2008年9月27日土曜日

文化発信大国日本3:刀を置いたサムライ


●刀を置き、花を手にしたサムライたち:[朝鮮日報]より 
 <クリックすると大きくなります>


 文化発信大国日本3:刀を置いたサムライ
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 街を行くと、さまざまなTシャツに出会う。
 「KOCHI」「KAGOSHIMA」「AKITA」などなど。
 「大阪大学」というのもあった。
 ウー、と声の出ないのもある。
 いわく、

 「御中元」

 そう書かれたTシャツ姿の人に出会ったら、どうします。
 若い美人のお姉さんならもらってもいいが、男ならいらない。

 漢字のイレズミも多い。
 腕か肩。
 だいたい四文字。
 漢字が4文字並ぶとこれは漢詩になる。
 中国は簡字体だから、台湾か日本か。
 漢字の並び方からいくと、日本風ではない。
 ただ、人気のある漢字をならべただけ、ということも考えられる。

 絵柄のTシャツも多い。
 ショッピングセンターで目の離せないTシャツに遭遇した。
 マッチョなオジサンが着ていた。
 袴をつけ、黒タビにぞうり、逆刃刀を下段に構えていた。

 「るろうに剣心」

 次の一撃は「天かける竜の閃き」であろうか(「飛天御剣流」はWikipediaに載っていた、驚き、遊び心か)。
 抜刀術では刀は鞘の中なのだが、それでは絵にならない。
 色彩は実にカラフルである。

 いったい、こういうTシャツ、どこから手に入れるのだろう。
 でもまるで、このオジサンには似合わない。
 腹が出すぎである。

 「地を這うデブの苦悶」である。


● るろうに剣心

 前回の世界剣道選手権の団体優勝は韓国でした。
 まあ、しかたないかな、隣国だもの。
 もちろん準優勝は日本、,,,,,のはずだが。
 ところが違った。
 台湾、,,,,,,,
 でもなかった。
 なら、ドコ。
 それ以外に、「ドコの誰が剣道をやる」

 「アメリカ」

 エエー。
 日本は悲しいかな3位。
 3位はいい、でも剣道でアメリカに負ける、そんなことがあっていいだろうか。
 強いヤツは強い。
 これもいい。
 でも、なぜアメリカが剣道に進出してくるのだ。

 オーストラリアなら許せる。
 なぜ。
 「薙刀:ナギナタ」の世界で始めての「男子有段者」の栄誉を取得したのは、オーストラリアンなのです。

 二十年ほど昔のこと。
 ナギナタを習おうと案内書をとりよせた。
 目に入ってきた文字、「男子禁制」
 しばらくして、新聞にナギナタで男子がはじめて段位を取得したとあった。
 写真も載っていた、オーストラリアン。
 なぜ。
 日本の文化を研究する方に便宜を図ったとある。
 国際文化交流のためといわれれば文句は言えない。

 いくつかの大学の体育会系が海外交流でこちらにきてデモンストレーションをやったことがある。
 もちろん、観にいった。
 お目当てはナギナタと和弓。
 残念なことに和弓はパンフレットには演目としてあったが、街中でやるには危険過ぎると中止になった。
 ナギナタは女子大生。
 はかま姿でしつらえられた簡易舞台上で試合をした。
 五尺ほどのカシのナギナタがぶつかりあう。
 「カチーン、カチーン」、カッコよかった。
 その響きがなんとも胸を打つ。
 やりたかったな、「薙刀」

 かわりに習ったのが和弓。
 「腕を的に向かって伸ばし切れ」
 「肩を落とせ」
 「腕で引くな、肘で引け」
 たった3つの事。

 それをマスターするのに3年かかった。
 でも実際にマスターしたのは上の2つだけ。
 ついに「肘で引く」感触がつかめなかった。
 個人差体質差だろう、できないものはできない。
 悩みぬいた末に、中指をフックにして引くことにした。


