ集団「クラブ・ミストラル」と対立したように、かつて坂井をタコ対決で倒した関西料理界の重鎮、太田忠道は森本正治の「創作和食」を激しく非難。
 自身が主催する「太田天地(あめつち)の会」から次々と会員を挑戦者として送り込むなど、因縁の戦いを繰り返した。

 2001年11月、フィラデルフィアに「MORIMOTO」を開店、オーナーシェフを務めている。
 2005年からアメリカ合衆国で放送されている"Iron Chef America"でも鉄人を務め、同じくアメリカ版の鉄人となっている。



 「創作和食」
 「地球料理」

 ついに出てきた、クール・ジャパンの切り札。
 文化庁がいやがりそうなヤツ。
 以前に、どこかのお役所が「正しい寿司」を普及させるために、とかなんとかいった運動を始めよう、というのをテレビみたことがある。
 アホらしさもここまでくると、二の句が告げない。

 『インド政府が「正しいカレー」の普及に』

乗り出した、というのを聞いたら、どう思います。
 「カレーの王子さま」が「カレーのおシャカさま」になるではないか。

 日本の純和食が食いたければ日本にいけばいい。
 食はその「地域社会文化に根付いたもの」である。
 それが受け入れられてクールになる。
 単一の地域社会では「ホット」なのである。

 世界の日本料理であればいいのである。
 世界に承認されて、クールになる。

 もちろん、「クールはいやだ、ジャパネスクがいい」というのもありますから、選択肢は多いほうがいいということになります。

 受け入れられなければ「消えてゆくだけ」
 クールに冷ややかに、社会の流れを見ていけばいいこと。
 なにも、「しがみつく」ことはない。
 去り行くものは去り行くだけ。
 強いて、押しとどめることもない。

 ちなみに、これうる覚えなので間違ってはいけないと調べてみました。
 農林水産省の「正しい和食認定制度
」あるいは「日本食レストラン認定制度」というのだそうです。
 やはり、「ふくろ叩き」にあったようです。
 あうでしょうね、当然のこと。
 あわなかったらウソになる。
 根源からしてお役所の考えそうなこと。
 霞ヶ関のヒエラルキーの中でしか思考できない人たち。
 文化発信の意味を「表層」でしか理解できない枠組みに慣らされた秀才たち。


★ 産経新聞 2006/12/10
http://www.sankei.co.jp/seikatsu/shoku/061210/shk061210000.htm

 【ニューヨーク=長戸雅子】
 日本の農水省が世界にある和食レストランを「正しい和食」と認証する新制度の導入を検討していることに、和食ブームが続く米国のメディアが次々に反応している。

 ワシントン・ポスト紙が「国粋主義の復活」と報じれば、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)は「日本がスシ・ポリスを派遣する」と揶揄(やゆ)、巻き寿司の「カリフォルニア・ロール」発祥の地ではロサンゼルス・タイムズ紙が「論争の火種になる恐れがある」などと警告し、

 さながら“日米食文化摩擦”の様相だ。

 農水省は認証制度の検討について「食材や調理法が本来の日本食とかけ離れた料理を提供している日本食レストランが増えているため」と説明。 

 現在全米に「日本食」を掲げるレストランは9,000店あり、10年間で2.5倍に増加。
 このうち日本人、日系人がオーナーの店は10%以下に過ぎず、経営者の多くが中国、韓国などアジア系の移民という。 
 和食激戦地のニューヨーク市マンハッタン・ミッドタウンにある小さな和食店もそのひとつ。
 オーナーをはじめスタッフは全員中国人で、顧客の9割以上は米国人という。

 スタッフの一人は
「日本政府の好みに味を合わせても意味はない。
 レストランは地元産業。
 地元の人が好む味に合わせ、創作するのは当然」
と認証制度の意義に首をかしげる。

 米最大の和食のメッカであるカリフォルニア州では、ロサンゼルス・タイムズ紙が伝統的な和食でない「カリフォルニア・ロール」などを挙げながら米国人が好む和食と農水省の判断に違いが生じる可能性を指摘。
 「米政府がアフリカや香港や韓国でアメリカ料理の認証をやろうとするだろうか」という韓国系米国人の和食店オーナーの声を紹介している。


 「カレーの王子さま」を「カレーのおシャカさま」にしてはならないのだ。



 よみがえるがいい、アイアン・シェフ[ビデオ]

★ Iron Chef Roll Call
http://jp.youtube.com/watch?v=2u7tt55w6m4



 アメリカ版、料理の鉄人について。

★ IRON CHEF AMERICA(料理の鉄人USA版)
http://www.fujitv.co.jp/cs/program/7215_058.html

 1993年10月から6年間フジテレビで放送されていた人気番組「料理の鉄人」。

 「アレ・キュイジーヌ!」料理の格闘番組として日本で人気を誇ったこの番組は、1999年からその180本以上が米国ケーブルテレビのフード・ネットワークで放送され、その料理に対する真摯な情熱とエンターテイメント性は、国境を越えて視聴者の心を掴んできた。

 さらにフード・ネットワークは、フジテレビの「料理の鉄人」のフォーマット権(番組の構成やアイディアを提供する)を購入し、2004年春にアメリカ版料理の鉄人「アイアン・シェフ・アメリカ」を制作。

 日本の制作スタッフが監修にあたったこの番組は2004年4月に米国で放送され、同局の「最高視聴率」を記録した。

 フジテレビ721では、そのアメリカ版「料理の鉄人」を逆輸入!ノーカット日本語字幕版で放送する。

初回放送日 : 2005/04/11
放送内容
  「アメリカの鉄人」となっているのは、日本の「料理の鉄人スペシャル」で和の鉄人森本正治と2度戦い、日本の視聴者にもおなじみのサウスウェスタンのボビー・フレイ。

 ニューヨークのレストランは予約困難なことで有名なイタリアンのマリオ・バターリ。
 そして六本木ヒルズのレストランでおなじみのカリフォルニア料理のウルフギャング・パック。
 全米で50以上のレストランを展開し、アカデミー賞公式パーティーの総料理長も勤める人気シェフである。
 そしてアメリカ版で彼らと対戦するのが、和の鉄人森本正治とフレンチの鉄人坂井宏行。
 対戦が日本人との対決となっているため日本の視聴者にも分かりやすい内容となっている。
 番組の構成やアイデアからセットのデザインまでを提供する契約のため、番組は「料理の鉄人」そのもの。

 日本版では鹿賀丈史が扮していた主宰者を、アメリカ版では俳優でもあり世界的な武道家でもあるマーク・ダカスコスが鹿賀の甥という設定で登場する。
 料理解説は人気料理番組の司会者でシェフのアルトン・ブラウン。

 審査員は「ダイ・ハード2」など映画やテレビドラマで活躍する俳優、デニス・フランツなど有名ゲストが出演する。
 放送したフード・ネットワークでは同局の最高視聴率を記録したというアメリカ版「料理の鉄人」、日本版の持ち味を活かしつつ、アメリカ版はどのように作られているのか!?

 さらに、アメリカでは2005年7月から新シリーズの放送が決定!721では今回のシリーズ放送終了後引き続きノーカット日本語字幕版で放送予定。


 最後の「和食の鉄人」が日本国内から選ばれずに、海外から連れてこられたという、この持つ意味は大きいのか、バカバカしいのか。
 
 「文化発信大国 ニッポン」

 だから、「日本は面白い」
 ということになるのですが。



 NHKの番組に「Cool Japan」というのがあるそうです。
 もちろん、こちらでは放送されていないので、これまで一度も見たことはありません。

 なを、NHKの電波は空を飛んでいます。
 よって、昔はパラボラアンテナを立てれば、見ることができました。
 ところが、日本人が受信料を払って見ているのに、「外国人がタダで見れる」というのはけしからんということで、国会で取り上げられました。
 NHKのFMラジオ放送は世界中で聴くことができます。
 それは、日本という国を知ってもらうためのささやかな取り組みです。

 テレビともなれば、映像文化です。
 音声だけのラジオにくらべれば百倍もの日本の情報を世界に流すことができ、それで日本を知ってもらえるとなれば、ぜひぜひやるべきことでしょう。
 日本を世界に発信する「大いなる取り組み」だといえます。
 
 でも、ケシカランという国内の反対にあって、ポシャリました。
 電波にスクランブルがかかってしまいました。
 「テレビ鎖国」をやってしまったのです。

 このスクランブルを外す装置を購入し、受信料に見合う金額を年々納めないと見えなくなってしまうことになったのです。
 日本語を知らない海外の人が、番組をみるのに、誰がお金を払って装置を買いますか。
 映像だから、日本語が分からなくても見ていて楽しい、それによって日本という国を、社会を、文化を、民族を知るようになるのです。

 スクランブルとは「文化鎖国」なのです。

 これで分かるのですが、日本人は誰もが
 「少しでも日本を世界の人たちに知ってもらいたい」
などとは、露にも考えていないということです。

 というわけで、我が家には残念なことにこのスクランブル解除装置がないので、NHKは見られないのです。
 なを、昨今はインターネットがブロードバンド(超高速大容量)になったため、ニュースは早朝のSBSのワールドニュースにチャンネルをあわせなくても、インターネットで好きなときに見られようになりました。
 早晩、一般番組もその方向をたどっていくのではないかとは思っているのですが。

 大河ドラマとか紅白歌合戦などは見たくもありませんが、「NHKスペシャル」と「ロボコン」だけはぜひとも見たいと願望しています。
 NHKの存在理由はこの「NHKスペシャル」にある、と私は思っています。
 あとは民放に任せても十分だと思っているのですが。 

