2008年9月27日土曜日

文化発信大国日本3:刀を置いたサムライ


●刀を置き、花を手にしたサムライたち:[朝鮮日報]より 
 <クリックすると大きくなります>


 文化発信大国日本3:刀を置いたサムライ
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 街を行くと、さまざまなTシャツに出会う。
 「KOCHI」「KAGOSHIMA」「AKITA」などなど。
 「大阪大学」というのもあった。
 ウー、と声の出ないのもある。
 いわく、

 「御中元」

 そう書かれたTシャツ姿の人に出会ったら、どうします。
 若い美人のお姉さんならもらってもいいが、男ならいらない。

 漢字のイレズミも多い。
 腕か肩。
 だいたい四文字。
 漢字が4文字並ぶとこれは漢詩になる。
 中国は簡字体だから、台湾か日本か。
 漢字の並び方からいくと、日本風ではない。
 ただ、人気のある漢字をならべただけ、ということも考えられる。

 絵柄のTシャツも多い。
 ショッピングセンターで目の離せないTシャツに遭遇した。
 マッチョなオジサンが着ていた。
 袴をつけ、黒タビにぞうり、逆刃刀を下段に構えていた。

 「るろうに剣心」

 次の一撃は「天かける竜の閃き」であろうか(「飛天御剣流」はWikipediaに載っていた、驚き、遊び心か)。
 抜刀術では刀は鞘の中なのだが、それでは絵にならない。
 色彩は実にカラフルである。

 いったい、こういうTシャツ、どこから手に入れるのだろう。
 でもまるで、このオジサンには似合わない。
 腹が出すぎである。

 「地を這うデブの苦悶」である。


● るろうに剣心

 前回の世界剣道選手権の団体優勝は韓国でした。
 まあ、しかたないかな、隣国だもの。
 もちろん準優勝は日本、,,,,,のはずだが。
 ところが違った。
 台湾、,,,,,,,
 でもなかった。
 なら、ドコ。
 それ以外に、「ドコの誰が剣道をやる」

 「アメリカ」

 エエー。
 日本は悲しいかな3位。
 3位はいい、でも剣道でアメリカに負ける、そんなことがあっていいだろうか。
 強いヤツは強い。
 これもいい。
 でも、なぜアメリカが剣道に進出してくるのだ。

 オーストラリアなら許せる。
 なぜ。
 「薙刀:ナギナタ」の世界で始めての「男子有段者」の栄誉を取得したのは、オーストラリアンなのです。

 二十年ほど昔のこと。
 ナギナタを習おうと案内書をとりよせた。
 目に入ってきた文字、「男子禁制」
 しばらくして、新聞にナギナタで男子がはじめて段位を取得したとあった。
 写真も載っていた、オーストラリアン。
 なぜ。
 日本の文化を研究する方に便宜を図ったとある。
 国際文化交流のためといわれれば文句は言えない。

 いくつかの大学の体育会系が海外交流でこちらにきてデモンストレーションをやったことがある。
 もちろん、観にいった。
 お目当てはナギナタと和弓。
 残念なことに和弓はパンフレットには演目としてあったが、街中でやるには危険過ぎると中止になった。
 ナギナタは女子大生。
 はかま姿でしつらえられた簡易舞台上で試合をした。
 五尺ほどのカシのナギナタがぶつかりあう。
 「カチーン、カチーン」、カッコよかった。
 その響きがなんとも胸を打つ。
 やりたかったな、「薙刀」

 かわりに習ったのが和弓。
 「腕を的に向かって伸ばし切れ」
 「肩を落とせ」
 「腕で引くな、肘で引け」
 たった3つの事。

 それをマスターするのに3年かかった。
 でも実際にマスターしたのは上の2つだけ。
 ついに「肘で引く」感触がつかめなかった。
 個人差体質差だろう、できないものはできない。
 悩みぬいた末に、中指をフックにして引くことにした。


■■ 余談 ■■
 これだけでは分からないでしょうから簡単に説明しておきます。
 弓は左手で持ち、これを的に向かって押すのですが、腕が伸び切るように押します。
 例えば、隙間から腕を入れてもう少し伸ばせば落としたモノを拾える、といった経験はしばしばあるでしょう。
 このとき腕首と肘と肩の関節を目一杯伸ばし、「さらに伸ばすと」、掴むことができます。
 伸ばしたものを「さらに伸ばす」というのが左腕の基本になります。
 この感じで左腕の関節を「伸ばして、伸ばして、伸ばし切る」、言い換えると弓を「押して、押して、押し切る」のです。

 弦は親指に引っ掛けて引きます。
 そして、腕では引かずに、肘で引く、これが右腕動作の基本になります。
 腕で引くと肩に力が入る。
 すると肩があがり、矢が安定しなくなるのです。
 この肘で引く感覚がどうにもつかめなかったわけです。 
 肘の後ろにそっと紙を微妙に触れるようにぶら下げてもらうと、その紙を押すように引けるのですが、その感触が消えると、途端に肘で引くことができなくなり、腕本体で引いてしまう。
 いくらやってもダメ。

 このとき中指は弦のかかった親指を包むように添えられています。
 力はかかっていません、ただ添えるだけ。
 弦の力は親指が受けています。
 そこで、まずこの親指をフリーにしました。
 とすれば、弦は親指を押しのけていきます。
 次に中指を弦がかかっている親指の押さえにしたのです。
 そしてこの中指を引くように引いたのです。
 肘で引かずに、手の先端に当たる中指を引いたのです。
 右手の中では、親指は力が抜けてブラブラ、中指が弦に負けないように親指を押さえ込んで踏ん張っている、そんな感じになります。
 これで、何とか形をつけたわけです。

 腕ではなく、指で引いているため、肘で引いているように見える。
 ちなみに、親指で引くと腕で引いたと同じになってしまう。
■■■

 
 私の弓は「右中指で引く」弓なのです。
 邪道です。
 でも、外からは分からない。
 「参段」


● 名前は消してあります

 ここまでは練習でとれる。
 このあとは、「ノメリコミ」がないとまず難しい。


 日本は「青い目のケンゴー」に席巻されている、のか。
 黒袴、黒タビ、草鞋を履き、逆刃刀をさした青い目のケンゴーが日本中を行脚するという。
 「日本の剣豪」はドコへいった。
 座頭市は「金髪」になってしまった。
 サムライはどうした。

 朝鮮日報によれば、「サムライは刀を置いた」という。
 ナヌ!
 「花を手に」しているという。

 「藤娘イメージ」でいこうとしているのか。
 なんとまあ、ナヨナヨしい。
 そこまでナンジャクになったか。

 「だから、日本は嫌われる」
 "?"


 
もう一本、朝鮮日報から抜粋。
 これも著名な記事。


★ 刀を置き、花を手にしたサムライたち 朝鮮日報 2008/05/25
http://www.chosunonline.com/article/20080525000021
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 日本の将来を心配する人がいるが、その必要はなさそうだ。

 「品質ではこれ以上、競争が成り立たない時代」に、日本は「品格」を売り始めた。
 高級イメージ、日本ならではの物を売り、「新しい日本」に向かって疾走している。

 日本経済のパワーは、「全盛期を過ぎた」と言ってもいいだろう。
 高齢化時代に入った日本経済は、「ますます老いていく」可能性が高い。


 韓国新聞の面白さは上の最後の2行に出ている。
 なんとか日本をおとし込めないと、心理的に落ち着かないという感情の枠組みがある。
 このまま日本が豊かで、健やかであることには、生理的にどうにも耐えられないというわけである。
 貶めることによって、やっと安心して、そこからヨイコラショと論理を展開していく。
 この思考のあり方が、読むものにとってはなんともいえずに、愉快なのだ。
 納まりがいいのだ。
 「おお、またやっている」
 初歩の心理学のテキストみたいなものだ。
 そんな気分にさせてくれる。

「 日本は全盛期を過ぎた。
  これからますます、しょぼくれていく日本。
  かわいそうな、ニッポン
  涙なしには未来を語れないニッポン。
  クール・ジャパンとは老人の最後のあがきだ。
  魅力ある日本とは「老成した魅力」なのだ。
  シワシワ文化の魅力なのだ。 」
と。

 
 続けましょう。


◆「クール・ジャパン」
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 しかし、「文化的なパワー」は違う。

 日本は経済力の代わりに「大衆文化のパワー」で世界を魅了している。
 「清潔で、安全で、環境に優しい」というイメージにより、ほかのどの国よりも「強力な国家ブランド」を確立した。
 世界はそんな日本を「エコノミック・アニマル」ではなく「クール・ジャパン(魅力的な日本)」と呼び始めた。
 また、「クール・ジャパン」は日本における「21世紀の国家戦略」でもある。

 「食」は文化の先兵だ。

 キッコーマンの2006年統計によると、世界に日本食レストランは2万4000店あり、毎年急増しているという。
 ブラジル・サンパウロにはシュラスコ(ブラジルのバーベキュー)の店よりも「すしレストラン」のほうが多いというデータもある。
 クモの巣のように張り巡らされた飲食店ネットワークを通じ、日本は文化やライフスタイル、そして国のイメージを売っている。

 昨年、日本産コシヒカリが中国に輸出されて話題を呼んだ。
 値段は中国産米の20倍以上とかなり高価だが、中国の富裕層に人気だ。
 農業にも日本の文化的な価値を与え、輸出戦略産業として育て上げたいと考えているのだ。

 日本のコメ輸出は日本貿易振興機構(ジェトロ)が後押ししている。
 東京・赤坂のジェトロ本部で会ったナガタ・ミキオ輸出促進・農水産部長は、「農業は一種の文化産業」と話す。
 「英語の“農業(agriculture)”には“文化(culture)という言葉が入っているではありませんか。
 食物・食品というものは、その国の歴史や生活様式により確立された文化です。
 わたしたちは食文化を通じ、「日本そのもの」を海外に伝える活動をしているのです」

 ジェトロは貿易摩擦の影響で19年間、輸出促進業務を中断していたが、2003年に再開し、力を入れるようになった。
 興味深いのは、重点輸出産業に掲げた
 (1)コンテンツ
 (2)ファッション・衣類
 (3)デザイン
 (4)農水産・食品
 (5)機械・部品
の5分野のうち、4分野が文化に関係している点だ。

 「わたしたちは今後、"文化的な背景を持つ製品"を輸出しようと考えています。
 かつて日本が得意だった工業製品は、技術力さえあれば生産地がどこであろうと関係ありません。
 でも、文化的背景を持つ製品は、日本で作られたという事実、つまり“メード・イン・ジャパン”であるという事実が重要になってきます」

 日本は、国境がなくなる「脱国家」の時代に逆行し、「日本という国家的要素」を前面に押し出している。
 「日本的なもの」でグローバルな経済戦争を乗り切ろうとしているのだ。


 日本は、国境がなくなる「脱国家」の時代に、「メイド・イン・ジャパン」を前面に押し出し、その終焉を飾ろうとしているのか!
と読み違えてしまったがそうではないらしい。

 「日本的なもの」でグローバルな経済戦争を乗り切ろうとしているのだ、と記者は言う。
 なにか、ヘンに持ち上げられて、背筋がウズウズしてきます。

 『「食」は文化の先兵だ。』と言う。
 そう言われればと思う。
 マックとコカコーラは世界を席巻した。
 アメリカ文化の尖兵であった。

 「ヤング・アメリカン」の象徴でもあった。

 米ソの冷戦がアメリカの勝利に終わり、ソビエトが崩壊して、モスクワにマクドナルドが出店したとき、長い行列ができたという。
 今はどうなっているのだろう。

 しかし、そのヤング・アメリカンが没落しはじめた。
 ソビエトの消滅により、アメリカ一国が超大国になった。
 若さの余勢を駆って、自ら創作した経済ルールを押し付けてきた。
 いわく「金融工学」。
 どこの世界に、金融が「工学」たりうるか。
 FRB(
連邦準備銀行が金利を上下させるだけで、自由に景気をコントロールできるという、妄想に陥った。

 近代経済学の究極理論が金融工学である。
 
 そして、そのウソがウソと分かったとき、当たり前に近代経済学がボロボロになる。
 本体の経済もボロボロ。
 実体理論であるはずの金融工学を信じてマネーゲームに走ったツケがきた。
 「
金融エンジニアリング」という、らしい名前の幻しにお金を掛けた連中がパンクする。
 昔、アワに浮かれていたのと同じ。
 日本がすでに、経験済みのことをアメリカが繰り返した。

 どこにでも「バカの壁」はある。


 金融工学についてWikipediaでみてみます。


 金融工学(きんゆうこうがく、Financial engineering、Computational finance)は、資産運用や取引、リスクヘッジ、リスクマネジメント、投資に関する意思決定などに関わる工学的研究全般を指す。

 金融工学は新しい学問領域であるといわれる。
 これは金融工学が1950年代以降、経済学・会計学・工学・数学など様々な学問領域と接点を持ちながら形成されてきたためである。
 金融工学の中でも画期的な研究としては、1950年代にハリー・マーコウィッツが示した現代ポートフォリオ理論や、1970年代にフィッシャー・ブラックやマイロン・ショールズらによるデリバティブの価格理論、Harrison,Kreps,Pliskaらによる確率同値における無裁定性と均衡などが有名である。