■■ 余談 ■■
 これだけでは分からないでしょうから簡単に説明しておきます。
 弓は左手で持ち、これを的に向かって押すのですが、腕が伸び切るように押します。
 例えば、隙間から腕を入れてもう少し伸ばせば落としたモノを拾える、といった経験はしばしばあるでしょう。
 このとき腕首と肘と肩の関節を目一杯伸ばし、「さらに伸ばすと」、掴むことができます。
 伸ばしたものを「さらに伸ばす」というのが左腕の基本になります。
 この感じで左腕の関節を「伸ばして、伸ばして、伸ばし切る」、言い換えると弓を「押して、押して、押し切る」のです。

 弦は親指に引っ掛けて引きます。
 そして、腕では引かずに、肘で引く、これが右腕動作の基本になります。
 腕で引くと肩に力が入る。
 すると肩があがり、矢が安定しなくなるのです。
 この肘で引く感覚がどうにもつかめなかったわけです。 
 肘の後ろにそっと紙を微妙に触れるようにぶら下げてもらうと、その紙を押すように引けるのですが、その感触が消えると、途端に肘で引くことができなくなり、腕本体で引いてしまう。
 いくらやってもダメ。

 このとき中指は弦のかかった親指を包むように添えられています。
 力はかかっていません、ただ添えるだけ。
 弦の力は親指が受けています。
 そこで、まずこの親指をフリーにしました。
 とすれば、弦は親指を押しのけていきます。
 次に中指を弦がかかっている親指の押さえにしたのです。
 そしてこの中指を引くように引いたのです。
 肘で引かずに、手の先端に当たる中指を引いたのです。
 右手の中では、親指は力が抜けてブラブラ、中指が弦に負けないように親指を押さえ込んで踏ん張っている、そんな感じになります。
 これで、何とか形をつけたわけです。

 腕ではなく、指で引いているため、肘で引いているように見える。
 ちなみに、親指で引くと腕で引いたと同じになってしまう。
■■■

 
 私の弓は「右中指で引く」弓なのです。
 邪道です。
 でも、外からは分からない。
 「参段」


● 名前は消してあります

 ここまでは練習でとれる。
 このあとは、「ノメリコミ」がないとまず難しい。


 日本は「青い目のケンゴー」に席巻されている、のか。
 黒袴、黒タビ、草鞋を履き、逆刃刀をさした青い目のケンゴーが日本中を行脚するという。
 「日本の剣豪」はドコへいった。
 座頭市は「金髪」になってしまった。
 サムライはどうした。

 朝鮮日報によれば、「サムライは刀を置いた」という。
 ナヌ!
 「花を手に」しているという。

 「藤娘イメージ」でいこうとしているのか。
 なんとまあ、ナヨナヨしい。
 そこまでナンジャクになったか。

 「だから、日本は嫌われる」
 "?"


 
もう一本、朝鮮日報から抜粋。
 これも著名な記事。


★ 刀を置き、花を手にしたサムライたち 朝鮮日報 2008/05/25
http://www.chosunonline.com/article/20080525000021
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 日本の将来を心配する人がいるが、その必要はなさそうだ。

 「品質ではこれ以上、競争が成り立たない時代」に、日本は「品格」を売り始めた。
 高級イメージ、日本ならではの物を売り、「新しい日本」に向かって疾走している。

 日本経済のパワーは、「全盛期を過ぎた」と言ってもいいだろう。
 高齢化時代に入った日本経済は、「ますます老いていく」可能性が高い。


 韓国新聞の面白さは上の最後の2行に出ている。
 なんとか日本をおとし込めないと、心理的に落ち着かないという感情の枠組みがある。
 このまま日本が豊かで、健やかであることには、生理的にどうにも耐えられないというわけである。
 貶めることによって、やっと安心して、そこからヨイコラショと論理を展開していく。
 この思考のあり方が、読むものにとってはなんともいえずに、愉快なのだ。
 納まりがいいのだ。
 「おお、またやっている」
 初歩の心理学のテキストみたいなものだ。
 そんな気分にさせてくれる。

「 日本は全盛期を過ぎた。
  これからますます、しょぼくれていく日本。
  かわいそうな、ニッポン
  涙なしには未来を語れないニッポン。
  クール・ジャパンとは老人の最後のあがきだ。
  魅力ある日本とは「老成した魅力」なのだ。
  シワシワ文化の魅力なのだ。 」
と。

 
 続けましょう。


◆「クール・ジャパン」
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 しかし、「文化的なパワー」は違う。

