2008年9月26日金曜日

文化発信大国日本2:クール・ジャパン


● 古武道:和弓練習


 文化発信大国日本2:クール・ジャパン
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 クール・ジャパンについては肯定的にとらえる人、否定的にとらえる人、それぞれさまざまである。


 調べてみると、Wikipediaには「クール・ジャパン」の項目はない。
 また「国民総魅力指数:グロス・ナショナル・クール 」も編集中と出てきます。
 「クール・ブリタニア」の稿に下記の内容がありました。


★ クール・ブリタニア Wikipedia
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 日本へのクール・ブリタニアの影響

 アメリカのジャーナリスト、ダグラス・マグレイが外交問題専門誌フォーリン・ポリシーに『日本のグロス・ナショナル・クール(Japan's Gross National Cool)』を掲載し、日本国内でも話題になった。

 彼によれば、日本の経済はバブル崩壊後挫折していたが、アニメや漫画、キャラクター・グッズなどそのポップカルチャーは世界に広がっており、日本は経済指標(GNPなど)では計測できないソフト・パワーを発揮している。

 ソフト・パワーをもとにした世界の質的変化は国民総生産ならぬ「国民総クール」というような指数で考えるべきであり、日本はその点でアメリカも無視できない力を持つ、という。

 ただし、日本のポップカルチャーの理論化や世界への英語での発信などの不足、そして国家ブランド戦略の不在によりポップカルチャーの広がりには障害があり、また日本自体のブランドイメージは貧困なままであると述べている(一般的な日本のイメージは、相変わらず「抑圧的・画一的・閉鎖的・男性優位」など実際の日本とはかけ離れた姿であろう)。

 こうして日本も遅ればせながら「クール・ブリタニア」に学び「クール・ジャパン(ジャパン・クール)」を作ろうという動きがあるが、ブレア政権ほどの内閣による国家戦略化や、大胆な施策の実施には遠いものがある。



 クール[cool]には「魅力」という訳語が採用されている。
 つまり、日本文化は「魅力的」ということである。
 その魅力がグローバル、すなわちどの国でも客観的に評価されうるかである。

 また、「カッコイイ:格好いい」という訳語も使われており、「カッコイイ・ニッポン」という表現になるが、ちょっと俗っぽいことは否めない。
 なんらかの魅力があるので、カッコイイということであろうと思う。

 アメリカ西部劇は一世を風靡した。
 日本でもローハイドからララミー牧場まで、さまざまなテレビ西部劇が放映された。
 でも今は影も形もない。
 なら、西部劇はつまらなかったか。
 いや、十分に「魅力的であった」といっていいだろう。
 もちろん、「カッコよかった」
 その時代に間違いなく、インパクトを与えたと思う。

 西部劇のウラには「アメリカが魅力的か」という問が含まれている。

 正義と悪の単純な図式において、正義をアメリカが表現し、西部劇という形をとっている。
 「正義が勝つ」、それが西部劇の魅力としてあった。
 が、アメリカが正義でないと分かったとき、西部劇も瞬く間に没落してしまう。

 現今においては、正悪の判断などほとんど無価値になっている。
 というのは、誰もどれが正しく、どれが間違っているかなど判断できなくなっているからだ。
 一つのことも、表からみるのと、横から裏からみるのとでは異なって当然ということになっている。

 「世に真実はない」というのが現在であり、ただ各々の立場で裁断を下しているにすぎないことを誰もが知ってしまっている。

 クール・ジャパンがありえるとすれば、国のトータルが、すなわち「日本という文化」そのものが客観的に魅力的かという問が含まれているような感じがする。
 ただ、その国に培われた文化のすべてが外国の人々にとって魅力的なわけはない。
 その一部にでも、ひきつけるものがあるか、ということであろうと思う。


 十年前、寿司は「ヤーク」といって嫌われた。

 シーウイード(海苔)が嫌われたのだ。
 あの真っ黒いものを使って、かつ、それを食すること、この不潔感が「ヤーク:汚らしい」という表現に現れていた。
 海苔巻きを出すと、となりの人からイヤな顔をされたのは、本当にたった十年ほど前のことである。