 金融工学におけるプライシング理論は、一物一価の考え方に基づくところである。
 経済学での議論における需要と供給の関係においてアロー・ドブリュー証券の仮定を置くことにより、同時点での将来価値が同値な財は同じ現在価値を持つ、という前提を組み立てる。たとえば、株のコールオプションと債券と株式を保有している投資家は、ポートフォリオの組み合わせによって、瞬間的に超過収益を得ることができない。
 この関係から、3者の価格においては均衡式を得ることができるのである。
 金融工学の理論は、金融実務と密接に結びついており、金融工学理論から得られた算式はプライシング・リスク管理・会計の実務でも広く用いられており、金融工学の発展の背後には、金融実務への適用がある。

 金融経済学(financial economics)や数理ファイナンスを理論的バックグラウンドとして持ち、金融機関が事業活動を通じて取り扱う様々なリスクを計測し、適切に管理することを目的として発展した。

 主な分野として、
  * 投資銀行における企業価値の測定
  * デリバティブ(先物、先渡、オプション)取引
 * 機関投資家の最適投資戦略
 * 不動産担保証券などのプライシング
 * リアルオプション(Real options analysis)によるプロジェクト価値の測定
 * 金融機関のリスクマネジメント
が挙げられる。


 なんてことはない、冷静に読めばすぐに分かること。
 つまり、コンピュータを使い、「リスク」なるものを数式化して組み入れた大容量マネーゲームのやり方。
 そして、いとも簡単にそのリスクに負けてしまった、たわいないシロモノ。

 学問というより『金融バクチの掛け方指南書』


 サイトから抜粋します。

★ 「金融工学」とは何か? ファイナンスと金融工学の間
 (c)祝迫得夫 1999年
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~iwaisako/essays/WhatFE.htm                                          
 英語における“Financial Engineering”は、かなり限定された意味合いを持っている。
 ローが“Financial Engineering”という用語を、あくまで実務家の側(Practitioners)の立場から見て必要な知識、特に数量的なスキルに限定して使っていることからもわかるように、アメリカにおいても“Financial Engineering”という学問分野が成立しているわけではない。
 現時点での“Financial Engineering”は、要約すれば「数量的な側面を重視した目的志向型のファイナンスという学問の実践」というふうに位置付けるのが最も適当であると思われる。
 実際、ロー在籍するMIT含め、幾つかのアメリカの大学が“Financial Engineering”の看板を掲げた修士プログラムを積極的に展開しているものの、Ph.D.プログラムに関しては、どこもさほど積極的ではない。
 また同じ内容に対しても、Financial Engineeringよりは、Mathematical FinanceやComputational Financeといった用語をあてている場合が多い。

 では日本語の「金融工学」はどうだろうか? 
 まず第1に指摘しておかなければならないのは、日本(特に日本の大学)では、しばらく前まで「ファイナンス」という用語が定着しておらず、「金融論」の一部分と見なされていたという点である。
 実際、今でも「ファイナンス」という題名の授業は無い大学の方が多く、「金融論」・「財務管理」等の授業名のもとで、運用上「ファイナンス」の授業をしている場合が多い。
 したがって、古色蒼然たる伝統的「金融論」とは一線を画す学問分野として、現代的な「ファイナンス」に「金融工学」という日本語の造語をあてるというのは、実は良いアイデアであったかもしれない。
 しかし、残念ながら既に「金融工学」の直訳にあたる“Financial Engineering”という英語が存在しており、これは先ほど述べたように「数量的な側面を重視したファイナンスという学問の実践」という色彩を、強く持っている。
 例えば、ノーベル賞学者のマートンやマーコビッツに「あなたは“Financial Engineering”の父だ」と言えば、自分達の業績が現実経済に大きな影響を与えたという意味で、彼らは素直に喜ぶだろう。
 しかし「あなたは素晴らしい“Financial Engineering”の専門家(学者)だ」と言ったとすれば、彼らは「私は、そんな矮小なことだけをやってきたわけではない」と反論するであろう。



 バブルのパンクは勝手にやったことと見放されて、援助もなく日本はそれを一人で処理した。
 経済の火事場泥棒が横行した。
 でも日本はそれをやり遂げた。
 金融工学というイカサマの究極近代経済学に代って、『脱近代経済学 [クール経済学]』をものにした。

 「日本はえらい」

 アメリカには今、世界から援助の手が差し伸べられている。
 若さとはありがたいもの。
 そこが日本と違うところ。
 でも、あのヤング・アメリカを象徴する3大自動車メーカーが倒産の崖っぷちにまで追いやられている。
 唯一の強者になったが、若さにおける勇み足。

 ツケは大きい。
 世界大恐慌の前触れ?。
 バブルがパンクしたレベルで襲ってきてくれれば、またガマンの10年間がはじまる。
 経験済みのことに対しては、とりたてて危機感はない。
 その必要もない。
 「また来たよ」、 といったところ。

 あの頃の危機感は異常だった。
 なにしろ行き先が見えなかった。
 日本の明日、がなかった。
 日本が本当に潰れるのではないかと思っていた。
 なら今回は。
 経済危機が来ようと、老齢化が深刻になろうと、一時のこととわかっている。
 「抜けるまで待てばいい」
 ただ、それだけのこと。
 ありがたいことに日本は「ガマン」を学んだ。
 日本は耐えることを学んだ。
 ガマンから耐えることから、別の新たなものを学んでいくのがニッポン。

 そう、成長をやめて、じっとガマンすればいいこと。
 たった10年にすぎない。
 時代と歴史はなにも「成長理論のみ」で動いているわけではない。
 成長などは一時のこと。
 成長にしがみつけば、歴史がいやがり、シッペ返しをくらう。
 そのことがわかれば、冷泉に入ってジットしているつもりでいればいい。
 「クールなジャパン」でいけばいい。
 それを通り過ぎれば世界はそこそこマトモになるのが分かっている。

 「クール経済学」は修羅場をくぐり抜けてきた理論。
 日本経済の総称。
 ちっとやそっとでは、破綻しない。
 世界「インフレ成長経済」潮流の中で、俄然として「デフレ安定経済」潮流をつくりあげ、頑固としてそれを守ってきた。

 Le Mondeはいう。

 創造性に富んだ新製品がどんどん開発され、「前代未聞の状況」だと言うことがわかる。
 このコントラストは新しく日本に到着した外国人を驚かせる。
 「経済危機だって?」 
 大都会の街を歩けば店は「消費物資であふれている」。

 特にあらゆる分野に於いて大衆文化の新しい波が怒濤のようにありとあらゆる細々した「日常製品に組み込まれている」のだ。
 東京や大阪ではこれは驚くばかりで、思いもしないようなへんな商品があふれている。

 「ニッポン大衆文化」は誰もが否応なく接するようなもので、「アクセスのしやすさ」は驚異的。
 あらゆるところに「過剰なほどに存在する」。


 クール経済学はビッグスリーを滅亡の危機にまで追い込んだ。
 デフレ経済学がインフレ経済学に勝利した瞬間ともいえる。
 「不況」、みたいだね。
 ちょっとデフレを削れば済むこと。
 安定から、ちょっとガマンへ。
 ささいなことである。

 そしてそのとき、日本はまた強くなっている。
 不況が長引けば長引くほど、日本は強くなる。
 世界は好景気で強くなる、日本は不況でビンボーになり、そして強くなる。
 ビンボーになればクールになる。

 「ビンボーからクールへ」
 
 「成長理論」はヤング・アメリカの理論。
 アメリカには熟成パワー理論、安定経済学理論はない。
 なぜなら、アメリカはあまりに若く、熟成を経験したことがないから。

 だが、ヤングパワーは必ず巻き返してくる。
 なぜなら、ヤングパワーは世界的だが、熟成文化すなわち「クール・パワー」はその名の通り「冷たく、ローカル」に見える。


 話がそれてしまった、戻します。

 世界に日本食レストランは2万4000店あり、毎年急増している、と言われてもどうもピンとこない。
 「マックからスシへ」
 「ハイカラから品性へ」  
 文化はそう動いているこのようではあるが。


 朝鮮日報を続けましょう。


◆「品質」から「品格」へ
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 2005年7月、経済産業省は「新日本様式の確立に向けて」という、少し難解なタイトルの報告書をまとめた。報告書は次の宣言文で始まる。

「付加価値の評価は“価格から質への時代”を経て、“質から品位への時代”へと移り変わっている。
 (中略)
 経済のみならず、日本の文化、日本人の感性、日本の心など日本固有の資産を要素とした、総合的な日本の素晴らしさ=“日本ブランドの有する価値”を向上させ、世界に発信していくことが肝要である」

 報告書が注目を浴びているのは、「品位・品格」という文化的パラダイムを主張している点だ。

 報告書は
 「グローバルな経済戦争の中核をなす競争力は “品格”に変わった」
と宣言、「製品の格」で競い合おうという「新しい産業戦略」を示した。
 日本経済が価格・品質の競争を経て「文化的価値を競う段階」に突入したことを知らしめる始発点といえる。
 日本企業が「伝統的に得意」だったのは「高品質戦略」だ。
 それがまさに「品格」だ。

 「品格」とは、従来の「経済学のカテゴリーには存在しない」コンセプトだ。

 品格を論理で解き明かし、数値で表現し、製品の製造につなげることは不可能だと思われてきた。
 このように文化のカテゴリーとしか見なされていなかった「品格」を、産業の現場に引き込もうと、経済産業省は口火を切ったのだ。
 「新日本様式」は英語で「ネオ・ジャパネスク」あるいは「ジャパネスク・モダン」と表現する。

 パナソニックの新日本様式研究のブレーンである植松豊行・首席審議役(デザイン担当)がインタビューに応じてくれた。

―新日本様式とは?

 日本の伝統的な美意識を先端技術で具現しようというものです。
 例えば、ヤマハのデジタル・バイオリンはデジタル技術の具現化ですが、ハンドメイドのアナログ的な印象を与えます。
 TOTOの便器は日本独特の清潔に対する意識を取り入れているし、トヨタのクラウンは日本刀のラインを生かしています。
 ハイテク製品は、技術さえあれば、日本で作っても中国で作ってもまったく同じ。
 原価が安い場所で生産すればいいのであって、日本国内に工場を作らなければならない理由はありません。

 日本でなければ不可能なもの、日本国内でしかできないものを作らなければなりません。
 それこそがまさに新日本様式の戦略です。 」



● 新日本様式116選:ヤマハ・サイレントバイオリン


 「新日本様式」とはなんでしょう。
 
Wikipediaを見てみます。


★ 新日本様式 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 新日本様式(しんにほんようしき、英: Japanesque Modern)は、新日本様式協議会が提唱する日本の伝統と先端技術を融合させた「日本らしさ」を持つ新しい日本の様式のことである。

 同協会では「新日本様式」の基本理念にかなった商品を「新日本様式」100選として選定しており、選定された商品は「Jマーク」をつけて販売を行うことができる。
 初年度の2006年度には、254件の候補の中から53点が選定され、10月30日に発表された。
 来年度以降も点数にこだわらずに「新日本様式」の理念に沿った商品を選定していくことが予定されている。

 2006年度の53点に加えて2007年度は63点が選定されており、合計116点となっている。



 サイトから抜粋で。


★ 【トレンド】経産省が提唱する「新日本様式」 山下雄璽郎(経済ジャーナリスト)
http://www.e-mobi21.jp/entrefilet/7050201.html
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○6つのキャンペーンと28におよぶ行動プログラム
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 日本の誇る伝統文化と最先端技術を結んだ創造的価値を国際商品として具現化できないかとの試みは、経済産業省商務情報政策局長の私的懇談会として 2005年5月10日、「新日本様式(ネオ・ジャパネスク)・ブランド推進懇談会」が設置されたのが発端だ。

 日本の伝統文化をもとに、今日的なデザインや機能を取り入れて、現代の生活にふさわしいように再提言し、より新しい日本ブランドを形成していくための官民の在り方を探ることを目的とした。

 05年7月当時の同懇談会委員には
 日本伝統産業近代化促進協議会会長の表博耀氏、
 着装道古典宮島流宗家の宮島健吉氏、
 松下電器産業副社長の戸田一雄氏、
 松竹常務の松田安川好一氏、
 トヨタ自動車常務役員の中井昌幸氏、
 ホリプロ会長の小田信吾氏、
 慶応大学環境情報学部教授の稲蔭正彦氏
など19人が名を連ねている。
 3回にわたる議論を経て同年7月、『新日本様式(ジャパネスク・モダン)の確立に向けて~世界に日本の伝統文化を再提言する~』と題する報告書をまとめた。

 報告書では産業界、文化、メディアを含めた幅広い世界から新日本様式についての理解を得るとともに、同様式の確立に向けた官民の努力を3ヵ年行動計画として、6つのキャンペーンと28におよぶ行動プログラムを提言した。