 日本は経済力の代わりに「大衆文化のパワー」で世界を魅了している。
 「清潔で、安全で、環境に優しい」というイメージにより、ほかのどの国よりも「強力な国家ブランド」を確立した。
 世界はそんな日本を「エコノミック・アニマル」ではなく「クール・ジャパン(魅力的な日本)」と呼び始めた。
 また、「クール・ジャパン」は日本における「21世紀の国家戦略」でもある。

 「食」は文化の先兵だ。

 キッコーマンの2006年統計によると、世界に日本食レストランは2万4000店あり、毎年急増しているという。
 ブラジル・サンパウロにはシュラスコ(ブラジルのバーベキュー)の店よりも「すしレストラン」のほうが多いというデータもある。
 クモの巣のように張り巡らされた飲食店ネットワークを通じ、日本は文化やライフスタイル、そして国のイメージを売っている。

 昨年、日本産コシヒカリが中国に輸出されて話題を呼んだ。
 値段は中国産米の20倍以上とかなり高価だが、中国の富裕層に人気だ。
 農業にも日本の文化的な価値を与え、輸出戦略産業として育て上げたいと考えているのだ。

 日本のコメ輸出は日本貿易振興機構(ジェトロ)が後押ししている。
 東京・赤坂のジェトロ本部で会ったナガタ・ミキオ輸出促進・農水産部長は、「農業は一種の文化産業」と話す。
 「英語の“農業(agriculture)”には“文化(culture)という言葉が入っているではありませんか。
 食物・食品というものは、その国の歴史や生活様式により確立された文化です。
 わたしたちは食文化を通じ、「日本そのもの」を海外に伝える活動をしているのです」

 ジェトロは貿易摩擦の影響で19年間、輸出促進業務を中断していたが、2003年に再開し、力を入れるようになった。
 興味深いのは、重点輸出産業に掲げた
 (1)コンテンツ
 (2)ファッション・衣類
 (3)デザイン
 (4)農水産・食品
 (5)機械・部品
の5分野のうち、4分野が文化に関係している点だ。

 「わたしたちは今後、"文化的な背景を持つ製品"を輸出しようと考えています。
 かつて日本が得意だった工業製品は、技術力さえあれば生産地がどこであろうと関係ありません。
 でも、文化的背景を持つ製品は、日本で作られたという事実、つまり“メード・イン・ジャパン”であるという事実が重要になってきます」

 日本は、国境がなくなる「脱国家」の時代に逆行し、「日本という国家的要素」を前面に押し出している。
 「日本的なもの」でグローバルな経済戦争を乗り切ろうとしているのだ。


 日本は、国境がなくなる「脱国家」の時代に、「メイド・イン・ジャパン」を前面に押し出し、その終焉を飾ろうとしているのか!
と読み違えてしまったがそうではないらしい。

 「日本的なもの」でグローバルな経済戦争を乗り切ろうとしているのだ、と記者は言う。
 なにか、ヘンに持ち上げられて、背筋がウズウズしてきます。

 『「食」は文化の先兵だ。』と言う。
 そう言われればと思う。
 マックとコカコーラは世界を席巻した。
 アメリカ文化の尖兵であった。

 「ヤング・アメリカン」の象徴でもあった。

 米ソの冷戦がアメリカの勝利に終わり、ソビエトが崩壊して、モスクワにマクドナルドが出店したとき、長い行列ができたという。
 今はどうなっているのだろう。

 しかし、そのヤング・アメリカンが没落しはじめた。
 ソビエトの消滅により、アメリカ一国が超大国になった。
 若さの余勢を駆って、自ら創作した経済ルールを押し付けてきた。
 いわく「金融工学」。
 どこの世界に、金融が「工学」たりうるか。
 FRB(
連邦準備銀行が金利を上下させるだけで、自由に景気をコントロールできるという、妄想に陥った。

 近代経済学の究極理論が金融工学である。
 
 そして、そのウソがウソと分かったとき、当たり前に近代経済学がボロボロになる。
 本体の経済もボロボロ。
 実体理論であるはずの金融工学を信じてマネーゲームに走ったツケがきた。
 「
金融エンジニアリング」という、らしい名前の幻しにお金を掛けた連中がパンクする。
 昔、アワに浮かれていたのと同じ。
 日本がすでに、経験済みのことをアメリカが繰り返した。