 クール・ジャパンではないですが、「文化の閉鎖性」は時代の中で消えていくのではないでしょうか。
 「和の心」などという禅問答は歴史のかなたに置き去りにされるのではないかと思っています。



 ところで、その中に台所と料理についての番組があったらしいのです。
 それに対するまるで違った感想がサイトに載っていましたので、ちょっと抜粋させていただきます。


★ NHK「クールジャパン」は、とてもカッコワルイ! 余丁町散人(橋本尚幸)
  2008年9月10日
http://yochomachi.blogspot.com/2008/09/cool-japan.html
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 夕方見ていたNHKの番組「Cool Japan」。

 「ニッポンはカッコイイのだぞ~!」となんでもニッポンの風習を正当化してしまうのが番組の趣旨。
 ゲストの「傭われ外人」から手放しの「ニッポン賞賛発言」を引き出して自己満足し、少しでも「ちょっとおかしいのでは~」という趣旨の発言が出ると司会のオヤジが高圧的に封じてしまうのがいつものやり方。

 今日は日本の台所は狭いくせにやたらに物で溢れすぎているのではないかと言うことについて。
 ちょっと考えさせられた。

 日本家庭の台所は狭いくせにやたらに食器が多すぎるのではないか、とても雑然としているという「外人」のコメントがあった。

 食器にしても包丁にしても、数と種類が多すぎてとても収納できない状況になっているというのだ。
 やや同感。

 中国の家庭では包丁は一本、鍋は中華鍋だけ。
 ドイツの家庭でも包丁は通常一本で済まし、お皿の種類の一種類。
 それなのになんで日本の主婦はあれほど多くのお皿と包丁を買い集め狭い台所に収納しようとするのかと「外人」は疑問を呈する。

 普通の日本家屋としてはとても贅沢な家屋である新宿の林芙美子記念館を見ればよい。
 彼女が凝りに凝ったという台所はとても質素だ。

 現代日本の台所の方が異常なのだ。
 戦後、マカロニグラタンというものが日本に持ち込まれ、家庭の主婦はこぞって「グラタン皿」という一人前のグラタンを供する舟形のお皿を家族の数だけ買ったことがあった。
 アホだ(あんなものは日本以外では見たことがない)。
 それをいまだに引きずっていて外国料理にはそれなりの食器が必要だと思いこんでいるのだ。

 また日本の中でもきわめて特殊な料亭料理の真似を家庭でしようとしていることもある。
 台所が食器であふれるわけだ。
 ハウスメーカーはこぞって台所の収納に工夫をしてやたらになんでも収納できるようにするが、マッチポンプで追いつかない。

 包丁の数にこだわるというのは、ニッポンの悪しき職人文化だ。
 その職人の真似を家庭の主婦がしている。
 これでは救われない。

 現代ニッポンの「おいしいもの」への「拘り」は、遡れば江戸時代の食い物オブセッションにつながる。
 江戸時代の金持ちは、いくらお金を儲けても身分制度のおかげで己の地位の向上の機会が断たれていたため、やむなく大金をばらまく「刹那的」な消費(初物食い)などに逃避したという。
 現代日本でもこのような「逃避的」な消費性向が見られると云うことは、悲しいことである。

 このどうでもいいことへの異常な「拘り」は、------貴重な資源を浪費してしまうことに繋がった。
 おかげでニッポンはすっかり貧しくなってしまったのである。

 このような「ちょっとおかしい」ことは、外部(第三者)からでないと見えない。
 「ちょっとおかしいのでは……」という外人発言をNHKが高飛車に押さえつけているようでは、ニッポンの発展はないように思う。



 同じ番組への別の方の感想。

★ 「クールジャパン」  ”台所-kitchen” 2008/09/13
http://54820276.at.webry.info/200809/article_13.html
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★システムキッチン
 外国のキッチンは広くて明るい。
 それに引きかえ、日本の台所は狭い。
 でもその狭さの中に実用的な収納や、知恵が随所に見られ、外国人が使ってみると意外に便利だという。

 日本のシステムキッチンの流しで使われているのは、ステンレスが多い。
 それは高温多湿のため、水や火を使う場所は、湿気を防ぐために、使われた事から、ステンレスにあっという間に変わっていった。
 ボタン1つで昇降する棚、水を出しても音や衝撃を吸収する流し台・・・
 これでもかというくらい考えられたキッチン。
 見学した2人は「クールだ」と絶賛していた。

 外国は”火”を使うことを考えて作られているので、大理石等が使われている。
 日本は”水”と”切る”という事を念頭に置かれているという教授の説明に、なるほどと納得してしまった。

★食器
 一般家庭の台所を訪問したフランス人は、いろんな調理器具が台所に出ているのを見て、驚いていた。
 調理器具も沢山あるし、食器はなんと訪問した家庭では様々な種類のものが350もあった。

 外国と違って日本では、いろんな国の料理を「家庭で」作っている。
 その作った料理の為に、食器があるというわけだ。

 沢山の調理器具を使いながら作り上げた夕食は、実にバラエティに富んだ物だった。
 中華風サラダ、グラタン、インゲンのごまあえ他など。
 てきぱきといろんな調理器具を使う姿に、見学者のフランス人は驚いていた。

★和包丁
 大阪の堺市は和包丁の産地で、日本ではほとんどの包丁はこの地で作られているという。
 堺の鍛冶屋を訪ねたイスラエルのアナトは、実際に作られていく様をつぶさに見て、なぜ和包丁がよく切れるのかという事を実感したようだ。
 彼女は「和包丁一本あれば、一生使える」と鍛冶屋さんに言われて、納得したようだった。

 日本料理では実に様々な用途のための包丁が、作られている。
 同じ用途の包丁でも薄刃にしたり・・・料理人が使いやすいようにといろいろ工夫する包丁職人の技と心意気みたいな物を感じた。
 日本料理は仕込みが大切で、そのために調理器具も沢山ある。
 ここまで「拘る」・・・というのは他国では例を見ないことなのか。

 ノルウェーだったか北欧の人が、自国の料理の種類は10くらいで、よく切れるナイフといつも使う小さなナイフを使うだけで、よく切れる和包丁のような物はないと言っていた。
 日本人と結婚した彼は、夫人が6~7本、値段の高い包丁を持っていると言い、実家におみやげとして和包丁をプレゼントしたとか。
 その後、彼の実家ではよく切れる和包丁を使うようになったそうだ。
 何を切るのも和包丁らしい。

 確かに包丁は切れないとね。
 私は父から包丁を研ぐための砥石を買ってもらい、包丁の研ぎ方を習った。
 最低でも1ヶ月1回は研ぐようにといわれ、それを守っている。
 切れ味が違うし、研ぐ暇がない時は、茶碗や湯のみの底を包丁をこするととっさの場合に良いと教えてくれた。

 今回もそうだけど、いつの回も日本人の「こだわり」に感心する。

 それは実用的な物であっても変わらない。
 底にあるのは”美意識”なんだろうか。
 自分の体の中にも、そんなDNAがあるんだろうか。
 こうして外国人の眼から見ると、日本人って面白いなぁと思った。

 後世に残るような芸術品じゃなくても、市井の職人のこだわりや技を惜しみなく出して作り上げる日用品の数々。



 どちらも正当な意見のようですが。
 日本人の持つ異常な「こだわり:拘り」

 それを「日本人固有の美意識」と感じるのか、それとも過去の歴史からみる「日本人の性癖である浪費」とみるのか、それぞれのようです。

 私自身は料理はしないのですが、時に家族が日本行きになると一人暮らしになり、玉子焼きくらいは作りますが、包丁一本というのはどうでしょう。

 「包丁一本、さらしに巻いて、旅へ出るのも、板場の修業」
という藤島恒夫の歌がありましたが、やってみると小さいのと中くらいの2本は必要に思いますが。
 板前さんならスチールになりますが、家庭ではステンレス包丁でしょう。

 もし、魚を料理するなら、絶対に背の厚い魚包丁が必要ですから、3本は欲しくなります。
 ステンレスでは心もとない。
 大きな魚をやっつけようとすると、デバがいる。
 必要に応じて包丁は増えていく。
 まあ、家庭ではデバはいらないでしょう。

 欧米人は魚を食べないとすれば2本で間に合うかもしれません。
 もしかしたら1本で済むのかもしれない。
 肉文化か魚文化かで、包丁の数は変わってくる。

 ちなみに、包丁は私が研いでいます。
 料理の出来不出来については関心はあまりありませんが、切れ味についてはうるさいです。
 「切れる」ということに「こだわり」を持っています。

 「切れない包丁は、包丁とはいわない」

 サイトの余丁町散人(Le Mondeの抄訳をされた方)が言われるように、中華はアイアンシェフの陳健一の料理を見ているとあのデカイ中華包丁一本ですべてを済ましているようです。
 中華包丁で刺身を作ろうと思ったら、これは包丁修行に時間がかかりそうです。

 その修行時間を節約するために、道具に凝ってしまうのかもしれません。
 その道具に凝れば、種々の料理が居ながらにして、家庭ででき、そして味わえることになる。
 つまり、板前職人に頼らずとも、有名なレストランや名のある料亭に出向かなくても、高級とまではいかないが中級くらいの料理は自分で作れることになる。

 なんでもそうですが、オペレーションの半分は「道具のよしあし」に依存します。
 日曜大工は好きなのでよくやりますが、まずこれは道具に依存する。
 いい道具、必要な道具がないと何もできない。
 お手上げ。
 料理ならなんとか何とかつじつまを合わせられるが、相手が木材・金属ともなるとそうはいかない。