 6つのキャンペーンは
  1...ネットワークづくり
  2...具体的な商品・コンテンツづくり
  3...ブランド管理のための評価システムづくり
  4...日本を感じる(フィール・ジャパン)キャンペーン
  5...ブランド・リーダー育成
  6...海外プロモーション
で構成した。

○伝統文化と先端技術を融合
─────────────
 報告書の提言を受ける形で2006年1月、実際の推進組織となる「新日本様式」協議会を設立。
 活動の主体を行政サイドによるコンセプトづくりから民間ベースに落とし込んだ。
 理事長に松下電器産業の中村邦夫会長が就任し、理事会社として刈谷木材工業、富士通、日本陶器、電通、博報堂、TBS、トヨタ、松竹、松下電器、三越の10社を選出。
 民間企業52 社、学校を含む22団体による29名の会員数で立ち上げ、経産省を中心に外務省、国土交通省、文化庁をオブザーバーに配する推進体制を整えた。

 懇談会の段階から経済人と文化人が入り混じった格好で、これまでわが国ではとかく発想や指向形態において齟齬をきたしがちな文化人と経済人を新日本様式という観点でまとめ束ねていくについては、関係者相互でもかなりの苦労もあったようだ。
 そのうえで「日本の伝統文化と先端技術を融合した商品づくりを支援し、わが国製品の国際競争力を高める」との協議会の目的を固めている。

 他方では「現在の欧米における和食、アニメ、ゲーム・ブームといったクール・ジャパン(日本がカッコいい)の動きとは
一線を画する」(樫葉浩嗣・新日本様式協議会事務局長)としている。

 あくまでも現代の先端技術にもつながるわが国の伝統文化を現代生活の中で再評価して新しい日本スタイル=「新日本様式」の確立を目指すものだと強調している。

 こうした強いタッチの活動姿勢は、将来におけるわが国製品の国際競争力への官民共通する懸念がその背景にある。
 1990年代後半以降、中国、韓国をはじめとするアジア諸国が安い労働力を武器に価格競争力を高め、加えて急速に技術力も高めて機能や品質にも優れた製品を作り出す競争力を有するようになってきている。
 このため日本製品はもはや、これまでの機能や品質の優位性だけでは差別化することが困難になってきているとの共通認識である。
(Mobi21 42号掲載記事より抜粋)


 これによると、

 
「現在の欧米における和食、アニメ、ゲーム・ブームといったクール・ジャパン(日本がカッコいい)の動きとは一線を画する」としている。


 ということは、
 「なんだか日本文化が海外で受けているようだから、政府も腰を上げないといけないな、でも政府が主導したものでないものは、応援したくないな」、
ということのようです。
 政府のやることなんでそんなところで、文句を言ってもはじまるものでもありません。

 もう一つ、サイトから抜粋で。


★ 「新日本様式」ってなんだ?
2006.11.03
http://musosha.air-nifty.com/mplatz/2006/11/post_525c.html
─────────────────────────────────────────────
 10月30日に、新日本様式協議会というところから、新日本様式100選(今年の選定分は53品)というのが発表された。

 新日本様式協議会のウェブページによると、新日本様式とは、

 現代の先端技術にもつながる我が国の伝統文化を現代生活の中で再評価し、今日的なフィルターを通した上で再提言を通じて確立されるものであり、
 素材を自然の命として尊び、引き継がれた知恵や技を大切にしつつ、常に新しい技術や文化を作り出す「たくみのこころ」、
 全体への責任意識をもちながら、個性を磨き、気品と気概のある生き方を求める「ふるまいのこころ」、
 そして異質な考えや新しいものを尊重しながら、自己を確立し、多様性と調和を重んじる「もてなしのこころ」
の3つの「こころ」のことだそうで、

 その選定基準は、

(1) 日本の伝統文化、素材、技術や精神と、日本を含む世界的な先端技術との融合が図られているもの(ハード、ソフト)であること、
 また、日本の伝統文化、素材、技術や精神を、現代のライフスタイルにふさわしいかたちで提案しているもの。

(2) <伝統文化×先端技術>あるいは<伝統文化×現代のライフスタイル>を満たすもの。

だそうです。
 
 で・・・・
 私、すべての作品を見させていただいたのですが、この「新日本様式」というものに、ちょっと疑問がわいてきたのです。

 受賞作品がプロダクトデザインに偏ってるというのもあるのでしょうが、大企業の”製品”や、話題になったものが非常に多いような気がしました。
 たしかに、人々から多くの支持を得たものというのは、それなりに優れたものであるのは間違いないのでしょうが、プロダクトデザインというのは、基本的には、企業の側が製品として発信したものしか消費者は選べないシステムであり、必ずしも”消費者がこれを欲している”というものとは同意でないと思うのです。
 たしかに、受賞作の多くは優れたデザインであり、優れた理念の基に作られたものだと思うのですが、僕にはそれらが、既存の仕組みである”グッドデザイン賞”と、どのように違うのか、よく解らないというのが正直な感想です。

 なかには、この新日本様式の理念にあわせるような、とってつけたような説明がされてるものもあったり・・・。
僕も仕事で、”言葉を後付する”というようなことをすることもありますが、ネームバリューのある企業のヒット商品ならば、後付の理念でも受賞できてしまうのであれば、ちょっと空しい気がします。
 それが、様式という名のもとに”日本の新しいスタンダード”だといわれても・・・。
と感じてしまうのですが。

 繰り返しますが、受賞作の多くは、すばらしいものが多いと思います。
 しかし、その理念として、新しい日本の様式となり得るのものなのか?
 「新日本様式」というものが、日本製品を世界に売り込むツールなんていう小さいものではなく、これからの世界が進むべき方向として、日本が発信していく新しい様式、というようなものにしてほしいと感じるのですが・・・。


 なるほど「こころ」が先行するのですね。
 ヤングパワーではなく、「熟年」といったところ。
  1].たくみのこころ
  2].ふるまいのこころ
  3].もてなしのこころ
の3つだそうです。

 これをヤングに要求しても、無理というもの。
 どれもこれも年季がいる。
 まるで園遊会の茶道の世界。
 「老成した魅力」

 クール・ジャパンが「熟成化したヤングパワー」なら、「ジャパネスク・モダン:新日本様式」とは「熟成された品格」つまり、「シルバーパワーの今日的表現」ということになる。
 コピーライト的には「クール・ジャパン」のほうが当たりがいい。

 
ジャパネスク・モダン」とは「E電」レベル、とってつけたような響き。
 「E電」といっても知らない人が大半だろうが。
 これは文化の「発信」ということを、考えていないネーミング。
 お役所仕事の硬さだろう。


 クール・ジャパンとジャパネスク・モダン。
 ということは、
 若者から老人まで、日本は民族ぐるみで文化発信を行っている、行おうとしている、ということになってしまうのだが。
 そしてそのコンセプトは「クール&タイム:冷ややかさと年季」になる。
 つまり、熟成化した若者と、若者化した熟年ということになってくるのだが。
 ウーン、そうだろうか。

 「文化発信大国 ニッポン」

 インターネット上で飛び交う言語は、「日本語」が最も多いという。
 ワールド・ランゲージである英語を抜いている。
 日本語は世界で「最も難解な言語」である。
 それが「イチゼロの世界」を動き回っている。
 日本人しか理解できない言語が、ナンバーワン言語としてインターネット上を飛び回っている。
 不可解な恐ろしさ、畏怖でながめるしかない手がないのか。
 分からぬ言語と分かりやすい文化で世界を凌駕する国。
 なんで分かりやすいモノが、分かりにくいコトバから生まれてくるのか。

 「ナンとも恐ろしい国 ニッポン」

 「サムライが刀を置いた」国である。
 刀の代わりに「イメージ:創造力、創作力」を武器にしはじめた。
 ベースになるのが「品位・品格」だという。
 何が飛び出してくるかわからない。
 最奥義イメージが残っている。

 「天かける竜のひらめき」

 この言葉、実に響きがいい。
 日本沈没のエピローグは「竜の死」
 日本とは竜、「天かける竜」とは。
 「天」とはなに。
 太陽と月と星の宇宙、無限空間、境界のない世界、インターネット網、ついでにあの世。
 どれも違うような気がする。

 Wikipediaによれば
 『天とは身近に存在しながらも、知り得ない世界構造を仮想する概念』

 「ひらめき」とは、創造力、イメージ。

 それも、特有の「凝り性」あるいは「こだわり」「のめり込み」に裏づけられたもの。
 最奥義とはそういうもの。
 練習すれば高品質は手にできる。

 でも最奥義には「こだわり」が必要になる。
 それを「品位・品格」に転移できるか。


● 「天かける竜のひらめき」とは日本の創造力、イメージ


 『竜はひらめくか?



<つづく>






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2008年9月26日金曜日

文化発信大国日本2:クール・ジャパン


● 古武道:和弓練習


 文化発信大国日本2:クール・ジャパン
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 クール・ジャパンについては肯定的にとらえる人、否定的にとらえる人、それぞれさまざまである。


 調べてみると、Wikipediaには「クール・ジャパン」の項目はない。
 また「国民総魅力指数:グロス・ナショナル・クール 」も編集中と出てきます。
 「クール・ブリタニア」の稿に下記の内容がありました。


★ クール・ブリタニア Wikipedia
─────────────────────────────────────────
 日本へのクール・ブリタニアの影響

 アメリカのジャーナリスト、ダグラス・マグレイが外交問題専門誌フォーリン・ポリシーに『日本のグロス・ナショナル・クール(Japan's Gross National Cool)』を掲載し、日本国内でも話題になった。

 彼によれば、日本の経済はバブル崩壊後挫折していたが、アニメや漫画、キャラクター・グッズなどそのポップカルチャーは世界に広がっており、日本は経済指標(GNPなど)では計測できないソフト・パワーを発揮している。

 ソフト・パワーをもとにした世界の質的変化は国民総生産ならぬ「国民総クール」というような指数で考えるべきであり、日本はその点でアメリカも無視できない力を持つ、という。

 ただし、日本のポップカルチャーの理論化や世界への英語での発信などの不足、そして国家ブランド戦略の不在によりポップカルチャーの広がりには障害があり、また日本自体のブランドイメージは貧困なままであると述べている(一般的な日本のイメージは、相変わらず「抑圧的・画一的・閉鎖的・男性優位」など実際の日本とはかけ離れた姿であろう)。

 こうして日本も遅ればせながら「クール・ブリタニア」に学び「クール・ジャパン(ジャパン・クール)」を作ろうという動きがあるが、ブレア政権ほどの内閣による国家戦略化や、大胆な施策の実施には遠いものがある。



 クール[cool]には「魅力」という訳語が採用されている。
 つまり、日本文化は「魅力的」ということである。
 その魅力がグローバル、すなわちどの国でも客観的に評価されうるかである。

 また、「カッコイイ:格好いい」という訳語も使われており、「カッコイイ・ニッポン」という表現になるが、ちょっと俗っぽいことは否めない。
 なんらかの魅力があるので、カッコイイということであろうと思う。

 アメリカ西部劇は一世を風靡した。
 日本でもローハイドからララミー牧場まで、さまざまなテレビ西部劇が放映された。
 でも今は影も形もない。
 なら、西部劇はつまらなかったか。
 いや、十分に「魅力的であった」といっていいだろう。
 もちろん、「カッコよかった」
 その時代に間違いなく、インパクトを与えたと思う。

 西部劇のウラには「アメリカが魅力的か」という問が含まれている。

 正義と悪の単純な図式において、正義をアメリカが表現し、西部劇という形をとっている。
 「正義が勝つ」、それが西部劇の魅力としてあった。
 が、アメリカが正義でないと分かったとき、西部劇も瞬く間に没落してしまう。

 現今においては、正悪の判断などほとんど無価値になっている。
 というのは、誰もどれが正しく、どれが間違っているかなど判断できなくなっているからだ。
 一つのことも、表からみるのと、横から裏からみるのとでは異なって当然ということになっている。

 「世に真実はない」というのが現在であり、ただ各々の立場で裁断を下しているにすぎないことを誰もが知ってしまっている。

 クール・ジャパンがありえるとすれば、国のトータルが、すなわち「日本という文化」そのものが客観的に魅力的かという問が含まれているような感じがする。
 ただ、その国に培われた文化のすべてが外国の人々にとって魅力的なわけはない。
 その一部にでも、ひきつけるものがあるか、ということであろうと思う。


 十年前、寿司は「ヤーク」といって嫌われた。

 シーウイード(海苔)が嫌われたのだ。
 あの真っ黒いものを使って、かつ、それを食すること、この不潔感が「ヤーク:汚らしい」という表現に現れていた。
 海苔巻きを出すと、となりの人からイヤな顔をされたのは、本当にたった十年ほど前のことである。

 それが、今では大きなショッピングセンターには、必ずといっていいほど海苔巻き屋さんが出店している。
 プラスチックの箱に入ったノリマキを出してきては、醤油をつけて、若い人たちが食べている。
 しかし老人は、わずかな人を除いて、ほとんどといっていいほど手を出さない。