 どこにでも「バカの壁」はある。


 金融工学についてWikipediaでみてみます。


 金融工学(きんゆうこうがく、Financial engineering、Computational finance)は、資産運用や取引、リスクヘッジ、リスクマネジメント、投資に関する意思決定などに関わる工学的研究全般を指す。

 金融工学は新しい学問領域であるといわれる。
 これは金融工学が1950年代以降、経済学・会計学・工学・数学など様々な学問領域と接点を持ちながら形成されてきたためである。
 金融工学の中でも画期的な研究としては、1950年代にハリー・マーコウィッツが示した現代ポートフォリオ理論や、1970年代にフィッシャー・ブラックやマイロン・ショールズらによるデリバティブの価格理論、Harrison,Kreps,Pliskaらによる確率同値における無裁定性と均衡などが有名である。

 金融工学におけるプライシング理論は、一物一価の考え方に基づくところである。
 経済学での議論における需要と供給の関係においてアロー・ドブリュー証券の仮定を置くことにより、同時点での将来価値が同値な財は同じ現在価値を持つ、という前提を組み立てる。たとえば、株のコールオプションと債券と株式を保有している投資家は、ポートフォリオの組み合わせによって、瞬間的に超過収益を得ることができない。
 この関係から、3者の価格においては均衡式を得ることができるのである。
 金融工学の理論は、金融実務と密接に結びついており、金融工学理論から得られた算式はプライシング・リスク管理・会計の実務でも広く用いられており、金融工学の発展の背後には、金融実務への適用がある。

 金融経済学(financial economics)や数理ファイナンスを理論的バックグラウンドとして持ち、金融機関が事業活動を通じて取り扱う様々なリスクを計測し、適切に管理することを目的として発展した。

 主な分野として、
  * 投資銀行における企業価値の測定
  * デリバティブ(先物、先渡、オプション)取引
 * 機関投資家の最適投資戦略
 * 不動産担保証券などのプライシング
 * リアルオプション(Real options analysis)によるプロジェクト価値の測定
 * 金融機関のリスクマネジメント
が挙げられる。


 なんてことはない、冷静に読めばすぐに分かること。
 つまり、コンピュータを使い、「リスク」なるものを数式化して組み入れた大容量マネーゲームのやり方。
 そして、いとも簡単にそのリスクに負けてしまった、たわいないシロモノ。

 学問というより『金融バクチの掛け方指南書』


 サイトから抜粋します。

★ 「金融工学」とは何か? ファイナンスと金融工学の間
 (c)祝迫得夫 1999年
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~iwaisako/essays/WhatFE.htm                                          
 英語における“Financial Engineering”は、かなり限定された意味合いを持っている。
 ローが“Financial Engineering”という用語を、あくまで実務家の側(Practitioners)の立場から見て必要な知識、特に数量的なスキルに限定して使っていることからもわかるように、アメリカにおいても“Financial Engineering”という学問分野が成立しているわけではない。
 現時点での“Financial Engineering”は、要約すれば「数量的な側面を重視した目的志向型のファイナンスという学問の実践」というふうに位置付けるのが最も適当であると思われる。
 実際、ロー在籍するMIT含め、幾つかのアメリカの大学が“Financial Engineering”の看板を掲げた修士プログラムを積極的に展開しているものの、Ph.D.プログラムに関しては、どこもさほど積極的ではない。
 また同じ内容に対しても、Financial Engineeringよりは、Mathematical FinanceやComputational Financeといった用語をあてている場合が多い。