 ということは、「世界の料理」が道具に凝ることによって、素人もどきの腕しかなくても、「自分の手で作る」ことができ、味見することができる。
 とすれば作ったものを、その料理用の食器に盛るのは当然のことになる。
 日本ソバをラーメンドンブリで食べても美味くはない。
 その分、お皿が増え、道具が増え、「凝りやこだわり」が激しくなるということになる。
 でも、「見知らぬものを作る喜び」から、うれしさへとつながってくることは、ありうることである。
 世界の料理が最低のレベルであっても「家庭で味わえる」こと、作れること、この意味は十分に大きいと思います。

 「アイアンシェフ」が再放送を繰り返し、人気があるのは、確かにバトルの面白さもありますが、もしかしたら秘伝かもしれない世界の一流料理の作り方を、眼前に引き出してきているのではないか、と思うところにあると思います。

 そして分かることは「秘伝」などない、素材は別にして、作り方さえうまければ、そこそこ「素人にもできそうだ」、という印象を与えることにあるのだろうと思っています。
 そいう印象をもてば、見よう見真似で家庭で作ってみようということになる。
 そこから未知への展望が開けてくる。

 何もしなければ、何も生まれない。

 モノがないというのは合理的かもしれないが、貧しさである、とは言える。
 貧しいとは、「昨日も今日も明日も同じで済ます」ということになり、展望への道をふさいでいるということにもなりかねない。

 「知らないものを知らないで済ます」ことも一理ですが、興味というのはあった方がいいと思います。
 「知らないものを知ってみよう」というのは大切なことだと思います。

 食器にこだわるのは、時間的に読めもしない本を買って、書棚に「積んどく」というのと同じ現象です。
 男なら書籍、女なら食器、その差はない。
 本なら知的、食器なら愚的といったものでもない。
 ただ、食器は本に較べて確かにスペースをとりすぎる。
 取り扱いが面倒である。

 本を集めるのはそのうち読むだろう、使うだろうといった心理です。
 読めないかもしれないが本は図書館の棚より自分の本箱にあった方がいいと思う。
 「何時かは読める」「何時でも読める」という心の豊かさが必要です。

 読みたい本は図書館で、というのは合理的ですが、それが手近かな図書館にあるとは限らないし、取り寄せてもらうと時間がかかるし、決して「すこぶる合理的」とはいえない。
 手元に置けるなら置いておきたいと思うのは、本好きの習いです。
 遠くの図書館から取り寄せ、手元に届いたときは読む気力が失せていたり、必要なくなったり、興味が別の方にいったりしていることはよくあることです。

 もちろん、過剰な道具・食器というのはご免こうむりたいものです。
 でも、少なければ合理的というのも考え物です。
 適度というのはあっていいと思います。

 「ドイツの家庭でも包丁は通常一本で済まし、お皿の種類の一種類」
 肉料理だけなら確かに一本で済ませることはできるかもしれません。
 でも、それでは料理の発展、大言壮語するなら「明日の文化」が見えてこない。
 いつも、一本一皿で済ます料理になってしまう。
 それだけの料理で事足りてしまう。
 創造が生まれてこない。
 料理など、昨日と同じものを食っていればそれで十分というなら別ですが。


 もう一つ似たようなサイトがありましたのでちょっと長いですが、抜粋させていただきます。

★ ゲイ・サイエンス  2008年01月26日
http://blog.livedoor.jp/gayscience/archives/51175483.html
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 NHKの『クールジャパン』で、日本伝統の「飾り包丁」の妙技が紹介されていた。
 築地本願寺の板長さんが披露したのだが、この長島さんという板長は、この分野の第一人者だそうだ。

 さて、いつものように日本在住の外国人たちが感想を述べたが、スペイン人の男性が興味深い批評を述べた。 
 曰く、
 「野菜は飾っても飾らなくても、味は同じではないか。しかも実際に食べるわけではないから、野菜の飾りなんて、浪費ではないか」。
 欧米流合理主義の典型である。

 食に関して、この合理主義を突き詰めれば、最も合理的なのは動物であるということになる。
 およそ「高度な食文化」とは、「過剰と浪費」であって、それを否定することは文化そのものの否定である。

 すべての合理主義とは「還元主義」であって、野菜を桜の花びらの形に切らなくても、味や栄養価に変わりがないことは確かだ。
 欧米的合理主義の論理で云えば、宇宙食やサプリメントこそ合理的であり、素材をそのまま必要な分だけ食べる牛はさらに合理的であろう。
 どうりで、欧米料理は貧困なわけだ。

 さて、その意味では「日本料理は浪費」であろう。
 しかし、浪費にも良し悪しがあると思う。
 日本的浪費とアメリカ的浪費である。

 そもそも、浪費が可能であるためには、豊かでなければいけない。
 過剰さ・豊かさのみが浪費されるのだ。
 しかし、良い浪費とは、浪費される豊かさと、その目的が「価値生産的」な点にある。

 長島さんが云っていたが、飾り包丁の目的とは、「もてなしの心」にあるそうだ。
 つまり、浪費されるのは、もてなしの心という豊かさであり、その目的は野菜の飾りにその心を表現することである。

 「もてなしの心とは、浪費である」

 しかし、聖なる浪費である。
 浪費が可能であるためには、豊かに溢れるもてなしの心がなければならないわけで、日本料理のもてなしは、この豊かさを前提にしているわけだ。
 しかも、その心の豊かさは、高価なモノを通して表現されるのではなくて、大根や人参というありふれたモノを通して表現される。
 ここがポイントである。

 しかし、およそ人生で忘れられない行為のすべては、「過剰さの浪費」である。

 母親の愛情や、仲間の友情や、犠牲的行動や、英雄的行動は、常にその過剰さ・豊かさが歴史を変えたり、人の心を打つわけで、最小限の「コストパフォーマンス」を重視する欧米的合理主義からは出てこない。

 この世から浪費が消えれば、何の面白さもなくなるだろう。
 およそ創造というものも出てこない。
 浪費とは不合理であるが、人生の貴重な瞬間を支えているのは、じつは「不合理な浪費」である。

 「モノは作られたもの」でありながら、私たちの心を感動させる「作るモノ」でもある。
 「モノが表現」であることを知り抜いていたのが、日本人である。

 大根は、もてなしの「心を表現できると信じる点」に、日本人のユニークさがある。
 季節ごとの風流を、飾り包丁で表現するというのは、大根というありふれたモノに、作者の「魂を表現できると信じる点」がユニークなのだ。

 たんに栄養価以上の表現として食事を作ることも不合理だし、「もてなしたい」という過剰も不合理である。 
 しかし、その過剰な不合理は豊かさからしか出てこない。

 欧米的合理主義には、モノが表現的であるという思想が乏しい。

 欧米人が、モノに心の表現を込めるとき、それは貨幣に還元されて価値を換算された場合だけである。
 ダイヤモンド贈ることは、心の証である。
 でもそれは、それが貨幣に換算されるとき、「高価だから」という合理的・還元的理由による。

 しかし、大根という安価なモノを飾ることがもてなしの心になるのは、
 「凡てのモノは表現的である」
という日本的伝統を抜きにしては理解できないだろう。

 欧米と日本の中間点にあるアジア・アフリカ圏は、客人をなけなしの家畜をつぶして接待するが、ありふれたモノに接待の心を表現するのは、海外生活が長い小生にしても、日本ぐらいだろう。

 心の豊かさの過剰さは不合理であり、それをモノで表現することも不合理である。
 しかし、なんと豊かであることか。

 『クールジャパン』のイスラエル女性が、「食の"美"に関しては、日本人に匹敵する民族はいない」と、ボソッと付け加えたが、そのへんをうまいこと直感している。

 ちなみに、日本人には「もったいない」という言葉もある。
 それはある種のモノの浪費が、いかなる精神的表現も生産しない場合のことを云う。

 アメリカ的浪費である。モノが、たんに物として消費される文化・・・。
 モノの浪費が、貨幣に換算された限りでの浪費。
 俗な浪費である。

 モノが、精神的表現であることができない浪費。
 つまり使い捨て。
 しかし、アメリカ人個人が、偏狭な合理主義という意味ではない。
 アメリカ人は、ある面では日本人以上に不合理な善意の豊かさがあり、イラク戦争もその過剰な一面ではある。
 いまどき、大義のために戦争にいける国は、アメリカぐらいだろう。

 アニメのフィギュアーからデコ系の携帯電話に至るまで、「モノとここまで親しく表現的に接する」民族が他にいるだろうか?