 もちろん、いまでも「生魚」は嫌われている。
 日本の寿司など、いくら能書きを束ねても浸透などしない。
 こちらの人が食べられる生魚はわずかにサーモンだけである。
 よって海苔巻きとは、肉であり、加工した魚であり、海老である。
 から揚げであり、野菜であり、果物である。
 果物ですらノリマキになる。

 外国の料理も巻いてしまう。
 キムチを巻いて「キムチ巻き」、中華の春巻きを巻いて「スプリングロール巻き」、イタリアンスパゲテイを巻いて「スパゲテイ巻き」。
 まず、巻けないものはないくらい。

 サーモンを除く生魚以外の食べられるものなら、何でもゴハンを固めた上においてしまうのがスシである。
 形は寿司だが、中身は「創作スシ」である。
 「なにを巻いて、食べさせるか」
 「なにを置いて、食べさせるか」
 つまり、肥満解消という時代的要請に応えて、「肉文化」から「ゴハン文化」への変わり目という歴史に見直されたのが「sushi」である。

 「肉から米へ」
 スシとは食生活の変化、すなわち「いかにしてライスを食べるか」その要求にお手軽にマッチしたものである。
 高級料理などという、日本人が優越感に浸れるようなシロモノではない。
 ハンバーグならぬ「ライスバーグ」なのである。

 日本の「寿司」は世界を席巻などしていない。
 世界に出回っているスシとは、寿司モドキ、創作ズシであるが、これこそが、「世界ズシsushi」であり、ライスをいかなる食材ともマッチさせてしまうという、ファーストフード的な最高のコンビニエンスを備えたグローバルな存在なのである。

 日本の寿司とは、「世界ズシ」の一分派、すなわち食材に生魚を使った、「ゲテものズシ」なのである。

 スシとは「ライスの食べ方」なのである。

 冗談を書いているわけではない。
 「日本の寿司」を至上と思いこんでいたら、世界になどに通用しはしないのである。


 もし、クール・ジャパンなるものがあるとしたら、古来の日本文化の輸出であるはずがない。
 古来文化をベースに新たに創作された「新生文化」である。
 それが世界に受け入れられたとき、「クール」になる。
 古来文化の豊かさが、新生文化の「発展の豊かさ」を生んでいるのである。
 その手続きを踏んでこそ「クール」になる。
 古い文化を如何に魅力ある形にして、世界に押し出していくか、それが運動としての「クール・ジャパン」である。


 下記のサイトから抜粋させていただきます。


★ Le Monde(ルモンド抄訳) > 余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C394170269/E382880148/index.html

 分析「クール・ジャパン」日本はポップのスーパーパワー (2003.12.18)
───────────────────────────────────
 経済指標だけでは「社会のダイナミズムは計測できない」。

 大衆文化や人々の行動や時代の雰囲気というものは、収益とか成長率とかの指標では分析できないものだ。
 少なくとも日本に於いては経済指標だけでは、今非常な勢いでもって生まれだしている草の根のエネルギーを把握できない。
 新聞の経済面や政治面を読むと、政治は停滞し景気は少しよくなっているところもあるがまだまだ悪く、社会の不均衡は増大しており世論は不安に満ちている。

 しかし文化面を見ると、日本のライフスタイルや技術進歩は別の見方を与えてくれる。
 創造性に富んだ新製品がどんどん開発され、「前代未聞の状況」だと言うことがわかる。
 このコントラストは新しく日本に到着した外国人を驚かせる。
 「経済危機だって?」 
 大都会の街を歩けば店は消費物資であふれている。

 今日の日本は、たしかに「二つの速度」を持った社会なのだ。

 「発展し豊かに」なりつつある日本と、「停滞し貧乏に」なっていく日本だ。

 特にあらゆる分野に於いて大衆文化の新しい波が怒濤のようにありとあらゆる細々した日常製品に組み込まれているのだ。
 東京や大阪ではこれは驚くばかりで、思いもしないようなへんな商品があふれている。
 アニメ映画、衣裳、グラフィック、音楽、デザインなどは、万華鏡のように新しいライフスタイルの替え方と、行動様式が社会的広がりで融合し合う新しく沸き立つような社会を反映するものだ。
 この12年の不況で日本は巨大な現代的「大衆文化のたまり場」となった。

 こうドナルド・リッキーはその著書「イメージ・ファクトリー」で述べる。
 「概念というより"イメージ"が日本の現代文化を特徴付ける」と。

 「ニッポン大衆文化」は誰もが否応なく接するようなもので、「アクセスのしやすさ」は驚異的。
 あらゆるところに「過剰なほどに存在する」。
 日本列島は今や「イメージの大量生産」という点においてはハリウッドやロンドンを抜いた。

 「アメリカ製ポップは映像の世界に於いてその覇権を失った」と社会学者イワブチ・コーイチ氏は、「ポップの製作に於いてはグローバリゼーションは多元化と多角化を生み出している」と言う。
 西欧諸国に於いてはニッポン大衆文化は「禅」とか「鮨」の言うイメージにとどまっているが、アジアに於いてはこの「非グローバル化」はとりもなおさずアジアに於ける大衆文化の日本かを意味しているのだ。

 このような世界的ブームは既に「利益を生み出している」ことで日本のイメージチェインジに貢献している。

 従来の日本の紋切り型固定観念は「企業戦士」とかセックスと暴力に満ちあふれた漫画とかそういうものだった。
 が、いまやニッポン・ポップは「クール」で「格好いい」のであるとダグラス・マックグレイが「フォーリン・アフェアーズ」に書いた。
 かれはこの現象を表す指標として「グロス・ナショナル・クール:GNC」というGDPにあやかった言葉を工夫した。
 日本のポップ文化は「クール」であるという。
 「皮肉な性格」を持ち「反体制的」でもあるのだ。

 日本では高齢化が進んでいるが、同時に商業的でアングラ的な「若者文化のるつぼ」でもある。
 これにはいろんな要素がある。

 まず第一に、産業構造の第三分類化(サービス化)でライフスタイルや労働価値観が変わったことである。
 「失われた10年」は1960年から1980年にわたって支配的だった「生産性の拘束」を解き放した。
 効用主義やテイラー主義が日本社会を支配していたのであるがその重しが解き放された。

 たしかに日本は金持ちではなくなった。
 金持ちでないので「より創造性」が求められた。
 「日常生活に於いて」スタイリストやデザイナーが「インスピレーションを探す」ようになった。

 第二番目の点は、「文化的な伝統」である。
 まずその「精神」。
 最初に西欧文化に触れた19世紀以来日本は素晴らしい折衷主義をとって外国文化を取り入れてきた。
 ポストモダンの時代においても、街の建築にはとんでもない東西文化の折衷が見られ、無国籍料理が流行っている。
 日本には「精神文化的タブーが無い」ので遊び心と技術を結びつけることが出来るのだ。
 日常製品について技術製品にイマジネーションを結びつけるやり方は、社会学者のクリスティーン・コンドミナスが携帯電話器への装飾品文化について書いているとおりである。
 
 最後に第三の点は、この「数世紀」にわたって存在した「日本の遊び心」である。
 生産性優先主義のために一時期押さえつけられていたのであるが、現在このポップ・カルチャーとして花開いたとも言える。

 このニッポン・ポップの世界的流行は、日本の従来からの牢固たる伝統的イメージ、つまり「生産性と同質性」という固定観念を修正することになろう。
 これは現代の歴史家達が修正しようと努力していることでもある。

 日本は現実には、文化は花開く、「多元的で多様」な、「変幻自在な社会」なのである。
 これが人を「日本列島に引きつける」こととなる。

 アジアの若者達がニッポン・ポップに熱狂することに植民地時代の傷跡をまだ持っているアジアの熟年世代は目をひそめるが、世代の断絶がある。



 前稿の朝鮮日報の締めはこういう言葉で終わっています。


 無形の国家魅力と文化的価値で金を稼ぐポスト・モダン経済に転換した。
 その動因は何っだたのか。

 日本での取材中に出会った雑誌『BRUTUS(ブルータス)』の芝崎信明副編集長が、この点を簡単に整理してくれた。

 "失われた10年”の長期不況が、日本文化を「強く鍛えた」。
 好況だったとき、日本は金の力で文化を買った。
 しかし今は、バブルが弾けて「金がない」。
 「金で買えない」なら、「日本自身がクールになるしか…」


 ということは、金がないので
 「日本が日本自身を、魅力的に作り変えた」
ということになる。

 続いてもう一つ。
 ということは
 「日本自身が、魅力的に作りかえるネタを持っていた」
ということになる。

 それが Le Monde のいう「文化的な伝統」と「精神文化的タブーの無さ」、そして「日本の遊び心」なのだろうか。

 「金がない」すなわち、ビンボーが「クール:魅力」を作り出したのであろうか。
 それとも「ビンボー」の哀れなさびしさが、「クール:かっこいい」に写ったのであろうか。


 サイトから抜粋させていただきます。

★ クールジャパンの本質 2008.07.22
http://plaza.rakuten.co.jp/manilabangkokhcm/diary/200807220000/
──────────────────────────────────────
 [ 日本文化 ]

 最近言われている(?)のが、日本は3度目の世界制覇チャレンジを行っているということです。

 一度目は軍事力で。
 でもこれは世界制覇なんて軍部も望んでいなかったことですから過大評価ってところですか。
 技術力なんて、例えばゼロ戦とか大和なんて、基礎技術力が足かせとなって設計の脚をひっぱりましたから。
 その中であれだけの工業技術品を作り出した戦前の方々は凄かったと思います。
 もちろん工作機械の不備を職人技で補ったのが戦後の復興の基礎になったことは確かですが。

 二度目は経済力で。
 ジャパンアズナンバーワンなんて言われた頃が懐かしいですね。
 リゲインのCMとか、24時間戦えますか~。
 ってなもんで。
 そのころは技術力は認められていたのですが、相対的に労働者の献身の元で安価な製品を大量に世界中に輸出。
 国内は規制に守られるってなことで札束で世界を制覇する戦略は非常に反感を生み、特に反日クリントン元大統領政権の理不尽な政策により潰されてしまいました(第二の敗戦)。

 そして3度目。
 文化力での覇権チャレンジです。

 今度はアニメ、漫画、カラオケを筆頭としたサブカルチャーをスタートとして、ファッション、食事、観光、歴史、先端技術、環境など。

 驚くほど世界中で「日本文化が発信」されています。
 「色々な言語で」です。
 私は英語くらいしか外国語はまともに読めませんが、妻(ベトナム人)の話を聞いても日本の文化はベトナムに溶け込みつつあります(アニメ、日本食、電化製品、車、バイクはもとより、盆栽なんてのもベトナム人に好まれています)。

 私が長期出張をしていたフィリピンでは、2000年前後はボルテスファイブが大人気で、視聴率は大変なものだったようです。
 工場で女の子たちがボルテスファイブの主題歌を歌っていたりしました。
 この「文化での世界制覇」は順調に進んでいるようです。

 まあ、世界制覇なんてのは冗談ですが、日本文化がいろいろな分野でいろいろな場所でみることが出来るのは嬉しいことです。

 そしてその根本が、「日本人の凝り性」だと思うのです。

 何故か突き詰めなくては気がすまないという国民性が工業製品では製品の品質と性能の高さにつながりますし、アニメでは薄給に負けない人たちの作品が生まれ、ファッションでは、、、これは私にはわかりません。



● 和楽器:演奏会


 メインタイトルは「文化発信大国日本」なのですが、書こうと思ったときのサブタイトルは
 
「文化発信大国日本:過剰発信の危険性」
というものでした。


 「日本は文化を発信し過ぎている

 警戒レベルにある。
 これ以上の発信は危険で、「抑制すべきだ」、というものでした。
 でないと、異文化社会から世界中から「文化バッシング」される、といった内容の予定でした。
 ちょうど、日本の経済進出が「ジャパン・バッシング」を招いたように。

 「経済の次は文化だ、気をつけろ

 打たれ強くなっていますから、大丈夫だとは思うのですが。
 
まあ、行くところまで行くしかないかな、と感じているところです。
 なるようにしかならん、とタカはくくっていますが。

 海外に居を構えてしまうと、「やられる」「叩たかれる」ということに非常に敏感になります。
 なにしろこの国、政府国民一致して「日本タタキ」に邁進している。
 「アンチ捕鯨」
 理屈もなにもない。
 ただ「やめろ」だけ。
 そんなところにいると分かるのですね。
 「文化バッシング」というものの持つ雰囲気が。
 「バッシングする」ということに、楽しみを感じているのです。
 日本も同じくらい異常にバッシングが好きな民族ですが。


 書評から。

★ 「クール・ジャパン」もあながち嘘じゃない~『ニッポンの評判』
  今井佐緒里著 新潮新書 (評:三浦天紗子)
  2008年9月9日 投稿者: 日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080909/170009/
────────────────────────────────────
 近ごろ、「クール・ジャパン」という言葉をよく耳にするようになった。