 では日本語の「金融工学」はどうだろうか? 
 まず第1に指摘しておかなければならないのは、日本(特に日本の大学)では、しばらく前まで「ファイナンス」という用語が定着しておらず、「金融論」の一部分と見なされていたという点である。
 実際、今でも「ファイナンス」という題名の授業は無い大学の方が多く、「金融論」・「財務管理」等の授業名のもとで、運用上「ファイナンス」の授業をしている場合が多い。
 したがって、古色蒼然たる伝統的「金融論」とは一線を画す学問分野として、現代的な「ファイナンス」に「金融工学」という日本語の造語をあてるというのは、実は良いアイデアであったかもしれない。
 しかし、残念ながら既に「金融工学」の直訳にあたる“Financial Engineering”という英語が存在しており、これは先ほど述べたように「数量的な側面を重視したファイナンスという学問の実践」という色彩を、強く持っている。
 例えば、ノーベル賞学者のマートンやマーコビッツに「あなたは“Financial Engineering”の父だ」と言えば、自分達の業績が現実経済に大きな影響を与えたという意味で、彼らは素直に喜ぶだろう。
 しかし「あなたは素晴らしい“Financial Engineering”の専門家(学者)だ」と言ったとすれば、彼らは「私は、そんな矮小なことだけをやってきたわけではない」と反論するであろう。



 バブルのパンクは勝手にやったことと見放されて、援助もなく日本はそれを一人で処理した。
 経済の火事場泥棒が横行した。
 でも日本はそれをやり遂げた。
 金融工学というイカサマの究極近代経済学に代って、『脱近代経済学 [クール経済学]』をものにした。

 「日本はえらい」

 アメリカには今、世界から援助の手が差し伸べられている。
 若さとはありがたいもの。
 そこが日本と違うところ。
 でも、あのヤング・アメリカを象徴する3大自動車メーカーが倒産の崖っぷちにまで追いやられている。
 唯一の強者になったが、若さにおける勇み足。

 ツケは大きい。
 世界大恐慌の前触れ?。
 バブルがパンクしたレベルで襲ってきてくれれば、またガマンの10年間がはじまる。
 経験済みのことに対しては、とりたてて危機感はない。
 その必要もない。
 「また来たよ」、 といったところ。

 あの頃の危機感は異常だった。
 なにしろ行き先が見えなかった。
 日本の明日、がなかった。
 日本が本当に潰れるのではないかと思っていた。
 なら今回は。
 経済危機が来ようと、老齢化が深刻になろうと、一時のこととわかっている。
 「抜けるまで待てばいい」
 ただ、それだけのこと。
 ありがたいことに日本は「ガマン」を学んだ。
 日本は耐えることを学んだ。
 ガマンから耐えることから、別の新たなものを学んでいくのがニッポン。

 そう、成長をやめて、じっとガマンすればいいこと。
 たった10年にすぎない。
 時代と歴史はなにも「成長理論のみ」で動いているわけではない。
 成長などは一時のこと。
 成長にしがみつけば、歴史がいやがり、シッペ返しをくらう。
 そのことがわかれば、冷泉に入ってジットしているつもりでいればいい。
 「クールなジャパン」でいけばいい。
 それを通り過ぎれば世界はそこそこマトモになるのが分かっている。

 「クール経済学」は修羅場をくぐり抜けてきた理論。
 日本経済の総称。
 ちっとやそっとでは、破綻しない。
 世界「インフレ成長経済」潮流の中で、俄然として「デフレ安定経済」潮流をつくりあげ、頑固としてそれを守ってきた。

 Le Mondeはいう。

 創造性に富んだ新製品がどんどん開発され、「前代未聞の状況」だと言うことがわかる。
 このコントラストは新しく日本に到着した外国人を驚かせる。
 「経済危機だって?」 
 大都会の街を歩けば店は「消費物資であふれている」。

 特にあらゆる分野に於いて大衆文化の新しい波が怒濤のようにありとあらゆる細々した「日常製品に組み込まれている」のだ。
 東京や大阪ではこれは驚くばかりで、思いもしないようなへんな商品があふれている。

 「ニッポン大衆文化」は誰もが否応なく接するようなもので、「アクセスのしやすさ」は驚異的。
 あらゆるところに「過剰なほどに存在する」。


 クール経済学はビッグスリーを滅亡の危機にまで追い込んだ。
 デフレ経済学がインフレ経済学に勝利した瞬間ともいえる。
 「不況」、みたいだね。
 ちょっとデフレを削れば済むこと。
 安定から、ちょっとガマンへ。
 ささいなことである。

 そしてそのとき、日本はまた強くなっている。
 不況が長引けば長引くほど、日本は強くなる。
 世界は好景気で強くなる、日本は不況でビンボーになり、そして強くなる。
 ビンボーになればクールになる。