 聖なる浪費といえば、言い過ぎか?
 モノをとことん表現的に見て、「こだわり」をとことんそこに「浪費する」。



 「よみがえるがいい、アイアン・シェフ!」
は、「日本の文化発信」について語るとき、けっこういい素材です。

 誰にでも分かる「料理のバトル」という特異性をもっているためでしょう。
 そこから手繰っていくと、「エ!」といったいろいろな話題を提供してくれます。
 話題を拾っていったらきりない。

 なにしろ、再放送、再放送、連発の番組ですから。


 やたらと長くなってしまいましたが、最後はお世話になっているWikipediaでしめます。

 日本の料理は「和食」(学術的には「日本料理」)と呼ばれており、欧米の料理とはかなり異なっている。

 同じ米食文化を共有する東アジアや東南アジア諸国には、日本と類似した料理、食材などが数多く見られる。
 しかし、東アジア諸国での食事の仕方は鍋物や大きなお皿に盛った料理を皆で取り分ける食べ方が多くみられ、日本では個人専用の食器を使い、個別におかずが出るお膳などで食事をとる、など違う点もある。
 また、箸文化圏内で箸しか使わないのは日本だけとされる。(他地域では汁物や米を食べる時にレンゲやスプーンなどのすくうものを使うのが一般的である。)

 ほかにも、箸を持っていない方の手で茶碗や皿などの食器を持つ、主食と副菜(ごはんとおかず)を明確に分け交互に食べる(いわゆる三角食べ)など、日本以外では見られない、ようなことも多い。
 近年は低脂肪の日本食が評価され、全体で栄養バランスの取れた健康的な食事とも言われる。

 外国から見ると、日本人が魚介類や卵を生で食べることは奇異に感じられることもある。
 海草を食べることも、諸外国では少ないようである。
 また、鍋料理のように、素材のまま出し、食べる人が自ら味付けや調理を行う料理法は、他の国にあまり例がないようである。




 <おわり>



【Top Page】




【追記  
中央日報 2009.01.29】

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=110629&servcode=A00%C2%A7code=A00
ニューヨークの和食レストランは小さな「日本文化院」




米ニューヨークのタイムワーナーセンターの4階に位置する高級寿司店「MASA」。

「銀座スシ幸」のオーナーシェフ、高山雅さんが04年にオープンした同店は、大きな竹のすだれが店内のあちこちにかけられていて、壁には屏風が立てられているなど、完全に日本風であることから「寿司の寺院」というニックネームで呼ばれる。

料理は木器、陶磁器、ガラスの器など高級食器に盛られる。このように日本の文化を掲げたのが成功した秘訣(ひけつ)のひとつとされる。米経済誌フォーブスは06、07年に同店を全世界で最も高いレストランに選んだ。

1人=400ドル(約3万6000円)のディナーメニューもある。レストランに文化を加え「和食=高級」のイメージを植える現場だ。 「MASA」は全米ナンバーワンのレストランガイド「ザガットサーベイ」が選定した「ニューヨークベスト25」に入る和食レストラン7店のうちのひとつ。

ウナギ専門のシェフ、ヤスダ・ナオミチさんが運営する「寿司ヤスダ」は、ワインの代わりに4種類の日本のビールと6種類の日本酒だけを扱い、デザートもモチアイスクリームをサービスするなど和食博物館の役割を果たしている。

寿司専門店「ササブネ」は、調理室のそばに大きな生け花の作品を展示している。またアメリカ人が好むカリフォルニアロール(実は日本 ではなく米国で開発されたもの)や味付けしたマグロののり巻きは売らないという方針を決めている。シェフのマスヒサ・ノブユキさんがハリウッドスターのロ バート・デ・ニーロとマンハッタンで共同で運営する寿司店「NOBU」は日本の料理と文化が米国の主流社会の中に深く入り込んだことを示す。

米連邦政府の弁護士サイラス・ネジャードさん(33)は「最高のレストランで実習生に昼食をおごるのがニューヨークの大手ロー ファームの伝統だが、実習生だった02年の夏に行ったのがNOBUだ」とした後「大人気で非常に有名である上、優雅な和風だったので、そわそわしながら食 事をした」と話した。

フランス・パリのシャンゼリゼ通り付近にある回転寿司の店「ロ・スシ」を夕方に訪問してみると、20~40代の若い顧客で満席だった。テーブルに東洋系の顧客は見当たらなかった。ほぼ100%がフランス人のお客さんだった。

パリの心臓といわれるシャンゼリゼ通り付近とソルボンヌ大学(パリ大学の一部)がある大学街ラテン区にも、ここ数年間で新しい和食レストランが10店もオープンした。推算によると、現在パリには約550~600店の和食レストランが営業中だ。

パリ第1大学に通うノルベル・オーランジュさん(23)は「和食と和風のインテリア、陶磁器、装飾品に会える和食レストランはひとつの‘小さな日本文化院’と認識されている」と話した。

日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)の茂木友三郎会長は最近、公式の席上で「日本の食文化は食材と調理法にとどまるものではなく、器と色感、建 築など日本の総合的な文化を反映している」とした上で「全世界の和食レストランは、外国人が多様な形で日本の食文化に接し、共有するための場所と時間を提 供する、日本文化のショールームだ」と述べた。

日本食を海外に普及すると同時に農産物と水産物の輸出を促すのが同機構の目標だ。そうした機構の会長が、日本食の海外への普及は日 本文化の普及にもつながるとコメントしたのは意味深長だ。同氏はしょう油などを主力製品とする食品メーカー・キッコーマン株式会社の会長でもある。

日本食と文化を同時に普及するという狙いがはっきりとわかる場所が、米ニューヨークで07年9月にオープンした「tokyo  bar」だ。天井と壁に漫画が描かれ、店内にはアニメーション映画の主題歌が流れる。メニューはオムライスとたらこのパスタなど、すでに日本食に位置付け られた洋食や日本伝統の料理など多様だ。

日本の農林水産省の推算によると、海外で営業中の和食レストランは2万店を上回る。うち約1万店が密集する北米地域では、高級の和 風創作料理からトンカツ、たこ焼きに至るまでさまざまな日本食を提供している。それとともに、店内のインテリアから畳、器、壁を飾る浮世絵、書画、屏風、 着物姿の人形など日本の伝統と現代文化を海外に知らせる尖兵となっているのだ。

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2008年10月10日金曜日

文化発信大国日本5:新たなサムライたち


● 和太鼓 TAO:技とスピード:新たなサムライたち


 文化発信大国日本5:新たなサムライたち
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 「和太鼓 TAO」を観てきました。
 一昨年に続いて2度目の公演。
 相変わらずにすばらしい。
 人数もふえ、パフォーマンスは一段とさえてきた。
 観客総立ち。
 拍手なりやまず。

 大きな劇場を作っても、それを満杯にできる演劇集団は少ない。
 ものがデカイだけに、ランニングコストはバカにならない。
 よって、赤字経営が蔓延しているのが、昨今の実情。
 公共団体なら税金をつぎ込んでなんとか維持している。
 何しろ、自前のステージを持つということは、自治体の独立性の問題がからんでくるほどの大事である。

 TAOは、その赤字劇場に「チケット売り切れ」という、天から降ってきたか地から沸いたかしらないが、とてつもない朗報をもたらしてくれる集団。

 クラシックなら老人専用、ポップスなら若者向き。
 こちらの国ではポップスを聴きに、若者が劇場に足を運ぶことはない。
 となれば、劇場とは老人の知的満足を満たすところに過ぎなくなる。
 それだけでは劇場を埋め尽くすことはできない。
 まして、チケット売れ切れなどというのはとてもとても。

 小学校の児童から、七十のジイサンバアサンまで、あらゆる層から観客を動員できるのが、TAO。
 決して安くはない、高いといっても間違いにはならないチケット値段。
 そう、小学校の児童が、親に連れられて大挙して、このバカ高いチケットを片手にやってくるのである。
 日本のように一人っ子ということはない。
 こちらはベビーブーム。
 ショッピングセンターにいけば、バギーの列。
 学校が足りずに、毎年小学校が開校しているほど。
 それでも間に合わない。
 3人の子どもは当たり前。
 とすれば親子で5人。
 チケットの合計は。
 劇場側からみれば、曰く「福の神」


★ 25today TAO 和太鼓エンターテイメント集団 2008年6月
http://top.25today.com/topics/news/qld_0806/01.php
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  繊細なリズムとスピード感のあるパフォーマンスが世界中で喝采を浴びている。
 ステージは、男女混成のメンバーが、全長1.4メートルの大太鼓などを、精神と体力の限界まで打ち抜く姿が感動を呼んでいる。

 同集団は1993年に九州で結成され、その7年半後に、日本国内で100万枚のチケット・セールスを達成した。
 第50回紅白歌合戦に出場するなど、日本国内で活躍の場を広げ、
2004年、イギリスのエディンバラで海外初公演を果たしている。

 以来、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカと、世界各国で公演をこなし、2006年度は世界5カ国で20万人、日本国内で10万人の計30万人を動員。
 昨年の全豪ツアーでも、チケットが完売する盛況ぶりを見せた。

 伝統芸能という枠にとらわれず、常に「斬新で新しい演奏」を披露し続けるTAO。

 技術のみならず、「ストーリー性のある曲作り」、打ち手のキャラクター作り、工夫を凝らした舞台装置や照明など、「こだわりのあるステージ作り」にも定評がある。

 日本人としての誇りと、大自然や世界中の音楽・ドラミングから得るインスピレーションを織り込んだ、彼ら独自のパフォーマンスは、正に“国境を越えたエンターテイメント”だ。


 この中に2006年度は「海外20万人」「日本国内10万人」の計30万人とある。
 海外の方が日本より倍も多いのである。
 それも20万人といえば、ハンパな数ではない。

 この意味するところは。

 「若者は世界をめざす」
 「ポップカルチャーとは世界と出会って大衆化する文化」


 あの強い強いと言われるケニヤのマラソン・ランナーでオリンピックに名を残したのは二人しかいない。
 コニカのワイナイナが準優勝と3位、そして8位入賞。
 3回走って3回とも入賞、彼はオリンピックで入賞を外したことはない。
 最初のときは何と、補欠メンバーであった。
 北京オリンピックでワンジルがケニヤ選手としてはじめて優勝の栄冠に輝く。
 仙台育英からトヨタへ。

 どちらも日本で育った。
 強いケニヤ勢だが、オリンピックで入賞したのは日本育ちだけである。
 ワンジルは言った「日本でガマンを学んだ」と。
 ガマンとはこだわりである、ノメリコミである、凝り性ともいう。
 日本選手は弱いが、育てあげる力は日本にはある。

 若者は世界と出会って、はじめて自覚する。


 CDの売り上げからいくと、世界で500万人以上がTAOを聞いている、ということになるという。

 DVDのカバーより。

★ 世界250万人の魂を振るわせたTAOのパフォーマンスが蘇る。

 「超絶的に鍛え抜かれた身体」が、バチを手に激しくも美しく乱舞する。

 彼らに命を吹き込まれて、和太鼓は時に深く響き合い、時にビートの奔流となって、聴く者の心を押し流す。
 その圧倒的なステージ・パフォーマンスで世界の観衆を魅了し続けるTAO。