 ジャパン・メイドのアニメやマンガ、アキバ文化が世界的な人気を博し、一おもちゃメーカーの“ニンテンドー”がグローバルに通用する。
 いまや日本発のファッションや料理、アート、文学、建築などさまざまな伝統文化やポップカルチャー、あるいは「Mottainai(もったいない)」といった日本的精神までが、カッコイイものとしてあちこちの国で受け入れられていると聞く。

 では、実際のところどうなのか。
 クール・ジャパンなんて持ち上げられているけれど、所詮、日本びいきのごく一部の人々に、オタク文化の総本山として偏愛されているだけではないのか。
 そんな思いを抱きつつ、本書を手に取った。

 本書の執筆者は、イギリスやフランス、ブラジル、マレーシアなど、世界17の国々に在住、もしくは長期滞在していた経験を持つ日本人18人。
 それぞれの国での日本の評判を、本書の編著者でもある今井佐緒里氏がまとめた形だ。
 評判が届きやすいアメリカ東海岸、中国や韓国はあえて除外し、ニュースなどで頻繁に登場しない国々を多く取り上げたという。

 ちなみに今井氏は、出版社退職後の2001年に渡仏。
 長らく南仏に住み、日本向けにフランスやEUの情報を執筆しているフリーの編集者&ジャーナリストで、これが初めての著作になる。

 さて、本書をひもとくと、クール・ジャパンの触れ込みはあながち嘘でもないようだ。

 ロサンジェルスでは若い世代の会話で、ピチカート・ファイヴやケツメイシ、奈良美智や村上隆の名前がさらっと出てくるし、マレーシアでは1981 年から現在までずっとルック・イースト政策が掲げられ、近代化のモデルケース国家として日本は憧れの眼差しで見られている。
 これまで、国際的にモテないと言われてきた日本男性だが、オーストラリア女性たちからは最近、「日本人男性はファッショナブルで洗練されている」と一目置かれてさえいるらしい。

 1970年代から80年代まで、シンガポールにとって日本は経済発展のお手本だった。
 しかしバブル崩壊後の90年代は、注目を集めていた終身雇用、年功序列の日本式経営そのものはもてはやされなくなり、むしろ下火になる。

 とはいうものの、たとえば解雇を言い渡した従業員の再就職の世話や、その家族の生活のことまで心配するような家族的な温かさが古い日本にはある。
 その“日本式経営の精神”が、シンガポールのビジネス界にじわじわと浸透していったという。


 本を取り寄せて読むというのは、面倒なためほとんどやっていないので、この本読んでいないのですが。
 この中に「奈良美智や村上隆」という個人名があって、はじめて聞く名で、これは誰だろうかと調べてみたのですが、どうもクール・ジャパンの旗手とされている美術家のようです。

 てな程度の知識しかないのに、クール・ジャパンを書いているため、トンチンカンになっているかもしれませんのであしからず。


 言えることは、やはり「日本の文化発信」は度を越していると思います。
 「危険レベル」にあると思います。

 鯨なんぞは無視すればいいのですが、「文化」ともなるとそうはいかなくなる。
 危険というのは、わが身が危険ということでもあります。
 もちろん襲われるといった物理的なことではなく、心理的にという意味です。

 もし、世界中で日本文化の過剰発信に対してバッシングが発生したら、外で暮らすものとして、その「精神的安定感」はいかな形で阻害されていくのだろういう問題です。



 <つづく>



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2008年9月24日水曜日

文化発信大国日本1:サクラの下で結婚式を


● サクラのしたで結婚式を:招待状1
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 文化発信大国日本1:サクラの下で結婚式を
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 息子に日本から結婚式の招待状が届いた。
 来年4月である。
 まだまだ先のことである。
 場所は大阪。
 とりたてて珍しいことではないだろう。
 でも、ちょっと出かけるには遠いいが。

 が、
 「とてつもなく奇異なことなのである」

 なぜなら新郎新婦ともにオーストラリアンなのである。
 こちらに自分たちの持ち家もある。
 親類家族、すべてこちらに住んでいる。

 この9月から、新婦に当たる女性は、小学校で英語を教えるために日本へ行った。
 ついでに、フィアンセもワーキング・ホリデイーをとって日本にいった。
 二人とも日本に知り合いはいない。
 記入書類に「日本での連絡先」という項目があったため、東京にいる娘のアドレスを書きこんだという。
 ちなみに、娘は新郎のパブリック・ハイスクールの後輩に当たる。
 でも、直接は知らない。

 最初の滞在場所は1カ月契約でワンルームのリースマンションである。
 不動産屋との行き違いは、日本から電話をもらって、息子が不動産屋と交渉し処理した。
 ワンルームにエクストラ・ベットを入れてもらった。
 そのくらい狭苦しい街、日本。

 その日本で、結婚式を挙げるという。
 ということは、式に出る連中は皆、こちらから出かけていかねばならぬ。
 何という身勝手なことを。
 3月から4月の休みに帰ってきて、挙式してもいいではないか。
 1年ビザなので、もうちょっと待てばイヤが応でもこちらに帰ってくる。



●大阪:サクラの下で:[outbound 2008後期版]より
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 ここは「パートナー文化」だ。
 なにもあえてすぐに結婚式などしなくてもいい社会だ。
 それなのに何故。
 なぜに無理を押し通す。

 「サクラの花の下で結婚式を挙げたい」
 でもそのころはサクラは散っているかもしれないぞ。
 でも、

 「日本で結婚式を挙げたい」

 どうなっている。
 なんでそうなる。
 ちなみに、新婦は「マック食文化」の申し子みたいな人という。
 日本のことはほとんど知らない。
 それで、日本に子どもに英語を教えに出かけて行く。

 もちろん、人生経験だからそれでいい。
 臆していたら、先へは進めない。
 踏み切れる力が若者の特権。


● 大阪ハイアットで:結婚式招待状2
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 でも結婚式は別ものだろう。
 まわりに人の都合も考えなくてはならないだろう。

 まさか、和風で新郎は袴羽織、花嫁は文金高島田ではないだろうな。
 すごく似合うかもしれないが。



● YOUR JAPAN:[outbound 2008後期版]より
 <クリックすると大きくなります>


 日本のホームページには韓国の三大新聞のニュースがそろって載っている。

 どれを読んでも、なかなか興味深い。
 ちょっと離れられない魅力に満ちている。
 2日読まないと、3日目にはどんな記事があるかなと、わくわくしながらページを開くことになる。
 一種の麻薬である。

 ここまで卑屈にならなくてもいいのではないか、と思うほどの内容だが、第三者的にみるとこれが「哀愁を誘う」
 それがページを開けさせる。
 いたいけな「劣等感にさいなまれ」続け、それを覆い隠すために大言壮語に走る悲しさは、読むものの共感を呼ばずにはいられない。
 なんとも切ない。
 ときに、涙が出てくる。
 もう少し、肩から力を抜いたら、と言いたくなる。

 日本を侮蔑し、辱め、劣等とみなし、そうすることによってやっとなんとか民族的精神的な支柱を見い出している。
 一本の邪険にされる杖にすがりながら、健気に頑張っている。
 それ以外には、なすべき手段がないのだろうかと思うほどに、「繊細にして、弱々しい」
 なにかにつけ日本を意識せずにはいられない、「やるせなさ」が深く染込んでいる。

 中国がすこぶる男性的なら、韓国はすこぶる女性的である。

 我を押し通す傲慢さが中国の文化的特色なら、論理もなくヒステリックにキャンキャン騒ぎ、それに自己陶酔する奢慢さは、「女々し過ぎる」ほどの民族的特色を放っている。

 「韓日もし戦わば」などという特集を「まじめに」だと思うが書いている。
 とてもマトモな脳味噌ではついていけないのだが、またこれがひどく面白い。
 「字で書いたマンガ」だと思えば納得できる。
 人口からして日本の4割なのである。
 韓国と日本の差は、ぴったり日本とアメリカの差に比例する。
 どうみても国力がまるで違うだろうと思うのだが、そういう知的な冷静さには目をつむってしまうようだ。

 実に読むものに「アワレさを喚起させる」内容に満ち溢れているのだが、ときに
 「こんなことを韓国の新聞が書いている」
と、びっくりすることがある。


★ 朝鮮日報 2008/05/05
http://www.chosunonline.com/article/20080505000025

「魅力」を売るクールな日本
─────────────
────
 一人の女性が畳の部屋に正座している。
 華麗な着物を身に着け、顔には厚くおしろいを塗っている。
 京都・祇園の料亭で見かけるような芸者の姿だ。
 面長な顔のラインが出ていなければ、外国人だということに気付かないところだった。
 数カ月前に外信で入って来たこの写真から、記者はしばらく目を離すことができなかった。

 主人公は、「西洋人初の芸者」となったオーストラリアの女性学者だった。
 舞・楽器・茶道・話し方などの厳しい修練を経て、ついに難関を突破した。
 月10万円の授業料を払い、「値段は自動車1台分」という着物も購入したという。
 彼女は「オックスフォード大学で博士号」を取得している。
 それほどのインテリが、芸者のどんな魅力に惹かれたのだろうか。

 日本の文化的魅力を取材しようと心に決めたのは、この写真のせいだけではなかった。
 それまでにも似たようなニュースが続き、記者の好奇心を刺激していた。

 世界的な権威を誇るフランスのレストラン格付け本『ミシュラン・ガイド』は、東京を世界最高の「美食都市」に挙げた。
 伝統ある美食強国フランスを退けたのだ。

 そうかと思えば、ヨーロッパの若者たちの間で「日本の伝統的な結婚式がブーム」だというニュースもあった。


 この記事、日本ではそこそこ有名なものですので、読まれた方も多いのではないでしょうか。

 以前、読んだときは当たり前のことを当たり前に書いていると思っただけで、とりたてての感想はありませんでした。
 しかし今回、読み返してみて、先の結婚式の招待状ということに当てはめると、「そういうことだったのか」と、やにわに事の意味が氷解してきました。

 でもまさか、この花嫁、金襴緞子に身を固めたいわけでもあるまいな。
 出身が美術科系というから、ありそうなことではあるが。



● ニセコ:[outbound 2008後期版]より
 日本でのクリスマスは「ニセコ」で過ごす予定とのこと。
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 もう少し、この記事の内容を抜粋で載せてみましょう。


 日本に対する「欧米の熱狂ぶり」は、韓国人の想像を超えている。

 「日本」と聞くと、韓国人は経済大国を連想する。
 トヨタ自動車やソニーの電子製品に象徴される製造業強国というイメージが絶対的だ。

 一方、日本文化に対しては、「倭色」として質の低い「B級」の扱いをする。
 韓国人は日本の「文化・生活様式・美意識・価値観」などについては低く見る。

 しかし経済的な観点だけを見ても、21世紀の日本を正しく理解することはできない。
 韓国人が意識しない間に、日本は経済大国を脱皮し、「文化大国」に変身した。

 今、日本は「世界で最も魅力的な国」として通じている。
 ただ魅力を発散するのではなく、金を稼ぎ、富を創出する「ソフトパワーの経済モデル」を作り出した。

 米紙ワシントン・ポストが「クール(Cool)な帝国・日本」という特集記事を掲載したのは、4年前のことだった。
 記事は日本について、「地球上で最もクールな国だ」という賛辞を贈った。

 「日本製文化商品」の躍進には目を見張るばかりだ。
 日本は、既に「工業製品輸出国」の段階を過ぎ、「文化輸出大国」に移行した。
 このような日本を、製造業強国であるという伝統的な物差しだけで計り、正しく理解することができるのだろうか。

 「国民総魅力」(GNC)という指標がある。

 米国ニューアメリカ財団のダグラス・マッグレイ研究員が、外交雑誌『フォーリン・ポリシー』(2002年5・6月号)に発表した論文で提示した。

 文化という「無形の価値」を総合し一国の国力を評価しよう、という新しい試みに乗り出したわけだ。

 国民総魅力とは、国民総生産(GNP)に倣った名であることは言うまでもない。
 一国の国力を評価する際、韓国人はGNPを尋ねる。
 GNPとは、商品とサービスの生産を通じ創出された経済的価値を数値化したものだ。

 ならば何故、「文化的パワー」は概念化され得ないのか、とマッグレイ氏は反問する。
 重要なのは、マッグレイ氏が「国民総魅力の概念を提示した理由」が、まさに「日本にある」ということだ。

 彼は「日本が1980年代の経済大国を凌駕する"文化強国"となった」と分析し、「日本を説明するための道具」として国民総魅力を提示した。

 「経済」より「魅力という文化的価値」が、「21世紀の日本」を説明するに当たってより有用な指標となり得る、というわけだ。

 日本経済は、もはや製造業だけの経済ではない。

 「無形の国家魅力」と「文化的価値」で金を稼ぐ「ポスト・モダン経済」に転換した。



● 白馬:[outbound 2008後期版]より
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 なを、「西洋人初の芸者」については、広く報道されましたので多分ご存知のことと思いますが、参考のためそのウエブサイトと記事を転載しておきます。


★ SAYUKI 花柳界歴史上初の外国人芸者
http://
www.sayuki.net/
─────────────────────
国籍 オーストラリア

 日本の400年の歴史上において初めて異国の外国人女性として花柳界への扉を開き「紗幸:さゆき」の名で芸者デビュー、極めて異例の出来事である。
 2007年12月19日、東京浅草においてお披露目される。