 「ビンボーからクールへ」
 
 「成長理論」はヤング・アメリカの理論。
 アメリカには熟成パワー理論、安定経済学理論はない。
 なぜなら、アメリカはあまりに若く、熟成を経験したことがないから。

 だが、ヤングパワーは必ず巻き返してくる。
 なぜなら、ヤングパワーは世界的だが、熟成文化すなわち「クール・パワー」はその名の通り「冷たく、ローカル」に見える。


 話がそれてしまった、戻します。

 世界に日本食レストランは2万4000店あり、毎年急増している、と言われてもどうもピンとこない。
 「マックからスシへ」
 「ハイカラから品性へ」  
 文化はそう動いているこのようではあるが。


 朝鮮日報を続けましょう。


◆「品質」から「品格」へ
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 2005年7月、経済産業省は「新日本様式の確立に向けて」という、少し難解なタイトルの報告書をまとめた。報告書は次の宣言文で始まる。

「付加価値の評価は“価格から質への時代”を経て、“質から品位への時代”へと移り変わっている。
 (中略)
 経済のみならず、日本の文化、日本人の感性、日本の心など日本固有の資産を要素とした、総合的な日本の素晴らしさ=“日本ブランドの有する価値”を向上させ、世界に発信していくことが肝要である」

 報告書が注目を浴びているのは、「品位・品格」という文化的パラダイムを主張している点だ。

 報告書は
 「グローバルな経済戦争の中核をなす競争力は “品格”に変わった」
と宣言、「製品の格」で競い合おうという「新しい産業戦略」を示した。
 日本経済が価格・品質の競争を経て「文化的価値を競う段階」に突入したことを知らしめる始発点といえる。
 日本企業が「伝統的に得意」だったのは「高品質戦略」だ。
 それがまさに「品格」だ。

 「品格」とは、従来の「経済学のカテゴリーには存在しない」コンセプトだ。

 品格を論理で解き明かし、数値で表現し、製品の製造につなげることは不可能だと思われてきた。
 このように文化のカテゴリーとしか見なされていなかった「品格」を、産業の現場に引き込もうと、経済産業省は口火を切ったのだ。
 「新日本様式」は英語で「ネオ・ジャパネスク」あるいは「ジャパネスク・モダン」と表現する。

 パナソニックの新日本様式研究のブレーンである植松豊行・首席審議役(デザイン担当)がインタビューに応じてくれた。

―新日本様式とは?

 日本の伝統的な美意識を先端技術で具現しようというものです。
 例えば、ヤマハのデジタル・バイオリンはデジタル技術の具現化ですが、ハンドメイドのアナログ的な印象を与えます。
 TOTOの便器は日本独特の清潔に対する意識を取り入れているし、トヨタのクラウンは日本刀のラインを生かしています。
 ハイテク製品は、技術さえあれば、日本で作っても中国で作ってもまったく同じ。
 原価が安い場所で生産すればいいのであって、日本国内に工場を作らなければならない理由はありません。

 日本でなければ不可能なもの、日本国内でしかできないものを作らなければなりません。
 それこそがまさに新日本様式の戦略です。 」



● 新日本様式116選:ヤマハ・サイレントバイオリン


 「新日本様式」とはなんでしょう。
 
Wikipediaを見てみます。


★ 新日本様式 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 新日本様式(しんにほんようしき、英: Japanesque Modern)は、新日本様式協議会が提唱する日本の伝統と先端技術を融合させた「日本らしさ」を持つ新しい日本の様式のことである。

 同協会では「新日本様式」の基本理念にかなった商品を「新日本様式」100選として選定しており、選定された商品は「Jマーク」をつけて販売を行うことができる。
 初年度の2006年度には、254件の候補の中から53点が選定され、10月30日に発表された。
 来年度以降も点数にこだわらずに「新日本様式」の理念に沿った商品を選定していくことが予定されている。