 世界の舞台へデビューして3年。
 海外の至る所で賞賛の嵐を浴びてきたその舞台の魅力を余すところなく映像化した。
 2007年ワールドツアーの熱狂を伝える最新LIVE映像とともに、本DVDのために行われた特設ステージのパフォーマンスで新旧の名曲の数々を収録。

 進境著しいTAOの"今"のすべてが、この1枚に凝縮されている。


 「超絶的に鍛え抜かれた身体」

 超絶とはちょっとオーバーな表現、と思われるかもしれませんが、いやいやとんでもないこと。
 一度でも舞台をみれば即座に納得できるスゴさ。
 「いったい、あれで体が持つのだろうか」という疑問にさいなまれてしまうほど。

 「若きサムライたち」、そこまで鍛えられた者に許された演技。

 刀を置いたサムライは、「花など手にしていなかった」。
 叩きつけるバチを握っていた。
 肉体を「のめり込みのイメージ」で作り上げていた。

 免許皆伝。
 最奥義は「竜のひらめき」か。
 舞台を見れば分かる、手にする「バチはひらめいている」のだ。

 真実の吐露としてもおかしくないほどの鍛えられたサムライたち。
 女性もいるが、サムライで通る。


● 和太鼓 TAO:極限体力のパワー
 <クリックすると大きくなります>


 「TAOとはなんぞや」という方はこちらのビデオを。

★ TAO IN CIUDAD REAL (SPAIN)
http://jp.youtube.com/watch?v=x6GsD8EsArM&feature=related

★ TAO JAPAN DRUMMERS
http://jp.youtube.com/watch?v=iy15ZaCklQc&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=76YJGTIAxXw&feature=related


 これはサワリ。
 生でみる迫力は想像を絶する。
 DVDでも生ほどではないが、十分。
 「大祭」はテレビに向かって拍手をしてしまうほど。
 「竜のひらめき」かも、と納得してもいい。


 DVDのパンフレットから。

 1993年に結成したTAOは1995年に九州・大分県久住町に本拠地を据え、本格的な創作・公演活動を始動。
 十年足らずの間に地元九州で百万人を越える観客を動員。

 2004年、イギリスで毎年開催される世界的な音楽・芸能の祭典「エデインバラ・フリンジ・フェステイバル」で世界デビュー。
 1カ月の公演は大成功を収め、世界から大きく注目を浴びた。

 翌、2005年からは本格的な「世界ツアー」がスタート。
 ヨーロッパ各国、ニュージーランド、オセアニア、北アメリカ、アジアなどを巡り、全世界での観客動員数は「累計250万人」を超えた。

 2010年には、いよいよ設立当初から目標としてきたエンターテイメントの聖地・アメリカでの「長期公演」に臨む。



 下記はTAOのホームページです。

★ TAO
http://www.drum-tao.com/



 もう一度、パンフレットから。

 TAOは日本に数ある和太鼓グループにおいて、異彩を放つ存在だ。
 最も古い伝統楽器として日本文化の中心におかれ、古来の流儀に守られてきた和太鼓。
 彼らはその楽器に取り組みながら、奏法、楽曲、舞台製作‥‥
 そのすべてにおいて「伝統にとらわれない」独自のアプローチを続けてきた。

 彼らが追い求めるのはただ一つ。

 和太鼓の持つ楽器としての可能性、シンプルであるがゆえに深く人の魂の底にまでその響きを届けられる「力を引き出すこと」。

 そして彼らは、その挑戦から新しい音楽を創造し、和太鼓を日本の「伝統文化という文脈から解き放って」、世界に通用するエンターテイメントと昇華させた。


 何が世界に受けるのか。
 何をもって「クール」と言わしめるのか。
 何をもって万人を熱狂せしめるのか。

 和太鼓を日本の伝統文化という文脈から「解き放った」こと、そのことがクールを呼び込んだということになってくるのだが。

 TAOはその一つの姿を提示してくれています。

 パンフレットを続けます。

 2004年に念願だった世界の舞台へのデビューを果たした彼らは、現在「年間の半分以上」を海外ツアーに費やし、そのダイナミックなステージはいたる国々で多くの人々に感動を呼び起こし、賞賛を浴びてきた。

 「国境も文化の壁も軽々と越える」和太鼓の響きを共通の言葉として、世界中の人々の心に響きあう魂の共鳴を生み出しながら、彼らはその活躍の場をますます広げ続けている。


 「文化を発信する」とは、国境を軽々と越えるもの、固有の文化を軽々と越えるもの。
 それがクール・ジャパンの本質なのかもしれないが。
 「日本らしさを」前面に押し出していくジャパネスク・モダンとどうかかわりあうのか。

 2匹の竜がどの様にぶつかり、どうからみあうのか。
 その葛藤のなかから、新しい発信力が生まれるのであろうか。
 それとも、共食いでジリ貧に陥ってしまうのか。

 見えない未来の面白さである。 



 なを、このジャンルではすさまじいほどのサムライたちがうごめいています。
 その一つを。

★ ユーチューブ的気まま音楽集~ユーチューブファン必見~: 和太鼓 2008年09月24日
http://sonngs.seesaa.net/category/5662177-1.html

 野和太鼓「昇舞」
 すごい迫力です。
 他の和太鼓集団と比べて、相当完成度が高いように思いました。

 ユーチューブ(YouTube)で、「和太鼓集団 TAO 2008 双飛」を探していたのですが、規約違反で削除されていたのでこの作品を載せました。

 ちなみに、この作品をビデオに撮ったのは、クレパス信ちゃん家族のようです。
 



 ところで、「ハテナ」記事があったので、一部を抜粋します。

★ 文化庁メデイア芸術プラザ Beyond the Art Vol.1
   クール・ジャパンはクールではない
http://plaza.bunka.go.jp/museum/beyond/vol1/
─────────────────────────────────

 そもそも、日本ではあまり語られないが、「クール・ジャパン」という言葉自体が、1990年代のイギリスで展開された「クール・ブリタニア」のまね、というかパクリなのである。

 クール・ブリタニアは一定の内実を伴った政策だったが、クール・ジャパンはその足下にも及ばない。
 日本から新たな価値の発信を、などと言っても、その中核のキャッチフレーズが物まねではどうしようもない。

 確かに、日本のポップカルチャーは高い競争力をもっている。
 しかし、その力は別に2000年代に強くなったわけではない。
 むしろいまや、日本起源の感性があまりに拡がったため、コンテンツ産業の一部はすでに衰え始めているようにも見える。

 もし、いまの日本にクールな部分があるとすれば、それは、「クール・ジャパン」などという言葉に踊らされている人々には、決して見えない場所に潜んでいることだろう。


 残念ながら、私は日本の情報を十分受け取れる場所にいないのでよく分からないのだが、クール・ジャパンは「パクリ」だというと、それをパクッた主体が存在したことになる。

 「ジャパネスク」なら、お役所がやっていることであるから、一定の内実を伴った政策であることは当然である。
 だから、ひじょうにわかりやすい。
 出処がはっきりしている。

 でもクール・ジャパンというのは、日本の文化が勝手に海外で受け入れられて、その現象に何か名前をつけようとしたとき、ちょうど海外のメデイアに「クール・ジャパン」という名称が載ったので、それはいいとその名前をパクッたのではないだろうか。

 それともその名で運動をおしすすめた「クール・ジャパン協会」といったような組織があるのだろうか。
 調べ方が悪いのかもしれませんがインターネットにはないようなのですが。
 ちなみに、私は「自然発生的現象」であると思ってクールジャパンを書いてきました。

 もし、自然発生的だとすると上の論理はまるで成立しないことになってしまうのだが。

 自然発生的なら「
新たな価値の発信」であろうと、あるいは「コンテンツ産業の一部はすでに衰え始め」てきたとしても、別にどうということでもないのではないだろうか。
 その現象が受け入れられなくなったら、それだけのことではないのだろうか。

 自然的に盛り上がったのだから、ウエーブが過ぎたら沈静化するだけのことである。
 いっときのはやりであり、いつか下火になるのは見えている。
 強いてそれを下支えすることでもあるまい。
 
自然発生的現象とはそういうものだろう。
 「政策論理」を立ててやっているわけではないのだから、「メクジラたてる」ことでもない。
 ごくごく普通のことである。

 もし、私が理解しているように主体組織が存在していないとするなら、どうも大幅にピントがずれているように思えるのだが。
 官製文化でないポップカルチャーなるものが流行ってしまい、海外を「お役所エリア」と思っていたのに、なんとも「ケシカラン」といった当局の嫌悪感の表れのようなものが感じられます。



 ちょっとクールな「遊び心」で。
 『クール・ジャパン、さてその正体は』
 とくれば、「七つの顔を持つ男:多羅尾伴内」となるのだが。

 [リサーチャー・リサ子]さんがお届けします。


★ 日経トレンデイネット  2008年10月07日
リサーチャー・リサ子の解明!COOL JAPAN――クールジャパンって何?

 大奥の衣装からゴマの成分まで、依頼があれば何でも調べる! 
 それがテレビ番組リサーチャー。
 そんな世界で働くリサ子が「クールジャパン」の正体を探ります。

【第1回】
クールジャパンの「正体」を求めて、擬似・海外取材はじまる! 
─────────────────────────────────────────
 クールジャパンを探りに海外取材実現!?