 日本で活躍する外国人女性として初の試みに加え、肩書きも異例で、海外の国立大学での講師などを務め、主な学位としてオックスフォード大学でMBAを取得、のち博士号「社会人類学」を取得、ならびに経営学の修士を取得。
 最初の学位は日本の慶応大学「心理学」で白人女性として初めて授与される。

 また、テレビプロデューサーの顔も持ち、おもに比較文化的ドキュメンタリーの制作の監督を務め、NHKをはじめBBCなど海外メディアで数多くのドキュメンタリー番組の監督、司会、ナレーションを日本語で行う。
 ファイナンシャルタイムス、ジャパンタイムスなどの記者として記事を寄稿。
 また、共同通信、ロイター通信の記者としての活動もこなす。

 日本文化の著作を3冊海外で発表し、民族研究・経営学の研究著作は海外で話題を呼ぶ。
 日本の伝統文化・花柳界を海外メディア、日本のメディアを通して発表し、ドキュメンタリー番組の制作なども手がけていく予定。





★ 25today
「日本が誇る伝統の業を伝えたい」 [2008/5/05]
http://top.25today.com/interview/post_215.php

 史上初の外国人芸者 紗幸さんインタビュー
───────────────────────────
 昨年12月19日、東京・浅草で史上初の外国人芸者が誕生した。
 芸名は紗幸。
 メルボルン出身のオーストラリア人女性だ。
 慶応大学、オックスフォード大学での学歴を持ち、日本を専門とする社会人類学者として研究をしながら、著作物出版やドキュメンタリー映画作成を行ってきた才媛でもある。
 その彼女が芸者になろうと思ったきっかけ、修行、芸者としての今の暮らしについて、流暢な日本語で話してもらった。

■きっかけは映画『SAYURI』
──────────────
 「西洋人は芸者に対して、男性の言う通りになって決定権が何もないというような間違ったイメージを持っているんです。
 実際はまったく違います。
 芸者は独立したワーキング・ウーマンなんです」。
 芸名・紗幸こと、フィオナ・グレアムさんは芸者という仕事についてこう話す。
 踊りや三味線など伝統芸能の高度な技を持ち、客が楽しめるよう心配りを怠らない、エンターテイメントとサービスのプロフェッショナル。
 「他国にはほとんど例を見ない、日本伝統のすばらしい職業です」。

 彼女が芸者になることを考えたのは、アーサー・ゴールデンの小説『さゆり(原題:Memoirs of Geisha)』を元に、ハリウッドが映画を製作するという話を聞いた時だ。
 西洋男性が作る「ゲイシャ映画」が「間違った」イメージで凝り固まり、真実からかけ離れたものになることは彼女には明らかだった。
 映画はあくまでフィクションであり、真実の芸者の姿を伝えるものではない。
 が、芸者の世界を知らない西洋人がこれを観た時、現実と勘違いしかねないのも事実だ。
 それは学者として日本社会を研究してきた彼女には耐えがたいことだった。
 『さゆり』のイメージを払拭するために、真実の芸者の姿を伝える人類学的なドキュメンタリー映画を作らなければならないと思った彼女は、自ら芸者になって花柳界に入り、撮影をしようと決めた。

■正座が一番つらかった
───────────────
 フィオナさんが芸者になる場所として選んだのは、東京・浅草の花柳界。
 自身が長年東京に住んでいたこと、また浅草の花柳界が数百年という長い歴史を持つことや、昔の東京の姿を残す風景が撮影で絵になると思ったのが理由だ。
 いずれにせよ、浅草の花柳界はフィオナさんの申し出にさぞ驚いたことだろう。

 「外国人が芸者になるというのは歴史上初めてですから、当然簡単には受け入れられず、花柳界の皆さんを説得するのにかなりの時間を費やしました。
 幸い慶応大学のOBの方など、顔の効く方たちが応援してくださったんです。それがなければとても入れない世界です」。
 フィオナさんの熱意と周りの人々の援助により、門が開いた。
 置屋(芸者を抱え、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向ける家)を紹介してもらい、芸者修行を開始した。
 戦前、芸者になるには、子どものころから置屋に入り長い修行時代を経ることも多かったようだが、フィオナさんによれば浅草の花柳界で芸者になるまでの修行期間は、現在通常1年ほど。
 その期間、料亭で仲居の仕事をしながら芸者の仕事を観察したり、お茶、踊り、太鼓、横笛の稽古、そのほか数限りない慣習や礼儀作法を置屋の「お母さん」から叩き込まれる。
 もちろんフィオナさんが外国人だからといって特別扱いを受けるようなことはなかった。
 「芸者は芸者。外国人だから大目に見てもらえるということはありません」。
 生まれの違いを甘えにしていたら、続かない世界なのだろう。
 彼女が修行時代一番つらかったというのは、正座。
 「芸者衆は座布団を使いません。お座敷は最低2時間、その間しびれても何もできないので、早く慣れるしかない。体重が1キロでも余計にあるとつらいと年配のお姐さんが教えてくれて、痩せる努力もしました」。
 芸の中では横笛が最も自信があったが、苦労はそこにもあった。
 「フルートをやっていたのできれいに音は出せるんですが、邦楽のタイミングは洋楽と違うのが難しくて…」。
 日本に長年住み見事な日本語を話すフィオナさんにとっても、予想以上に大変な修行時代だったが、ひと通りの芸と作法を身に着けた昨年12月18日、ついに芸者としてのお披露目を果たした。
 芸名は、伝統としてお母さんの名前から「幸」の1文字をもらった。
 先輩芸者のお姐さんたちや置屋、料亭など、浅草花柳界の関係者100件以上に朝から晩まで挨拶して回った。
 こうして芸者「紗幸」が誕生した。

■プロジェクトとして、業として
──────────────────
 現在、紗幸さんの毎日は、昼間に師匠と一緒にお茶や踊りなどの稽古を1、2時間行うほか、自分1人での稽古、練習会や浅草で行われるイベントに参加、夜は多い時にはお座敷3カ所に出るという多忙さだ。
 「芸者」とは、すなわち「芸」を持つ者。
 プロとして芸は一生磨き続けなければならない。
 紗幸さんはそんな日本伝統の業に誇りを持って、日々精進している。
 またドキュメンタリー映画の方はというと、忙しい合間を縫って芸者としての自らの生活を撮影している最中で、完成したらオーストラリアを含む数カ国で公開の予定だ。

 そのほか芸者文化を紹介するプロジェクトの一環として、浅草の芸者衆と来豪も考えている。
 「大学の日本研究学科を訪ねたり、日本関係のフェスティバルに参加したりして、芸者文化を公開したいです。
 スポンサーの応援があると助かりますので、皆さんご紹介をよろしくお願いします」とのこと。
 最後に気になる質問を1つ。
 社会人類学のプロジェクトのためになった芸者、映画完成の暁にはすぐに辞めてしまうのだろうか ? 答えは、否。
 「最初はプロジェクトとして始めましたが今はそれ以上に没頭しています。歴史上初めてのケースとして芸者になれたので、すごくありがたいことですし、がんばって一人前の芸者にならなければと思います」。
 紗幸さんを指名してお座敷遊びをしてみたいと思った人は、「紗幸」のウェブサイトを通して連絡すれば手配できるとのこと。
 東京に行く機会のある人は、日本伝統の業に励む紗幸さんの活躍ぶりを見ることができるだろう。


 紗幸プロフィル
──────────
 本名 フィオナ・グレアム。メルボルン出身。
 15歳の時交換留学生として日本に渡り、現地の高校を卒業。
 慶應大学で心理学学位を取得後、英国オックスフォード大学でMBA、社会人類学の博士号取得。
 2007年、浅草花柳界で芸者になるための修行を始め、同年12月19日芸者として正式にお披露目を行う。







【追記:年明けの中央日報 2009/01/17にも出ていました】

オックスフォード大で博士号取得した外国人芸者



 <つづく>



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2008年9月17日水曜日

気になる値づけ


● ファッションカタログより
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 気になる値づけ
━━━━━━━


 ここには「セールスマン」というのがいない。

 ドアをトントンと叩くのは決まって宗教勧誘の方。
 何しろ日本人は「世界でもっとも信仰心の深い宗教的な民族」と言われている。
 生まれたときは神社でお払い、七五三も神道、結婚式はキリスト教式で、最後の葬式は仏教式。
 偏狭な宗教思想に凝り固まっていない民族であり、最も心伸びやかな宗教的愛に培われた珍しい人種でもある。

 異民族が寄り集まっている町なので「Where from?」が先に出てくる。
 日本人というと、もうそれだけで安心される。
 勧誘の人はおもむろに、カバンの中から日本語のパンフレットを選び出してくる。

 でも、どうも日本人というのは、神様は一人というのは生理的に合わないようである。
 勧誘の方には悪いのだが、なんでこの人たちは、わざわざ自らの思考の視野を狭めるようなことをするのだろうか、それでいいのだろうかと危ぶんでしまう。
 世界が豊かで平和であるなら、神様も豊かにたくさんいたほうが面白いし、それがなごやかにやってい方が平和的ではないかと思ってしまうのだが。

 そのせいではないだろうか、だんだんこの勧誘もうるさく感じるようになってきた。
 そこで、撃退方としてドアに何処だったかの「おふだ」を貼り付けて、それを指して「イヤ、このオフダでわかるように、ブッデイストなので」と言うことにしている。
 このオフダ、仏教のオフダだっただろうか。
 本人だってよくわからないオフダだ。
 まして他人がわかるわけがない。
 でもこのオフダは偉大だ。

 効き目は抜群。
 何しろ、「仏教」とは静かで平和で争いを好まない宗教と知られており、宗教ランクの最上位「超A」に位置づけされている。
 かれらの宗教は「A」ランクであり、それより上位の宗教と認識されている。
 宗教的カテゴリーだけで、平和な市民なのだなという印象を与えることができる。
 なんだかわからないオフダを見せられて、なんとなく負けたといった雰囲気で勧誘の方は帰ってくれる。


 また、セールスマンのいないぶん、たくさんのダイレクトメールやビラが届く。
 セールスマンの人件費を、印刷代に回しているのが、こちらのマーケテイングの特色である。
 それだけ人口が少ないということなのだろう。
 日本は過剰人口を抱えているため、派遣社員のような人材の使い捨てができる。
 募集すれば、ワンサと人が集まってくる。
 いいのがいなけりゃまた募集すればいい。
 またワンサと集まってくる。

 ここでは人集めにムリがある。
 その分がビラ・カタログに化けていく。
 言い換えると「競争がない」
 カタログで競争してもいかほどでもない。
 カタログで競争ができる程度のもの、ということでもある。

 郵便屋さんの後ろに、ビラ配りの配達人のバイクが続いてくる。
 印刷物をドサッと置いていく。
 とても小さな郵便箱では入りきれない。
 大半ろくでもないジャンクメールだが、ときにお金がかかっているなと思うカタログが入っていることがある。
 そんな中から気に入ったデザインや写真を探すのも、ジャンクメールを見る楽しみの一つ。


 没頭の写真は気に入ったデザインの一つ。

 タダでもらった分厚いファッションカタログを眺めていて、なんとなくいいなと思ったもの。
 何で気に入っているのか、いまでもって分からない。
 モデルが好みということもあるのかもしれないが、とりたててどうこうというモデルでもない。
 この程度のモデルは捨てるほどいる。
 カタログには同じモデルの写真が何様もあったが、これだけに注意がいった。
 ということは、モデルだけの問題ではないようだ。
 そこで勝手に紹介してしまった、というワケなのだが。
 どこがいいのだろう(スキャナーの精度が低いので画像は悪いですが)。

 やはり細身のグラスとの「対比が絶妙」ということだろう。
 このファッション写真集にはたくさんのいろいろな形のグラスが使われている。
 もちろん合成写真であろうが、それに数人のモデルが最新スーツに身をかためて出てくる。
 その中で特にこの写真にひきつけられたのは、このグラスのデザインが、スッキリして、モデルとうまくマッチしていたせいかもしれない。


 ところで、写真の右下を見てください。
 値段が記載されています。

 スーツ$99.95、バッグ$49.95、合わせて$149.90.
 1ドル100円換算で大きな間違いはないとおもいますので、合わせて日本円で1万4990円。

 いつもことだが、ここの値づけはイライラさせられる。
 たとえば、このスーツだが1万円である。
 それを「9,995円」と表示している。
 たった「5円の割引」だ。
 それで割り引いたつもりになっている。
 それっぽち割り引いてなんになるのだろう。
 根本は「売る」ということ。
 5円の値引きで売れるのだろうか。
 この値づけは日本人には到底「理解不能」といっていい。

 なら「10円」引いて「9,990円」ならどうだろうか。
 5円と五十歩百歩である。
 「9,980円」ならば。
 アホくさい、元値1万円のものから「20円」引いて安いといえるだろうか。
 おおまけにまけて「9,900円」
 うん、まあいいかな。