 それが、今では大きなショッピングセンターには、必ずといっていいほど海苔巻き屋さんが出店している。
 プラスチックの箱に入ったノリマキを出してきては、醤油をつけて、若い人たちが食べている。
 しかし老人は、わずかな人を除いて、ほとんどといっていいほど手を出さない。

 もちろん、いまでも「生魚」は嫌われている。
 日本の寿司など、いくら能書きを束ねても浸透などしない。
 こちらの人が食べられる生魚はわずかにサーモンだけである。
 よって海苔巻きとは、肉であり、加工した魚であり、海老である。
 から揚げであり、野菜であり、果物である。
 果物ですらノリマキになる。

 外国の料理も巻いてしまう。
 キムチを巻いて「キムチ巻き」、中華の春巻きを巻いて「スプリングロール巻き」、イタリアンスパゲテイを巻いて「スパゲテイ巻き」。
 まず、巻けないものはないくらい。

 サーモンを除く生魚以外の食べられるものなら、何でもゴハンを固めた上においてしまうのがスシである。
 形は寿司だが、中身は「創作スシ」である。
 「なにを巻いて、食べさせるか」
 「なにを置いて、食べさせるか」
 つまり、肥満解消という時代的要請に応えて、「肉文化」から「ゴハン文化」への変わり目という歴史に見直されたのが「sushi」である。

 「肉から米へ」
 スシとは食生活の変化、すなわち「いかにしてライスを食べるか」その要求にお手軽にマッチしたものである。
 高級料理などという、日本人が優越感に浸れるようなシロモノではない。
 ハンバーグならぬ「ライスバーグ」なのである。

 日本の「寿司」は世界を席巻などしていない。
 世界に出回っているスシとは、寿司モドキ、創作ズシであるが、これこそが、「世界ズシsushi」であり、ライスをいかなる食材ともマッチさせてしまうという、ファーストフード的な最高のコンビニエンスを備えたグローバルな存在なのである。

 日本の寿司とは、「世界ズシ」の一分派、すなわち食材に生魚を使った、「ゲテものズシ」なのである。

 スシとは「ライスの食べ方」なのである。

 冗談を書いているわけではない。
 「日本の寿司」を至上と思いこんでいたら、世界になどに通用しはしないのである。


 もし、クール・ジャパンなるものがあるとしたら、古来の日本文化の輸出であるはずがない。
 古来文化をベースに新たに創作された「新生文化」である。
 それが世界に受け入れられたとき、「クール」になる。
 古来文化の豊かさが、新生文化の「発展の豊かさ」を生んでいるのである。
 その手続きを踏んでこそ「クール」になる。
 古い文化を如何に魅力ある形にして、世界に押し出していくか、それが運動としての「クール・ジャパン」である。


 下記のサイトから抜粋させていただきます。


★ Le Monde(ルモンド抄訳) > 余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C394170269/E382880148/index.html

 分析「クール・ジャパン」日本はポップのスーパーパワー (2003.12.18)
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 経済指標だけでは「社会のダイナミズムは計測できない」。

 大衆文化や人々の行動や時代の雰囲気というものは、収益とか成長率とかの指標では分析できないものだ。
 少なくとも日本に於いては経済指標だけでは、今非常な勢いでもって生まれだしている草の根のエネルギーを把握できない。
 新聞の経済面や政治面を読むと、政治は停滞し景気は少しよくなっているところもあるがまだまだ悪く、社会の不均衡は増大しており世論は不安に満ちている。

 しかし文化面を見ると、日本のライフスタイルや技術進歩は別の見方を与えてくれる。
 創造性に富んだ新製品がどんどん開発され、「前代未聞の状況」だと言うことがわかる。
 このコントラストは新しく日本に到着した外国人を驚かせる。
 「経済危機だって?」 
 大都会の街を歩けば店は消費物資であふれている。

 今日の日本は、たしかに「二つの速度」を持った社会なのだ。

 「発展し豊かに」なりつつある日本と、「停滞し貧乏に」なっていく日本だ。

 特にあらゆる分野に於いて大衆文化の新しい波が怒濤のようにありとあらゆる細々した日常製品に組み込まれているのだ。
 東京や大阪ではこれは驚くばかりで、思いもしないようなへんな商品があふれている。
 アニメ映画、衣裳、グラフィック、音楽、デザインなどは、万華鏡のように新しいライフスタイルの替え方と、行動様式が社会的広がりで融合し合う新しく沸き立つような社会を反映するものだ。
 この12年の不況で日本は巨大な現代的「大衆文化のたまり場」となった。