 2006年度の53点に加えて2007年度は63点が選定されており、合計116点となっている。



 サイトから抜粋で。


★ 【トレンド】経産省が提唱する「新日本様式」 山下雄璽郎(経済ジャーナリスト)
http://www.e-mobi21.jp/entrefilet/7050201.html
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○6つのキャンペーンと28におよぶ行動プログラム
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 日本の誇る伝統文化と最先端技術を結んだ創造的価値を国際商品として具現化できないかとの試みは、経済産業省商務情報政策局長の私的懇談会として 2005年5月10日、「新日本様式(ネオ・ジャパネスク)・ブランド推進懇談会」が設置されたのが発端だ。

 日本の伝統文化をもとに、今日的なデザインや機能を取り入れて、現代の生活にふさわしいように再提言し、より新しい日本ブランドを形成していくための官民の在り方を探ることを目的とした。

 05年7月当時の同懇談会委員には
 日本伝統産業近代化促進協議会会長の表博耀氏、
 着装道古典宮島流宗家の宮島健吉氏、
 松下電器産業副社長の戸田一雄氏、
 松竹常務の松田安川好一氏、
 トヨタ自動車常務役員の中井昌幸氏、
 ホリプロ会長の小田信吾氏、
 慶応大学環境情報学部教授の稲蔭正彦氏
など19人が名を連ねている。
 3回にわたる議論を経て同年7月、『新日本様式(ジャパネスク・モダン)の確立に向けて~世界に日本の伝統文化を再提言する~』と題する報告書をまとめた。

 報告書では産業界、文化、メディアを含めた幅広い世界から新日本様式についての理解を得るとともに、同様式の確立に向けた官民の努力を3ヵ年行動計画として、6つのキャンペーンと28におよぶ行動プログラムを提言した。

 6つのキャンペーンは
  1...ネットワークづくり
  2...具体的な商品・コンテンツづくり
  3...ブランド管理のための評価システムづくり
  4...日本を感じる(フィール・ジャパン)キャンペーン
  5...ブランド・リーダー育成
  6...海外プロモーション
で構成した。

○伝統文化と先端技術を融合
─────────────
 報告書の提言を受ける形で2006年1月、実際の推進組織となる「新日本様式」協議会を設立。
 活動の主体を行政サイドによるコンセプトづくりから民間ベースに落とし込んだ。
 理事長に松下電器産業の中村邦夫会長が就任し、理事会社として刈谷木材工業、富士通、日本陶器、電通、博報堂、TBS、トヨタ、松竹、松下電器、三越の10社を選出。
 民間企業52 社、学校を含む22団体による29名の会員数で立ち上げ、経産省を中心に外務省、国土交通省、文化庁をオブザーバーに配する推進体制を整えた。

 懇談会の段階から経済人と文化人が入り混じった格好で、これまでわが国ではとかく発想や指向形態において齟齬をきたしがちな文化人と経済人を新日本様式という観点でまとめ束ねていくについては、関係者相互でもかなりの苦労もあったようだ。
 そのうえで「日本の伝統文化と先端技術を融合した商品づくりを支援し、わが国製品の国際競争力を高める」との協議会の目的を固めている。

 他方では「現在の欧米における和食、アニメ、ゲーム・ブームといったクール・ジャパン(日本がカッコいい)の動きとは
一線を画する」(樫葉浩嗣・新日本様式協議会事務局長)としている。

 あくまでも現代の先端技術にもつながるわが国の伝統文化を現代生活の中で再評価して新しい日本スタイル=「新日本様式」の確立を目指すものだと強調している。

 こうした強いタッチの活動姿勢は、将来におけるわが国製品の国際競争力への官民共通する懸念がその背景にある。
 1990年代後半以降、中国、韓国をはじめとするアジア諸国が安い労働力を武器に価格競争力を高め、加えて急速に技術力も高めて機能や品質にも優れた製品を作り出す競争力を有するようになってきている。
 このため日本製品はもはや、これまでの機能や品質の優位性だけでは差別化することが困難になってきているとの共通認識である。
(Mobi21 42号掲載記事より抜粋)


 これによると、

 
「現在の欧米における和食、アニメ、ゲーム・ブームといったクール・ジャパン(日本がカッコいい)の動きとは一線を画する」としている。


 ということは、
 「なんだか日本文化が海外で受けているようだから、政府も腰を上げないといけないな、でも政府が主導したものでないものは、応援したくないな」、
ということのようです。
 政府のやることなんでそんなところで、文句を言ってもはじまるものでもありません。