 なら、ぴったり「1万円」の方が、はるかに値引きのイメージが出る。
 もしかしたら正価は1万2千円かもしれないなどと、勘ぐりを想起させるからだ。
 「1万円ジャスト、ジャストだよ、安いよ安いよ」という心理になる。

 日本風の値づけなら「キューッパ」で「9,800円」だろうと思う。
 日本人特有の心理であろうか、末端の有効数字が「9」となると、いやがる。
 人をバカにしたような、ミエミエの「割引値付け」を嫌うせいだろうか。
 バーゲンセールではない、という心理が働くのか。
 「買って'ク'労する」ということか。

 「8:八」というのが好まれるようだ。
 「買って末広がり」という、気分になるのかもしれない。


 学問としての「マーケテイング」は発達している。
 だが、実際の場での消費者心理の読みは「最低レベル」と思うのだが。
 それでも、やっていけるほどに安穏な社会だということかもしれない。
 学問やテクニカルが泣いてしまう。

 でもこれは勝手な思い込みということもありうる。
 末端数字「9」という方が購買意欲を誘う心理が旺盛な文化ということもかもしれない。

 「8」だとどうも「生ぬるく」、シャキットしないという言葉を聞いたことがある。
 文化背景の違いかもしれない。




● ガソリン価格 
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 これは昨今話題のガソリンの価格。
 どうみるかというと下の方の黄色い帯に「Unleaded:無鉛」とあります。
 これが無鉛ガソリンで、通常のガソリン価格です。
 「139.9」とは「139.9セント」です。
 リッター「139.9円」です。

 なを、下の「168.9」はデイーゼルの価格です。
 日本では産業保護のために法律的にデーゼルの方を安くしていますが、こちらでは区別を設けないため、みな一律同率の税対象になり、結果としてデーゼルが高くなっています。

 ウールワース(Woolworths)というショッピングセンターで30ドル(3千円)買い物をすると、「4セント割引券」をくれます。
 これを使うと「135.9円」で買えます、ということになります。
 「石油枯渇」でも書きましたが、ガソリン価格高騰のこの折、この手の「4セントサービス」はすべてのショッピングセンターで行われており、このサービスのないショッピングセンターは立ち行かなくなっています。
 ちなみに、素朴な疑問としてなぜ切りのいい「5セント」にしないのかという問が出るのだが。
 おそらく、サービスというものの「消費者からの視点」が欠けているのだろう、と思っているのだが。

 ところでこの価格ですが、「139.9円」です。

 日本のガソリン価格の詳細はしりませんが、「169.9円」というのはないのではないでしょうか。
 「170円」ですよね。
 でなければ「169円」
 「169.9円」を日本語でいうと「169円90銭」
 ちゃんと円の下に「銭」という単位があるにもかかわらず、価格表示では「銭」代は使わない。

 「139.9」は「139.9セント」
 セント以下の貨幣単位はない。
 よって小数点以下は「ポイント9セント」になる。

 小数点以下の表現があるのにもかかわらず日本では、その単位の価格は使われていない。
 逆に表現のないところで、その価格表示がある。
 この「0.1セント」の違いとはどれほどのものなのだろうか。
 ガソリンタンクの大きさは車種別で違うので一律とはいかないが、中型で60リッターくらいだろう。
 半分になったところで給油し、30リッターいれて、たったの「3円」である。

 昔は1セントと2セントの銅貨があった。
 でも今は5セント貨が最小単位となり、そのコインは廃棄されている。
 3セントは切り上げで「5セント」になる。
 とすると、2セント分損することになる。
 差し引き「1セント」の得になる。
 1セントとは「1円」である。
 たった1円の儲けにしかならない。

 小数点以下の「0.9円」という価格は無意味に近い。
 なら「1円」の方が計算しやすく、分かり易い。
 1セントコイン、2セントコインを廃止したにもかかわらず、ガソリンの値段に「0.9セント」を使っている。
 なんという、アホらしさ。

 単なる数字のマジックで、「ヒューマンな発想」がまるでみあたらない。
 つまり値段という「数字だけで考えている」
 「人がどうする」、「人がなにを」という視点がまるで欠けている。
 その程度の文化ということだろうか。

 実際、この「0.9」というのは見た目だけの安さであり、ガソリンを入れたときひじょうに分かり難くなる。

 なんとなくスコーシ儲かったという雰囲気は残るが、多くの問題を残す。
 何しろ、ユーザー側では計算がしにくい。
 全体価格を把握し難い。
 販売側では、看板が一つ増え、レジスターも単位を増やさないといけない。
 事務員が計算できる範囲を超えて、レジスターに頼るしかなくなる。
 トータル的にはおそらく、損失はこちらの方が大きいのではないだろうか。


 日本の価格設定は、担当者が頭のなかで計算できる価格か、あるいは概略をつかめる価格設定にしている。
 そうすることにより、機械にたよらず、自己の脳ミソを使って間違いを減らすことができるようになっている。
 それがボケ防止、脳ミソの訓練にもなり、思考回路の開発につながり、数学的レベルの向上にも繋がる。

 もちろん、1万円台で「銭」を表示する「日経平均株価」のような出来損ないもあるのだが。
 ちなみに、日本の平均株価をここで表示するときは「¥12,345」で、「¥12,345.67」といった哀れな表示はしない。
 日本の表示は「バカの壁」といったものに近いのかもしれない。


 こちらの価格設定は普通人が把握できる有効数字という概念から離れた、人間をじゃまもの扱いした「計算に弱いバカ製造機」を目指す設定のように見受けられてならない。

 数字計算は人間がやってはならない。
 なぜならミスを犯すから。
 もともと、人間は数字計算をするようには生まれついていない。
 これは全面的に機械にやらせるべき仕事である。
 そんな信念に基づいているように思える。
 これまでは、やむ得ずやってきたのだ。
 技術の発達した現代では、その本来の命題を達成すべきである。
 それが、神が人に与えし使命。

 これでは、経済的損失よりも「人的損失」のほうが、はるかにおおきい。
 文化とは「人をどう有効化するか」ということではないだろうか。
 「人を開発」することではないだろうか。
 他人の国だから、文句をいってもはじまらないが、「もったいない」ような気がする。

 日本のように過剰人口なら、より頭のいいヤツを引っ張ってくればいい。
 それが出来る国だ。
 それほどに人が余っていく国だ。
 頭のいいヤツはいくらでもいる。
 でもここは人手がない国だ。
 「人が欲しい国」だ。
 誰もがみな、そこそこ優秀になってくれなければ困るのだ。
 なにかボタンを掛け違っているような気がしてならない。

 「人間の思考にやさしい文化」に移行すべきだと思うのだが。
 いくら発展発達したとはいえ、「あまり機械に頼りすぎる」というのは、どうだろうか。




【☆☆
  補稿 ☆☆
 先日、飛行場へ行った。
 その途中に「ゲートウエイ・ブリッジ」という有料橋がある。
 確か、今年のはじめは「$2.60」だったと思う。
 値上がりしたという話は聞いていた。
 ということは"3ドル"ということであろう。


● 「2ドル90セント」の料金投入バスケット
 <クリックすると大きくなります>

 ところが、「2ドル90セント」

 ユ-ザー軽視もはなはだしい。
 ガソリンの「0.9セント」は、まあローカルな問題だが、これは国道にかかっている橋の料金である。
 有料橋を使うのは便利だからである。
 この値段が「便利だろうか?」

 「不便のきわみ」と思えてならない。
 3ドルなら2ドルと1ドルのコインを用意すればいい。
 あるいは、日本風にやるなら1ドルコイン3枚用意すればいい。
 シンプルで分かりやすくていい。
 2ドル90となると、どうなる。
 これじゃ何処の誰だって、頭を悩ます。
 オートマチックでコインをバスケットに投入すると、ゲートが開くシステムだ。
 3ドル入れてもいいが、でもお釣りは出てこない。
 なんとなくシャクにさわるから、2ドル90ですませたい。

 2ドル60セントから1割の値上げなら、当然この値段になる。
 役所の発想ならこれでいい、文句は言わない。
 でも、それを利用するのは、ごくごく当たり前の市民だ。
 「公共施設の値づけ」というのは、ただ数字で「1割アップです」、では納まらないだろう。
 サイフの中をあけて、2ドル90セントを探しだす責務を負っているのは一般人である。
 まず、はじめに利用者の利便を考えるべきではないのか。

 なにしろ、国際飛行場に通じる道だ。
 利用者の誰もが地元民ではないのだ。
 異民族、他民族、国籍の違う人種、老若男女人などさまざまいろいろ混じっている。

 料金所の前でドライバーがパニックにくって、財布の中や車のボックスをひっくり返している。
 なんとか、コインを探し当てるまで、後ろには延々の車の列。
 初歩のマーケテイングだろうが。
 少しは使う側の身になって考えてくれ、といいたい。

 どこにもあるもののようです、身勝手な公共の壁が。

 「少しは、頭を使えよな」、と怒鳴ってもあながち悪意にとられることもあるまい。
 頭を使わなくても、過小人口と豊かな資源でのんびりやっていかれる国だ。
 頭などアサッテにおいておいても何とかなる。
 確かにそういう国だが、でもなんとなく、スッキリしない。

 なぜに、そんな国民に無理強いをする。
 列が長くなっても、誰も怒鳴りはしいない。
 じっと、ガマンできる人種だ。 
 でも、やっぱり便利なほうがいいだろう、「と、思うのだが」。

 「人間にやさしい文化に移行すべきだと思うのだが」と、書いたが。
 いくら発展発達したとはいえ、「あまり人間に頼りすぎる」というのは、どうだろうか。
 結論が逆になってしまった。

 確かにこの国、肉体的には人間に優しい文化をもっている。
 その結果は、デブ製造国ナンバースリーに入ってしまった。
 でも頭の使い道になると、「まるでダメ」
 「脳みそに優しい文化」などできるわけがない。

 ここにいるとだんだん、自分の日本人的発想に自信がなくなってくる。
 全体を見渡す視野が失われてくる。
 これでも結構、がんばっているのだが。
 「朱に交われば、赤くなる」というやつかもしれない。
 慣れとは恐ろしいもの、そうならないように気を使っているのだが。



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2008年9月1日月曜日

「日本沈没」2:「復活の日」は


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「日本沈没」2:「復活の日」は
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 今回「日本沈没」を読んで、一番印象に残ったのは、7千万人という日本人が世界に別れて暮らすことになるということである。
 それはいい。
 問題は「日本がない」ということである。

 「国土」がない、ということである。
 ユダヤの民は国を失って世界を放浪した。
 しかし、地面はあった。
 ただ、歴史的宗教的に異なる民族が支配していただけ。
 「いつか帰れる」だろうという、精神的支柱が人を確固たるものにしいえた。
 それが結束を固めた。
 ふるさとはある、でも帰れない。
 人間、辛苦のときの方が力を発揮できる。
 「ふるさとは遠くにありて想うもの、そして哀しく詩うもの」

 日本沈没が発生すれば、地面それ自体がない。
 「地面がない」
 「ふるさとはない」
 そんなことがありえたら。

 そうしたとき人々はどういう精神状態になり、どういう行動をとるのだろう。
 私は海外に暮らしている。
 でも日本はある。
 日本の地面は海の向こうだがある。
 これが「ない」となったら、どうなるのか。


 日本沈没(下)「エピローグ 竜の死」から抜書きしてみます。


 本当をいえば…私は日本人全部にこう叫び、訴えたかったのです。
 みんな、日本が…私たちのこの島が、国土が…破壊され、沈み、ほろびるのだ。
 日本人はみんな、おれたちの愛するこの島といっしょに死んでくれ。
 今でも、そうやったらよかった、と思うことがあります。
 なぜといって…海外へ逃れて、これから日本人が…味わわねばならない、辛酸のことを考えると…


 日本人は、「人間だけが日本人」というわけではありません。
 日本人というものは…この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村や、先人の住み残した遺跡と一体なんです。
 日本人と、富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。
 このデリケートな自然が、…島が…破壊され、消え失せてしまえば…もう、日本人というものはなくなるのです。


 気候的にも地形的にも、こんなに豊かな変化に富み、こんなデリケートな自然をはぐくみ、その中に生きる人間が、こんなにラッキーな歴史を経てきた島、というのは世界じゅう探しても、ほかになかった。
 何よりも…この島が死ぬとき…私が傍でみとってやらなければ…最後の最後まで、傍についてやらなければ…いったい、誰がみとってやるのです。
 この島が滅びるときに、この私がいてやらなければ…ほかに誰が…


 日本人はな…これから苦労するよ…。
 この四つの島があるかぎり…帰る"家"があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれている、おふくろがいたのじゃからな。
 だが、世界の中には、こんな幸福な、温かい家を持ち続けた国民は、そう多くない。
 何千年の歴史を通じて、流亡を続け、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかねばならなかった民族は山ほどおる…。
 生きて逃れたたくさんの日本民族はな…これからが試練じゃ…家は沈み、橋は焼かれた…。
 外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、渡っていかねばならん…。
 いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん…。
 これからは…帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧で何もわからん民族と立ちあって…外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか…それもええと思うよ。