 小生テレビ界のすみっこにて、「調べもの」で世過ぎをしているリサーチャーでございます。
 やれクレオパトラの衣装だの、ケネディ暗殺の謎だの、ガラパゴスのイグアナの生態だの
 ……これまであまたの物件を調べて参りました。
 調べたことは、番組が終わると同時に忘れ去っていくのが習いですが、それでも脳の片すみに知識の断片が残っています。
 無駄に。
 かなしく。

 スコットランドのウイスキー工場では猫を飼っていることも、紹興酒のふるさとでは娘の誕生時に仕込んだ酒を嫁ぐ日に持たせることも知りました。
 ……図書館で。

 レアルマドリード対バルセロナの試合の熱気、モンゴルの夕日の雄大さ、西アフリカの太鼓の音
 ……知っていますとも!話に聞いて。
 うえーん(泣)。
 あたしったら単なる「耳年増」。

 海外に行きたいよ~。
 リサーチャーに海外取材権を!
 せめて海外旅行休暇を!
 燃料サーチャージ値上げ反対!
 今回そんな私に、「クールジャパンを解明せよ」との命がくだりました。

 『日経エンタテインメント!』のO編集長は言いました。
 「世界中を旅して、日本のどこがクールなのか聞いてきて」。

 ウソです。
 そんな夢のようなことはひとことも言いませんでした。
 予算がそれを許しません。
 いいえ、それより何より、私の語学力がそれを許さない(とほほ)。

 クールジャパンを探りに海外取材実現!?
────────────────────────────
 実際のところ、ある日、O編集長が「クールジャパン、クールジャパンってみんなよく言うんだけど、実はなんのことだかよくわかっていない人も多いと思うんだよねえ」と話しかけてきたのがすべての発端。

 「ええ、まさに私もよくわかってないひとりです」
 「じゃ、クールジャパンって切り口で、いつもみたいに軽~く調べてみて」

 つまり、大宅壮一文庫と国立国会図書館と八重洲ブックセンターへ。
 パスモで移動可能な「せま~い範囲」を地味~に巡って、おもしろい話を探してきてちょ、という発注でした。
 どうせそんなもんです、リサーチャーの仕事なんて。
 求められるのはダイナミックさではなく、「小回り」。
 世界を股にかけた取材ができる日は、
 遠い……。

 なんて思いつつ、クールジャパンの正体をさぐることになりました。
 クールジャパンの語源や流行の経緯はおいおい調べていくとして、とりあえず、

 「外国人が“クール!”と叫ぶもの」

 というたいへん大雑把な定義でネタ候補をリストアップ。
 アニメ、ゲーム、村上隆…
 ええと、ええと、あと何があったっけ?
 そこで書を捨てて街へ出ると…
 回転寿司、カプセルホテル、セーラー服、ボンカレー、グリコのおまけに缶コーヒー。
 なんだか日本発祥のクールなものっていろいろありそう。

 そのとき、ハタと気が付きました。
 「おぉ、そうか!外国人の気持ちになってウロウロすればいいんだ!」


 「気分だけ海外取材」でニッポン全国を回るぞ!
─────────────────────────────
 外国人目線になって眺めたとき、見飽きたはずの東京がクールでエキサイティングなシティに見えてくる!(←これじゃ、外国人じゃなくてルー大柴です)

 今回わたくし、日本にいながら「海外取材」気分を味わってみようと思います。
 幸い、言葉のウォールはナッシング。
 外国人目線になって、どかどか突撃し、じゃかじゃか質問してみる。
 そしたらクールジャパンのしっぽがつかめるかも!?

 というわけで、心の奥底に「いつかほんとの海外取材」という野望を燃やしつつ、とりあえず「気分だけ海外取材」でニッポン全国をすみずみまで巡ってみたいと思います。
 …え?
 パスモの範囲だけでいい? 
 いや、ま、そうおっしゃらずに。

 こんな調子でクールジャパンの実像に迫れるのか、どうか。

 どうぞ、気楽におつきあいくださいませ。




<つづく>



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2008年10月7日火曜日

文化発信大国日本4:竜のひらめき


● 新日本様式:ホンダ・アシモ君:技術と高品質
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 文化発信大国日本4:
竜のひらめき
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 電化製品を買うと、1年のワランテイ(品質保障)がついてくるのはどこでも同じ。
 また、価格の十数パーセントから二十パーセントを支払うと2年保障に延長される。
 もちろん、そんな保障には金は出さない。

 故障には「初期不良」と「ランニング不良」がある。
 初期不良は1年以内に出てくるもので、これに対する保障が1年のワランテイである。
 ランニング不良は使用することによって発生する部品の老化現象が主なので3年以降とみていい。
 通常は初期不良が出てしまえば2目から3年目にかけて故障はないものと見ても大きな間違いはない。

 もし、そこで出てくるようなら、その製品は四六時中故障に悩まされる製品となり、不良品とみて差し支えない。
 そういう製品は1年ワランテイで排除されているはずである。

 初期不良は結構ある。
 「髪に優しい柔らかい風が出てくるドライヤー」の売り出しがあったので購入した。
 数ヶ月でヒーター部分から火が出て、バチーンという音とともに焼き切れた。
 日本では考えられないことが起こる。
 それが普通の生活。
 日本が大幅に違いすぎるのだ。

 製品保証書というのはない。
 領収書をもっていけば販売店で処理してくれる。
 日本なら、同じ製品を製造元から取り寄せてくれる。
 もし、ささいな故障なら、販売店を通じてメーカーに修理を依頼することになる。

 ここではそうはいかない。
 販売店は「ただ売るだけ」
 何しろ、電化製品だとアメリカ、日本、韓国、その他のその時期輸入された品物を店に並べて売るだけ。
 数カ月前のストックなどもっていない。
 同様にメーカーとの関係ももっていない。
 商社あるいは、輸入業者までしかコンタクトはとれない。
 メーカーはすべて海の向こう。
 同じ製品との交換など、絶対に不可能。
 同じようにメーカーへの修理依頼も絶対に不可能。

 ただ、店にある同じ値段のものと交換するだけ。
 それが「1年ワランテイ」の仕組み。

 もちろん、ピッタリ値段が一致する製品などありはしないし、あってもデザインあるいは仕様が気にいらないということもある。
 よって、値段の違う別のものを選ぶことになる。
 選んだものが安ければ、差分の金額がバックされるかと思うのだが、これはできない。
 ユーザーの損。
 高いものを選んだら、当然その分費用負担になる。
 これもユーザーの負け。

 「髪に優しいドライヤー」は普通のドライヤーに変わってしまった。

 ところが、このドライヤーまた1年たたずに動かなくなってしまった。
 頭にきたのだが、ついていないときはついていない。
 今度はその領収書が見つからない。
 あきらめて、Kマートで安物のドライヤーを買ってきた。
 もう1年を過ぎているが、これは故障していない。
 いやになってくる。

 なを、ワランテイを過ぎたものが故障したらどうなるか。
 「ここで買ったのですが」と領収書を持っていっても相手にしてくれない。
 「修理は承っておりません」というのが答え。
 販売店とは販売するだけの店、修理の取次ぎ所ではない。
 ではどうするか。
 「じかに修理屋さんにもっていってください」と言われる。
 修理屋の住所と電話番号を書いてもらって、地図をたよりに修理屋を探すことになる。
 よって、販売店には消費者の意見のフィードバックはないことになる。
 なぜなら、売っているものは外国製品が主なのだから。

 先日、冷蔵庫が故障した。
 前に乾燥機を修理してもらったことがあるので、
白物専門の修理屋を知っていた。
 電話をしたら翌日の夕方来てくれた。
 修理してもらったが、でもすぐにまた冷蔵庫が動かなくなってしまった。
 どうも部品がイカレたらしい。

 GEの製品で部品を取り寄せて、最終的に直るのに、なんと2カ月もかかった。
 その間、代替で小さな冷蔵庫を置いていってくれたが、これがこの国のメーカーが作ったとんでもないシロモノ。
 霜がビッシリとからみつき、2週間おきくらいに、いったん止めて霜取りをしないといけない。
 面倒なので冷凍庫は使わないことにしたが、その凍った部分が下の冷蔵庫にも広がり、まったく作動しなくなってしまった。
 一度、電源を切って、乾燥させてから再使用になった。
 修理期間の2カ月は、この代用品の動きをヒヤヒヤ眺めながら、じっとガマンの子であった。

 こういう社会に住んでいると、品質なんてものは「縁遠く」なる。
 「がまん、がまん」と「ノー・プロブレム:問題ない」、それが口癖。
 なるようにしかならない社会。


 でも、日本では品質ということに、神経質すぎるほど気を使う。
 それが「maide in Japan」という日本製品のブランド名を生んだ。


★ 新日本様式協議会 福川伸次 座長
http://w3.bs-i.co.jp/globalnavi/bigname/061223.html
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「made in Japan」はかつて大変なブランド力があった。

 しかし、それも昔話になりつつあるようだ。
 中国ブランドや韓国ブランドも、単に価格が安いだけでなく、機能やデザインなどでも力を付け始めている。
 中国・北京の家電量販店で携帯電話売り場を覗くと、人気を集めているのはサムスンやノキア。
 日本製品について来店客に聞くと「あまり良く知らない」「価格が高い」「韓国製のものよりデザイン性が乏しい」等々、どうも評価が低い。
 日本国内では、メイド・イン・ジャパンこそ高機能でデザインが良いと多くの人が信じているのだから、かなり温度差があると言わねばならない。

 こうした状況への危機感を背景に立ち上がったプロジェクトがある。
 それが「新日本様式協議会」。
 これは日本ならではの商品を選定し海外に積極的に紹介していくという「メイド・イン・ジャパン再生プロジェクト」で、新日本様式として認定を受けた商品には「Jマーク」が与えられる。