 こうドナルド・リッキーはその著書「イメージ・ファクトリー」で述べる。
 「概念というより"イメージ"が日本の現代文化を特徴付ける」と。

 「ニッポン大衆文化」は誰もが否応なく接するようなもので、「アクセスのしやすさ」は驚異的。
 あらゆるところに「過剰なほどに存在する」。
 日本列島は今や「イメージの大量生産」という点においてはハリウッドやロンドンを抜いた。

 「アメリカ製ポップは映像の世界に於いてその覇権を失った」と社会学者イワブチ・コーイチ氏は、「ポップの製作に於いてはグローバリゼーションは多元化と多角化を生み出している」と言う。
 西欧諸国に於いてはニッポン大衆文化は「禅」とか「鮨」の言うイメージにとどまっているが、アジアに於いてはこの「非グローバル化」はとりもなおさずアジアに於ける大衆文化の日本かを意味しているのだ。

 このような世界的ブームは既に「利益を生み出している」ことで日本のイメージチェインジに貢献している。

 従来の日本の紋切り型固定観念は「企業戦士」とかセックスと暴力に満ちあふれた漫画とかそういうものだった。
 が、いまやニッポン・ポップは「クール」で「格好いい」のであるとダグラス・マックグレイが「フォーリン・アフェアーズ」に書いた。
 かれはこの現象を表す指標として「グロス・ナショナル・クール:GNC」というGDPにあやかった言葉を工夫した。
 日本のポップ文化は「クール」であるという。
 「皮肉な性格」を持ち「反体制的」でもあるのだ。

 日本では高齢化が進んでいるが、同時に商業的でアングラ的な「若者文化のるつぼ」でもある。
 これにはいろんな要素がある。

 まず第一に、産業構造の第三分類化(サービス化)でライフスタイルや労働価値観が変わったことである。
 「失われた10年」は1960年から1980年にわたって支配的だった「生産性の拘束」を解き放した。
 効用主義やテイラー主義が日本社会を支配していたのであるがその重しが解き放された。

 たしかに日本は金持ちではなくなった。
 金持ちでないので「より創造性」が求められた。
 「日常生活に於いて」スタイリストやデザイナーが「インスピレーションを探す」ようになった。

 第二番目の点は、「文化的な伝統」である。
 まずその「精神」。
 最初に西欧文化に触れた19世紀以来日本は素晴らしい折衷主義をとって外国文化を取り入れてきた。
 ポストモダンの時代においても、街の建築にはとんでもない東西文化の折衷が見られ、無国籍料理が流行っている。
 日本には「精神文化的タブーが無い」ので遊び心と技術を結びつけることが出来るのだ。
 日常製品について技術製品にイマジネーションを結びつけるやり方は、社会学者のクリスティーン・コンドミナスが携帯電話器への装飾品文化について書いているとおりである。
 
 最後に第三の点は、この「数世紀」にわたって存在した「日本の遊び心」である。
 生産性優先主義のために一時期押さえつけられていたのであるが、現在このポップ・カルチャーとして花開いたとも言える。

 このニッポン・ポップの世界的流行は、日本の従来からの牢固たる伝統的イメージ、つまり「生産性と同質性」という固定観念を修正することになろう。
 これは現代の歴史家達が修正しようと努力していることでもある。

 日本は現実には、文化は花開く、「多元的で多様」な、「変幻自在な社会」なのである。
 これが人を「日本列島に引きつける」こととなる。

 アジアの若者達がニッポン・ポップに熱狂することに植民地時代の傷跡をまだ持っているアジアの熟年世代は目をひそめるが、世代の断絶がある。



 前稿の朝鮮日報の締めはこういう言葉で終わっています。


 無形の国家魅力と文化的価値で金を稼ぐポスト・モダン経済に転換した。
 その動因は何っだたのか。

 日本での取材中に出会った雑誌『BRUTUS(ブルータス)』の芝崎信明副編集長が、この点を簡単に整理してくれた。

 "失われた10年”の長期不況が、日本文化を「強く鍛えた」。
 好況だったとき、日本は金の力で文化を買った。
 しかし今は、バブルが弾けて「金がない」。
 「金で買えない」なら、「日本自身がクールになるしか…」