 それとも…未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の"おとな民族"に大きく育っていけるか…日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな"国"ぐらいつくるじゃろうが、辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の"冷たさ"に対する愚痴や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族になりさがるか…これからが賭けじゃ…


 日本沈没では天皇家はスイスに避難したという。
 おそらく、そこで臨時日本政府が発足することになるであろう。
 だが、帰る地面がないということは、亡命政府ではない。
 とすれば、そもそも国なるものが成立しうるのかという根源的な問題に直面してしまうのではないだろうか。
 文化・民族なるものも存在しうるものだろうか。

 世界のどの国が地面を分けてくれるであろうか。

 「理解できない」民族である中国とロシアはまずだめ。
 ヨーロッパ、アフリカは満杯。
 可能性のあるのは、モンゴルとオーストラリアとアメリカ。
 でも政権を作ることは許されないだろう。

 モンゴル自体はいいにしても、危険を感じる中国・ロシアの圧力で難しくなるだろう。
 オーストラリアは単一島国であるため、そこに別の国が樹立されることは許可しないだろう。

 残るはアメリカで、アラスカの一部に四国くらいの土地を借りて、臨時政権を作ることになるか。
 四国はベルギーの6割ほどの大きさ。
 アラスカはアメリカがロシアから譲りうけた飛び地。
 同じようなプロセスで僅かばかりを譲ってくれるかもしれない。
 アメリカはイギリスから渡ってきた連中が立てた国なので、受け入れるのにアレルギーが最も少ない国であろう。

 人口は四国くらいの土地では、1千万人ぐらいでリミットか。
 今の四国は400万人、とすると2.5倍、そのくらいで満杯であろう。
 仮に、1千万人が暮らしたとしても、日本文化なるものが保持できるのか。
 日本文化は環境に依存した文化である。
 日本列島という環境が生み出した文化である。
 ヨーロッパ文明のような論理文化ではない。
 とすれば、環境を失った日本文化なるものは、そこで急速に滅亡していく。
 そして、周囲に見合った一千万人型「寒冷式アラスカ風日本文化」が作られていくことになるだろう。

 他の6千万人はそれぞれの土地で、同化していくことになる。
 とすると、その6千万人にとって、アラスカ風の日本文化は、自分たちの文化ではなくなる。

 以前に「ルーツ」という映画があった。
 アフリカ系アメリカ人が自分のルーツを求めてアフリカを旅するものである。
 アフリカ系アメリカ人はアメリカ人であってアフリカ人ではない。
 民族の起源を一緒にするだけで、別種の民といっていい。
 それと同じでおそらく、時とともに日本文化は消えていく。

 アラスカの地面の少々を分けてもらえなかったらどうなるだろう。
 日本文化は歴史の彼方に沈んでいくだろう。
 「歴史から消えた文化」となるだろう。
 おそらく、ここを除いたら、世界のどこにも国を作れる地面はない。

 国を作ったとしても、寒冷式アラスカ風日本文化もまた、本来の日本文化ではないだろう。
 一千万の文化であり、民族の本源文化ではない。
 民族は祖先の生物的血のつながりでだけで、文化は急速に消滅する。

 日本については、未来の図書館で「消えた文化と民族」というコーナーで知るだけのものになるのではないだろうか。


 海外で生活するということは、「日本沈没」があったらどうなるのか、もしそうなったらどういう行動をとるべきが一番ふさわしいのか、あるいは実際にどういう行動をとる可能性が高いのか、ということを考えてみるチャンスが与えられているということである。
 日本に住んでいるかぎり、日本沈没はSFでいい。
 それ以上は進まない。
 進んでしまったら、日本はなくなる。

 でも日本の外にいるものは、一歩踏み込んで「もし、そうなったら自分は」という問を持つことになる。
 さらに突き詰めれば、日本人とは、日本文化とは何か、ということを自分自身に問うてみなければならないということになる。

 日本人は「群れない民族」である。
 ヨーロッパ系で群れる民族はイタリア人。
 レストランで大勢の人が集まり、ワイワイガヤガヤ迷惑この上もないのが、それはどこでもあるイタリアレストランでのごく当たり前の風景。
 アジア系でネットワークがしっかりしているのは中国人と韓国人。
 日本人同士の横のつながりは、ひじょうに希薄である。
 「コロニー」を作らない民族である。
 同じ企業に勤めるというファクターがない限り、他人は他人で限りなく個人主義である。
 よって、環境に同化しやすいという特徴をもつことになる。

 中国人や韓国人は血に付帯する民族である。
 よって、単純明解にして、何処にいこう、何処にいようとこの仕組みは機能する。
 どこへいこうと、中国人であり、韓国人である。
 国土を離れても、消えてなくなるものではない。
 ために、国を離れることにためらいはない。
 それが華僑を生んだ。
 韓国人は海外に出て、高等教育を受け、そこで職を得ることを望み、その多くが帰国しないという。
 日本と中国の狭間にあるという地政学からいけば、おそらく海外に出られた人にとっては、そこに居残ることは最良の選択であることは間違いない。
 海外の韓国コロニーで生活できれば、これに優るものはない。
 なまじの祖国へ戻るよりも賢い、と言って過言ではない。

 ただ、血のつながりも欠点はある。
 どちらもそのつながりにおいてのみであり、血が繋がっていない人との連帯が脆くなる。
 時に民族的連帯感か血脈的連帯感かという瀬戸際に立つこともある。

 日本人は「遠くの親戚より、近くの他人」というように、血のつながりが紐帯機能を成しえなくなったとき、集団を維持していくためのはどうしても「精神的協調性」を優先せざるをえない。
 でないと、分解してしまう。

 海外に出ると日本人はその協調性が希薄になり、個々ばらばらになる。
 「中国人は一人なら優秀である、日本人はひ弱である。でも三人になったら中国人はてんでんになり、日本人は団結する」
 これはよく言われることである。
 なら、海外ではどうか。
 まず、日本民族の団結というのは、期待しえない。
 「日本人コロニー」は存在しえない。
 しかし、枠組みを定められた小集団であれば日本人の結束力は強い。
 目的意識をもった場合の日本人の協調性は群を抜く。
 それは「近くの他人」意識のなせるワザであると思える。
 血の繋がらない中国人の三人集団より、近くの他人の三人の日本人集団の方が連帯性が高くなる。

 どうも日本人は土地というもに付帯する民族のようである。
 日本文化の担い手であった武士とは農地からの税で生活する階級である。
 その生活権を護るために、「家」が基準をなす。
 後を継ぐものがなければ、養子を迎える。
 血のつながりは切れる。
 血は切れてもいい、家が継続することが何よりも大切なことである。
 血は生物である、家は文化である。
 よって、日本国土が文化の担い手になってしまう。

 日本人はあまりにも作られた文化の中にいる、といっていい。
 家こそが、日本という国土が生んだ特殊文化だといえる。
 日本人は「ふるさと」を追い求める。
 そして、海外に出た人たちは、老いたら帰ることをあたりまえに考えている。
 それが文化である。
 血は本源的なものである。
 海外に生活するからといって、血のつながりは消えはしない。
 しかし、文化はそれを作った環境を求める。

 一世では日本文化はその人の行動基準としてある。
 でもその子の代では、さほど真剣にはならないだろう。
 とすれば、環境に依存する日本文化は急速に影を薄くしていく。
 血を基準にするなら、その上に作られたものは消えはしない。
 だが、環境で作られた文化は、孫あたりでは地元に同化して、ルーツなどまるで気に留めることもなくなるだろう。
 コロニーとして留まることはないだろう。

 つまり、日本の国とは「地面」あっての国であり、「環境」あっての文化だということ。
 地面がないと脆いのが日本人ということである。
 そういう、あまりに「環境に依存した文化」であること。
 日本人が作ったのではなく、環境がつくり、それを偶然そこにいた民族が享受したということである。
 豊かな自然に育まれた「贅沢な民族」だったということもできる。

 もし7千万人が世界に分散したら、おそらく百年で日本人は地元に同化して、「日本文化」は忘れ去られるのではないだろうか、ということである。
 「コロニー」を作らない性格とは、本家本元の「日本の地面」が消滅したときは、日本民族なるものが「消滅の方向づけ」を受ける民族ということになる。

 アフリカ系アメリカ人のような存在に近くなるのではないかと思えるのだが。


★ deep_science|未来人 Vol.1 小松左京- 8月5日
http://www.deepscience.miraikan.jst.go.jp/miraijin/01/




【〇〇〇】
 「日本沈没」を読んで早速書いたのがこの稿。

 ところが、公開するにあたり、小松左京を調べていたら、なんとなんと「日本沈没 第二部」が2006年8月にすでに発表されていた。
 これはちょうど2年前になる。
 まるでまるで知らなかった。


★ 終わらない「日本沈没」 小松左京さん、共著で第2部
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20060801bk03.htm

 国土喪失から25年、日本人は世界に難民として分住しながら、高い科学技術や政府組織を維持していた。
 第一部で科学者だった中田首相は、日本の沈む海に人工の浮島を置き、東アジアの政治的緊張の中で「領土回復」を狙う……。

 第一部のプレート・テクトニクスに代わり、SFとしての核となるのは、寒冷化による人類滅亡の危機。
 火山の噴火という地球の変化で、氷河期が起きうることへの警告は、小松さんが第二部の準備として取材したことが生かされたものだ。

 一方、日本人論としては、国土を失っても、その誇りを継承させようとする中田首相の愛国主義と、世界と共存するコスモポリタニズムを主張する鳥飼外相の対立が焦点となる。
 谷さんは、「僕の考えを中田首相に、過去の著作などから学んだ小松さんの考えを鳥飼外相に代弁させてみた」という。
 人類のために、日本人はどんな貢献ができるかという問いかけは、今日の世界にも重なる。

 「第一部が著名なだけに、へたなことは出来ない。しんどい仕事だった」と振り返る谷さんに対し、小松さんは、「青年海外協力隊などで6年の海外経験のある谷君だから、難民となった日本人の境遇にリアリティーが出た。文学性も高く、満足している」と太鼓判を押す。
 第一部で別れた恋人の再会場面では、涙ぐみそうになったという。

 小松さんは「地球人が宇宙人になりうるかをテーマとした第三部も考えている」と語る。
 日本から世界、そして宇宙へ。
 未曽有の危機を乗り越えるドラマは引き継がれていく。


 上の解説によると、日本の海に人口の浮島をおいて政権を樹立するという。
 なるほど。
 アラスカなんぞではなかった。
 でも、浮島とはどれほどの面積を持つのだろう。
 どれほどの人口を抱えているのであろうか。
 是非とも第二部を読みたいものである。

 なを、共著の谷甲州であるが、作品としては「遥かなり神々の座」しか読んだことがない。
 その本がいい具合に古本屋の棚にあって、偶然手にとり読む機会に恵まれた。
 そのときにはじめて「甲州」という面白い作者の名前を知った。
 一冊でも読んでいれば、印象がもてる。





【〇〇〇】
 「日本沈没」のウエブサイト

★ 「日本沈没」鑑賞対策本部
  シナリオステーション開業6周年記念企画
────────────────────────────
  【D-1 原作復旧本部】
http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd1.html

■ 「日本沈没」、その先にあるもの ■
 <日本沈没>の末尾には<第一部・完>と記されている。

 左京氏いわく
 <日本沈没>は<未完の架空譚>の前章。

 続編である<第二部・日本漂流>においてはその後の日本民族が世界で流浪する姿を克明に著す構想が挙げられ舞台となるオーストラリア、南米、アイスランドなどの取材もすでに終え<異常気象><歴史と文化の旅><遠い島遠い大陸>と習作を刊行しているのであるが、メインステージである<日本漂流>においてはその悲観すぎる内容からすでに書き始めていた120枚に及ぶ原稿を総て破棄したという-----。
 ぜひ、存命中の完成を祈りたい!
 
 しかし。
 その片鱗として別作では、そのヒントとなる要素が随所にある。
 一時期、左京氏は、沈没後の日本民族のモデルケースとして、<日本アパッチ族>の中で語られている漂流民族を指摘していたが、<日本漂流>の執筆構想が現実化した際に抹消されたという。

 この他に、<果てしなき流れの果てに>においては、星間移住民である日本民族が、プラットホームにおいて、<君が代>を謳っているシーンがあるが、その解説として数百年前に母国が海面下に没した流浪民だという説明がなされている。
 この事から、沈没後の日本国民は宇宙空間にまで赴き、ひたすら彷徨い続けている事が窺える。

- 追 記 -
 小松左京氏が<未完の架空譚>と称していた<日本沈没続編>が
 2006年7月8日、初版発行された。
 名は<日本沈没 第2部>(小学館/¥1,890)


 なを、この
”「日本沈没」鑑賞対策本部”には下記の項目があります。

 【D-1  : 原作復旧本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd1.html
 【D-2   :前兆検出本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd2.html
 【D-3   :人名救助本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd3.html
 【D-4   :初回観測本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd4.html
 【D-end: 第二部書評本部】http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncdend.html





【Top Page】





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