 この協議会を取り仕切っているのが福川伸次座長。
 大平内閣の総理秘書官や通産事務次官を歴任。
 更に神戸製鋼副会長、電通総研研究所所長を経て今は機械産業記念事業財団の会長を務めている。

 2006年、第一回の新日本様式に選ばれた商品は「53点」。
 その中には薄型大画面テレビ「ビエラ」や加熱水蒸気による健康調理器「ヘルシオ」、日本が開発した世界食「カップヌードル」、更には季節毎に色を変え四季の移ろいを楽しむ太宰府天満宮のおみくじが選ばれた。
 選ばれた商品に共通するコンセプトは「日本人の和の心」だ。
 こうした「感性を製品に繋げる工夫が足りない」のではないか、というのが福川座長の考えだ。

 Jマークを勝ち取った商品には、日本が誇る「匠の業」が生きているモノもある。
 例えばキャノンの「イクシー・デジタル80」のデザインは日本刀をイメージしているが、それをそのまま製品に仕上げるには非常に高度な加工技術が必要だ。
 海外ではなかなか作ることが出来ないまさに日本の技術とデザイン力が生んだ商品と言える。


● 新日本様式116選:キャノン・IXY
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 また、インテリア好きから支持を集めるブランド、プラマイゼロ社も注目を集めている。
 今回、同社の「プラスマイナスゼロ」シリーズが新日本様式に選ばれたが、ブラウン管を模したデザインの液晶テレビやドーナツ型の加湿器など個性的なデザインが高く評価された。

 「日本の強さは日本であること」。

 お隣の韓国では韓国カルチャー・アイデンティティに力を入れ、映画などで韓国文化の再認識をしている。
 日本人も本来歌舞伎や着物など伝統的な文化を持ちながら、今の日本人はすっかりその心を忘れてしまっている。
 経済中心できた日本が取り戻すべきは、こうした感性なのではないか。

 イギリスはここ数年、「クールブリタニカ」という標語を掲げ、経済成長の柱としてミュージカルを始めとするコンテンツビジネスに注力。
 ハードからソフトへシフトし、14年連続のプラス成長を達成している。

 こうしたイギリスの国家戦略に日本も見習うべき点があるのではないか。
 そして、そのとき問われるのは「日本ならではの力」。
 福川座長はこれを「ジャパナビリティ(Japan+ability)」と名付けていた。

 最後に福川座長に新日本様式のキーワードを挙げてもらった。

 それが『融知創新』。

 知識を合わせて新しいモノを作っていくという意味で、まさに今回のプロジェクトを表す言葉だ。
 「日本人が本来持っている感性」を生かしたものづくりに「メイド・イン・ジャパン」の活路がありそうだ。


 「made in Japan」とは「いにしえのブランド」だという。
 
 「価格から品質へ」という時代にはブランド力があった。
 しかし、世界のどこで作っても、そこそこ一定の品質が保障される今日では、このブランド力にかげりが見えている、ということのようである。

 なら「made in Japan」を新たなブランド力にするには、どうすべきなのか。

 『
コンセプトは「日本人の和の心」』という。
 「和の心」とは。
 こういう表現は、分かったようでまるで中身が見えてこないもの。
 ちょうど、禅問答。
 具体性にまるで欠ける。
 人を迷わす。
 日本人同士ならいいかもしれないが、世界がからむとき「最悪の言葉」になる。

 異文化相手には絶対に「使ってはいけない言葉」。

 分かりやすいのは、
 『日本が誇る「匠の業」』
 『日本人が本来持っている感性』。
 つまるところ、「こだわり」「凝り性」「のめり込み」。

 前稿で朝鮮日報は
『日本企業が「伝統的に得意」だったのは「高品質戦略」だ。それがまさに「品格」だ』
といっているが、高品質が品格たりうるだろか。
 品質であるかぎり、「世界どこで作っても高品質」になりうるはずである。

 高品質とは品格の基本条件に過ぎない。

 なら「品格」とはなにか。

 イメージでいくなら「天かける竜のひらめき」、とはなにかになる。
 この言葉、
「日本人の和の心」と同じくらい、なにを言っているのかサッパリわからない。
 当たり前のこと、マンガに出てくるもの。
 強いて言えば、「こだわってこだわってこだわって」乾いた雑巾から絞り出してくる一滴の創造力。

 ちょっと、長くなりますが、サイトを援用させていただきます。
 このサイトはひじょうによくまとまっており、かつ分かりやすいです。
 全文コピーさせてもらいます。


★ MACS 毎日新聞社広告局 本格化する日本ブランド戦略
http://macs.mainichi.co.jp/space/no355/03.html

●重要になる国際社会における日本ブランド
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 近年、日本ブランド確立の必要性を問う声が大きくなってきている。

 「日本」というブラン ドは国際社会において産業だけでなく外交や人々の交流など、実に様々な場面に影響を及ぼす。
 そのため日本ブランドを確立し、その価 値を高めることにより人、物、金、情報といった資源を自国に有利に誘引すること、国際社会における日本の需要を高めることは大きな 意味があると言えるだろう。

 なぜ今になりそのようなことが言われるようになったのだろうか。

 一つは「国際関係に寄与 したい」ということが挙げられる。
 日本のアイデンティティー、価値観を国際社会に効率よく伝え、より良い関係を築く手段にしようというのである。

 もう一つは産業における「新たなメイド・イン・ジャパンの付加価値の必要性」である。
 グローバ ル化の波が押し寄せる中、日本は今まで低価格高品質を実現することで国際競争力を発揮してきた。

 しかし、近年中国を始めとする アジア圏の急激なキャッチアップによりその優位性は失われつつあり、日本の産業構造は大きな転換期を迎えているのである。
 日本ブラン ドを確立することにより、新しい付加価値を武器に日本産業の差別化を行い国際競争力の維持、拡大を図ろうというのである。

●各国にて行われる国家ブランディング
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 このような国家ブランド確立の動きは今に 始まったことではない。

 イギリスでは1997年に、ブレア政権下で「クールブリタニカ」というキャッチフレーズの もと文化政策による国家ブランド戦略が行われている。
 当時のイギリスを覆っていた「老大国、老朽化、衰退、失業、退屈」などといったネガティブなイメージを払拭し、イギリス産業、社会の活性化を実現するために、国家ブランド戦略を開始したのである。

 では実際に何をしたのだろうか。

 この国家ブランド戦略ではイギリスの「格好よさ、新しさ、若々しさ」などといった新しい国家イメー ジを伝えるために、それらの文化を生み出している産業として「クリエイティブ産業という概念」を作り、最重要産業として育成した。

 ここで言うクリエーティブ産業とは具体的にはデザイン、音楽、建築、ファッション、映画、演劇、アート、工業ソフトウェア、コンピューターゲーム、 テレビ、ラジオ、広告、出版のことである。
 これらの産業を世界に輸出し、イギリスブランドを強めることを図ったのである。

 そのために政府は官民様々な有識者からなる「クリエーティブ産業タスクフォース」を組織し、国家ブランド戦略を策定し、「クリエーティブ輸出グル ープ」「デザインパートナーズ」「文化遺産、観光グループ」「舞台芸術国際展開グループ」と、各分野ごとに専門グループを立ち上げ、ター ゲット市場を選定し、官民が一丸となって戦略的に海外展開を後押ししたのである。

 その結果、イギリスの芸術文化、ポップカル チャーなどが注目されるようになり、「クール」な国としての世界的評価は高まった。
 それに より企業進出やイギリス製品の世界市場のシェア拡大に成功し、また当時注力された観光施設や文化施設は新たな名所となり観光客誘致に繋がったのである。

 韓国では1998年、金大中大統領が21世紀国家基幹産業として文化産業を育成するとの「文化大統領宣言」を行い、コンテンツ産業発展に向けた法や支援体制の整備が急速に進展している。
 ゲーム、アニメ、音楽、キャラクター、映画の5分野に対し優先して支援した結果、1997年には約50万ドルであった映画輸出量が2004年には約6,000万ドルという爆発的な成長をみせている。
 また今や世界のオンラインゲーム市場の「4割」を韓国が占めるに至っているのである。

 日本において「冬のソナタ」を始め、 矢継ぎ早にドラマや映画、音楽などのコンテンツが供給され、韓国語を習う人や韓国旅行者が急増し文化交流にまで発展した「韓流ブーム」が巻き起こった背景には、国家支援と いう強力な後押しがあったのである。

●注目される「クール」な日本
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 近年日本は若者を中心に世界から「クール=かっこいい」と見られるようになってきている。

 これは官主導の国家戦略によるものではなく、個々の企業や産業のボトムアップによるものである。
 その中核を担っているのがコンテンツ、中でもマンガやアニメ、ゲームなどの「ポップカルチャー」という「大衆文化」である。

 この日本のポップカルチャーが世界で「クール」として広まっているのである。

 今や世界で「マンガ」と言えば日本のマンガを指し、「アニメ」と言えば日本のアニメを指す言葉として世界共通語とまでなっている。
 経済産業省によると世界のテレビアニメの6割が日本製であり、アメリカにおける日本アニメ関連市場は2004年には48.4億ドルに達したという。

 フランスにおいては、フランス人の企画による日本のポップカルチャーを紹介する「ジャパンエキスポ」が、7回目の昨年は過去最高の6万人もの人を3日間で集客した。
 また、マンガのキャラクターのような髪型を実現するヘアスタイリング剤が発売され、ユーザー向けにマンガの聖地東京1週間の旅プレゼントキャ ンペーンまで行っているというから驚きである。
 ポップカルチャーは欧米だけでなくアジア圏においても浸透している。