 ということは、金がないので
 「日本が日本自身を、魅力的に作り変えた」
ということになる。

 続いてもう一つ。
 ということは
 「日本自身が、魅力的に作りかえるネタを持っていた」
ということになる。

 それが Le Monde のいう「文化的な伝統」と「精神文化的タブーの無さ」、そして「日本の遊び心」なのだろうか。

 「金がない」すなわち、ビンボーが「クール:魅力」を作り出したのであろうか。
 それとも「ビンボー」の哀れなさびしさが、「クール:かっこいい」に写ったのであろうか。


 サイトから抜粋させていただきます。

★ クールジャパンの本質 2008.07.22
http://plaza.rakuten.co.jp/manilabangkokhcm/diary/200807220000/
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 [ 日本文化 ]

 最近言われている(?)のが、日本は3度目の世界制覇チャレンジを行っているということです。

 一度目は軍事力で。
 でもこれは世界制覇なんて軍部も望んでいなかったことですから過大評価ってところですか。
 技術力なんて、例えばゼロ戦とか大和なんて、基礎技術力が足かせとなって設計の脚をひっぱりましたから。
 その中であれだけの工業技術品を作り出した戦前の方々は凄かったと思います。
 もちろん工作機械の不備を職人技で補ったのが戦後の復興の基礎になったことは確かですが。

 二度目は経済力で。
 ジャパンアズナンバーワンなんて言われた頃が懐かしいですね。
 リゲインのCMとか、24時間戦えますか~。
 ってなもんで。
 そのころは技術力は認められていたのですが、相対的に労働者の献身の元で安価な製品を大量に世界中に輸出。
 国内は規制に守られるってなことで札束で世界を制覇する戦略は非常に反感を生み、特に反日クリントン元大統領政権の理不尽な政策により潰されてしまいました(第二の敗戦)。

 そして3度目。
 文化力での覇権チャレンジです。

 今度はアニメ、漫画、カラオケを筆頭としたサブカルチャーをスタートとして、ファッション、食事、観光、歴史、先端技術、環境など。

 驚くほど世界中で「日本文化が発信」されています。
 「色々な言語で」です。
 私は英語くらいしか外国語はまともに読めませんが、妻(ベトナム人)の話を聞いても日本の文化はベトナムに溶け込みつつあります(アニメ、日本食、電化製品、車、バイクはもとより、盆栽なんてのもベトナム人に好まれています)。

 私が長期出張をしていたフィリピンでは、2000年前後はボルテスファイブが大人気で、視聴率は大変なものだったようです。
 工場で女の子たちがボルテスファイブの主題歌を歌っていたりしました。
 この「文化での世界制覇」は順調に進んでいるようです。

 まあ、世界制覇なんてのは冗談ですが、日本文化がいろいろな分野でいろいろな場所でみることが出来るのは嬉しいことです。

 そしてその根本が、「日本人の凝り性」だと思うのです。

 何故か突き詰めなくては気がすまないという国民性が工業製品では製品の品質と性能の高さにつながりますし、アニメでは薄給に負けない人たちの作品が生まれ、ファッションでは、、、これは私にはわかりません。



● 和楽器:演奏会


 メインタイトルは「文化発信大国日本」なのですが、書こうと思ったときのサブタイトルは
 
「文化発信大国日本:過剰発信の危険性」
というものでした。


 「日本は文化を発信し過ぎている

 警戒レベルにある。
 これ以上の発信は危険で、「抑制すべきだ」、というものでした。
 でないと、異文化社会から世界中から「文化バッシング」される、といった内容の予定でした。
 ちょうど、日本の経済進出が「ジャパン・バッシング」を招いたように。

 「経済の次は文化だ、気をつけろ

 打たれ強くなっていますから、大丈夫だとは思うのですが。
 
まあ、行くところまで行くしかないかな、と感じているところです。
 なるようにしかならん、とタカはくくっていますが。

 海外に居を構えてしまうと、「やられる」「叩たかれる」ということに非常に敏感になります。
 なにしろこの国、政府国民一致して「日本タタキ」に邁進している。
 「アンチ捕鯨」
 理屈もなにもない。
 ただ「やめろ」だけ。
 そんなところにいると分かるのですね。
 「文化バッシング」というものの持つ雰囲気が。
 「バッシングする」ということに、楽しみを感じているのです。
 日本も同じくらい異常にバッシングが好きな民族ですが。


 書評から。

★ 「クール・ジャパン」もあながち嘘じゃない~『ニッポンの評判』
  今井佐緒里著 新潮新書 (評:三浦天紗子)
  2008年9月9日 投稿者: 日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080909/170009/
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 近ごろ、「クール・ジャパン」という言葉をよく耳にするようになった。

 ジャパン・メイドのアニメやマンガ、アキバ文化が世界的な人気を博し、一おもちゃメーカーの“ニンテンドー”がグローバルに通用する。
 いまや日本発のファッションや料理、アート、文学、建築などさまざまな伝統文化やポップカルチャー、あるいは「Mottainai(もったいない)」といった日本的精神までが、カッコイイものとしてあちこちの国で受け入れられていると聞く。

 では、実際のところどうなのか。
 クール・ジャパンなんて持ち上げられているけれど、所詮、日本びいきのごく一部の人々に、オタク文化の総本山として偏愛されているだけではないのか。
 そんな思いを抱きつつ、本書を手に取った。

 本書の執筆者は、イギリスやフランス、ブラジル、マレーシアなど、世界17の国々に在住、もしくは長期滞在していた経験を持つ日本人18人。
 それぞれの国での日本の評判を、本書の編著者でもある今井佐緒里氏がまとめた形だ。
 評判が届きやすいアメリカ東海岸、中国や韓国はあえて除外し、ニュースなどで頻繁に登場しない国々を多く取り上げたという。

 ちなみに今井氏は、出版社退職後の2001年に渡仏。
 長らく南仏に住み、日本向けにフランスやEUの情報を執筆しているフリーの編集者&ジャーナリストで、これが初めての著作になる。

 さて、本書をひもとくと、クール・ジャパンの触れ込みはあながち嘘でもないようだ。

 ロサンジェルスでは若い世代の会話で、ピチカート・ファイヴやケツメイシ、奈良美智や村上隆の名前がさらっと出てくるし、マレーシアでは1981 年から現在までずっとルック・イースト政策が掲げられ、近代化のモデルケース国家として日本は憧れの眼差しで見られている。
 これまで、国際的にモテないと言われてきた日本男性だが、オーストラリア女性たちからは最近、「日本人男性はファッショナブルで洗練されている」と一目置かれてさえいるらしい。

 1970年代から80年代まで、シンガポールにとって日本は経済発展のお手本だった。
 しかしバブル崩壊後の90年代は、注目を集めていた終身雇用、年功序列の日本式経営そのものはもてはやされなくなり、むしろ下火になる。

 とはいうものの、たとえば解雇を言い渡した従業員の再就職の世話や、その家族の生活のことまで心配するような家族的な温かさが古い日本にはある。
 その“日本式経営の精神”が、シンガポールのビジネス界にじわじわと浸透していったという。


 本を取り寄せて読むというのは、面倒なためほとんどやっていないので、この本読んでいないのですが。
 この中に「奈良美智や村上隆」という個人名があって、はじめて聞く名で、これは誰だろうかと調べてみたのですが、どうもクール・ジャパンの旗手とされている美術家のようです。

 てな程度の知識しかないのに、クール・ジャパンを書いているため、トンチンカンになっているかもしれませんのであしからず。


 言えることは、やはり「日本の文化発信」は度を越していると思います。
 「危険レベル」にあると思います。

 鯨なんぞは無視すればいいのですが、「文化」ともなるとそうはいかなくなる。
 危険というのは、わが身が危険ということでもあります。
 もちろん襲われるといった物理的なことではなく、心理的にという意味です。

 もし、世界中で日本文化の過剰発信に対してバッシングが発生したら、外で暮らすものとして、その「精神的安定感」はいかな形で阻害されていくのだろういう問題です。



 <つづく>



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