 現在の「日本のポップカルチャーの浸透」には 目を見張るものがある。

 「ポップカルチャー」は多くのコンテンツを持つ文化であるがゆえに 大きな影響力、伝播力を持っており、また「ライフスタイルなどの文化的要素と結びつきやすい」。

 「クール」という概念は、ポップカルチャ ーを中心に幅広いジャンルに急速に広がっているのである。
 日本の食事やファッション、音楽、ライフスタイルにとどまらず、日本そのものが「クール」であると見なされるまでになってき ているのだ。

 今はまだ特定セグメントにおいてではあるが、ここには日本企業にとって非常 に大きなビジネスチャンスが存在していると言えるだろう。
 台湾やタイなどにおいては、商品名などに日本語を入れていると売上が伸びるという。

 文化を通して日本が「クール」であるという 付加価値がついたことにより、消費者自らが日本の「モノを差別化」してくれるのである。

 実際にポップカルチャーを活用したマーケ ティング戦略も行われだしている。
 昨年11月にオープンした「UNIQLO Soho NY 」である。
 このオープン最大の目玉商品は「Japanese P o p C u l t u r e P r o j e c t 」と銘打たれた、日本を代表する34名のアーティストが参加した「Tシャツプロジェクト」である。

 今の東京をテーマに自由な発想でデザインしたものであり、アニメキャラクターなど様々な「クール」なデザインを展開している。
 また、ロゴも従来の英語表記だけでなく、カタカナ表記も採用し、日本のブランドを強くイメージさせるものになっている。
 会長の柳井正氏は「NY店では服を売りたいのではなく、文化を売りたい」と述べていると言う。

 従来の低価格高品質だけではなく「日本文化による差別化」を行おうというのである。

 これらのポップカルチャーの世界的な広がりを受け、2004年に政府が発表した「コンテンツ・ビジネス振興政策」においては、コンテンツビジネス振興を国家戦略の柱とすると述べられている。
 また昨年の経済産業省の「グローバル経済戦略」においても日本ブランドを発信していくためにコンテンツ産業の国際展開の必要性を説いている。
 ポップカルチャーを中心に世界に 広まりつつある「クール」という日本の新しい文化の魅力を国家ブランディングの柱にしようとする、国家としての動きも本格化してきていると言えるだろう。

●「新日本様式」という新たな試み
────────────────
 昨年には「クール」とは「異なる日本ブランド」 確立への動きも、経済産業省の呼びかけにより始まっている。
 それが「新日本様式」協議会である。

 協議会自体は「3年」の期限付きのものであるが、オブザーバーとして経済産業省に加え、外務省、国土交通省、文化庁が参加するということからも力の入ったものであることがわかるだろう。

 この「新日本様式」協議会は新たな日本ブランドを確立するために、日本の伝統文化をもとに、今日的なデザインや機能を取り入れて、現代の生活にふさわしいように再提言しようというものだという。

 つまり、日本の持つ先端技術と伝統文化が持つ日本らしさを融合させ、「新たな日本の価値観を世界に発信」しようというのだ。

 そのために協議会は、イメー ジに合う製品やコンテンツ「100選」の選定、大学や大学院での「新日本様式」の講座開講、海外へのPRなど28の多様な行動プログラムを組んでいる。
 現在選定されている100選の例を挙げればプリウスや、アクオス、刺しても痛くない注射器、ロールスクリーンの竹スダレなど実に多岐に渡る。

 これらは一貫した技術やデザインはないが、一貫した日本らしさ
 「たくみのこころ」
 「もてなしのこころ」
 「ふるまいのこころ」
というアイデンティティーを持っているのだという。

 これらの日本の伝統文化が持つアイデンティティーをもとに日本自体をブランディングしようというのである。
 伝統文化を柱にした国家ブランド戦略も、新しい「クール」な文化を柱とした国家ブランド戦略も、方向性こそ違うが「日本文化」を新たな付加価値にしようとする点では同じである。

 これらの「日本文化」によるブランド戦略は始まったばかりであるが、成功すれば、「日本らしさ」をマーケティングに積極的に取り入れることが、日本企業が世界市場で成功 するための必須条件になるかも知れない。


 つまりこういうことだ、『品格とは日本文化による差別化』のことである。

 「グローバルから差別化へ」、これがキーワード。

 クール・ジャパンはグローバル化だと思うが、その反対の差別化が「新日本様式」ということになる。
 そして重要なことは、「差別化できる切り口」を日本文化がもっている、ということであろう。

 問題は日本文化で差別化したものが、ブランド名までに高められるほどの魅力あるパワーを内在しているか、いうことであろう。


 日本は「成長した社会」である。
 分かりやすくは「経済成長した社会」と言っていいだろう。
 成長のつぎにくるものは成熟である。
 「成熟し安定した文化」の発信を求められている社会である。
 
 それが、「成長に飽きてきた世界」に受け入れられた。
 尽きせぬ成長を疑問視する世界に、
 成長の自転車操業に疲れた世界に、
 そして「ちょっと止まって、身の回りを少し豊かにしてみよう」という世界
受け入れられた。
 成長の後に潜むものはなにかを模索するこれから「成長しようという世界」にも受け入れられた。

 それがクール・ジャパンである。

 高いレベルで「経済成長をやめた文化」が、クール・ジャパンである。

 時代を先取りする「若者文化」として発信された。
 他人の文化を買えない貧しさが、この大衆文化を生み出したという。
 その「貧しさをいかにクールに」(魅力的にカッコよく、そして冷ややかに)見せるか、それがクール・ジャパンであるという。

 次に、老人が発信しようとしている。
 「ジャパネスク」
 どう考えても大衆的に受け入れられそうにないネーミングである。
 でも老人に好まれそうな響きをもっている。
 ちょっと高尚におつに澄ました知的な老人の自己満足に迎合したネーミングといっていい。
 クールとは反対に、「豊かさを目一杯」詰め込もうとしている。
 華やかさが感じられる。
 それを名づけて、「品格」という。

 「和のこころ」

 ここまで、あからさまに「自己陶酔した表現」もめずらしい。
 分かっているのは発信しているものだけ。
 受信しているものは、なんのことやらわからない。
 もしかしたら、発信者自身も分からないのかもしれないが。

 でもその発信の根底にあるものはクールもジャパネスクも変わらない。
 言い換えると、日本人のこだわり、凝り性、のめりこみ。
 どのように貧しさにこだわり、どのように華やかさにこだわるのか。

 それが、『竜のひらめき』ということになるのであろう。



● 新日本様式116選:N700系新幹線
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 朝鮮日報は記事をこのように締めています。

★ 刀を置き、花を手にしたサムライたち 「21世紀ネオ・ジャパネスク」大解剖)
http://www.chosunonline.com/article/20080525000026

◆あんパンから「アンパンマン」を生み出す国

 京都は、街全体が豊かな歴史コンテンツにあふれる「大河小説」のようなところだ。
 文化財一つ、建築物一つにも味のあるストーリーが添えられ、その魅力を最大限生かしている。

 京都での取材の合間に、「哲学の道」という観光コースに立ち寄った。
 ただ、その名前に魅かれて行ってみたのだが、素朴で風情のある小さな散歩コースだった。
 著名な哲学者の散歩道だったということで、そうした名前がついたそうだ。
 だが、「哲学の道」でなかったら、スケジュールに追われている旅行者たちがわざわざ時間を割いて立ち寄るだろうか。
 
 日本人はストーリーを発掘し、魅力的に見せる天才だ。

 日本の大衆文化はなぜ強いのだろうか。
 取材の間ずっと抱いていた根本的な疑問は、京都精華大学の牧野圭一マンガ学部長に会ったとき、解けた。
 牧野学部長の説明は簡単で明確だった。

 日本は「唯一神社会でない」ため、自由な発想が可能で、
 マンガ・キャラクター・ゲームといった大衆文化が豊かになったというのだ。


 日本はあらゆる事物に神がいるという“やおよろずの神”の国です。
 石にも、木にも、川にも、水にも神がいると信じています。
 森羅万象に人格と生命を吹き込み、自由自在に擬人化します。
 だから、あらゆるキャラクターが生まれます。
 それにより「大衆文化のストーリー」が豊かになるのです



 「唯一神社会」とは、「神が創りし世界」。
 よって、常に「神の御心」という枠組みをもっている。
 そこから抜け出ることは、被造物である人間には絶対にできない、というテーゼが厳として控えている。
 人は無意識の中で、いつも神の顔色をうかがいながら行動することに慣らされた世界に住んでいる。
 言い換えれば、「神の籠の鳥」
 自ら井に入ったカワズ。

 『天とは、身近にありながらも知りえない世界、を仮想する概念

 モノの数だけ世界があるのが、ニッポン。
 アンパンにはアンパンマンの世界が、そしてなんと「バイキンマン」の世界もある。
 「バイキンマンの世界?」
 唯一神社会ならあってはならない世界、滅ぼさないといけない世界、共存してはならない世界。
 それが大手を振ってまかり通る社会。 
 ちなみに作者はクリスチャンだという。

 その「無限数社会」の総称を「天」という。
 「神の意思」は善悪にもとづいている。
 天は意思を持たない。
 よって善悪はない。
 善にするか、悪にするかは「人の意思」による。

 神が「創ったモノや社会」ではなく、人が「創っていくモノや社会」。
 すでに創られているモノを伝統とするなら、それを創り超えていくモノ。
 そこを「翔る、竜のひらめき」とは、その乗り越えていく切り口になる。

 言わんとしていることは、そういうことのようだが(竜のひらめきは勝手につけただけ)。 
 確かに、「大衆文化のストーリー」が豊かになるはずではあるのだが。
 


<つづく>




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