 もう一つ、サイトから抜粋で。


★ 「新日本様式」ってなんだ?
2006.11.03
http://musosha.air-nifty.com/mplatz/2006/11/post_525c.html
─────────────────────────────────────────────
 10月30日に、新日本様式協議会というところから、新日本様式100選(今年の選定分は53品)というのが発表された。

 新日本様式協議会のウェブページによると、新日本様式とは、

 現代の先端技術にもつながる我が国の伝統文化を現代生活の中で再評価し、今日的なフィルターを通した上で再提言を通じて確立されるものであり、
 素材を自然の命として尊び、引き継がれた知恵や技を大切にしつつ、常に新しい技術や文化を作り出す「たくみのこころ」、
 全体への責任意識をもちながら、個性を磨き、気品と気概のある生き方を求める「ふるまいのこころ」、
 そして異質な考えや新しいものを尊重しながら、自己を確立し、多様性と調和を重んじる「もてなしのこころ」
の3つの「こころ」のことだそうで、

 その選定基準は、

(1) 日本の伝統文化、素材、技術や精神と、日本を含む世界的な先端技術との融合が図られているもの(ハード、ソフト)であること、
 また、日本の伝統文化、素材、技術や精神を、現代のライフスタイルにふさわしいかたちで提案しているもの。

(2) <伝統文化×先端技術>あるいは<伝統文化×現代のライフスタイル>を満たすもの。

だそうです。
 
 で・・・・
 私、すべての作品を見させていただいたのですが、この「新日本様式」というものに、ちょっと疑問がわいてきたのです。

 受賞作品がプロダクトデザインに偏ってるというのもあるのでしょうが、大企業の”製品”や、話題になったものが非常に多いような気がしました。
 たしかに、人々から多くの支持を得たものというのは、それなりに優れたものであるのは間違いないのでしょうが、プロダクトデザインというのは、基本的には、企業の側が製品として発信したものしか消費者は選べないシステムであり、必ずしも”消費者がこれを欲している”というものとは同意でないと思うのです。
 たしかに、受賞作の多くは優れたデザインであり、優れた理念の基に作られたものだと思うのですが、僕にはそれらが、既存の仕組みである”グッドデザイン賞”と、どのように違うのか、よく解らないというのが正直な感想です。

 なかには、この新日本様式の理念にあわせるような、とってつけたような説明がされてるものもあったり・・・。
僕も仕事で、”言葉を後付する”というようなことをすることもありますが、ネームバリューのある企業のヒット商品ならば、後付の理念でも受賞できてしまうのであれば、ちょっと空しい気がします。
 それが、様式という名のもとに”日本の新しいスタンダード”だといわれても・・・。
と感じてしまうのですが。

 繰り返しますが、受賞作の多くは、すばらしいものが多いと思います。
 しかし、その理念として、新しい日本の様式となり得るのものなのか?
 「新日本様式」というものが、日本製品を世界に売り込むツールなんていう小さいものではなく、これからの世界が進むべき方向として、日本が発信していく新しい様式、というようなものにしてほしいと感じるのですが・・・。


 なるほど「こころ」が先行するのですね。
 ヤングパワーではなく、「熟年」といったところ。
  1].たくみのこころ
  2].ふるまいのこころ
  3].もてなしのこころ
の3つだそうです。

 これをヤングに要求しても、無理というもの。
 どれもこれも年季がいる。
 まるで園遊会の茶道の世界。
 「老成した魅力」

 クール・ジャパンが「熟成化したヤングパワー」なら、「ジャパネスク・モダン:新日本様式」とは「熟成された品格」つまり、「シルバーパワーの今日的表現」ということになる。
 コピーライト的には「クール・ジャパン」のほうが当たりがいい。

 
ジャパネスク・モダン」とは「E電」レベル、とってつけたような響き。
 「E電」といっても知らない人が大半だろうが。
 これは文化の「発信」ということを、考えていないネーミング。
 お役所仕事の硬さだろう。


 クール・ジャパンとジャパネスク・モダン。
 ということは、
 若者から老人まで、日本は民族ぐるみで文化発信を行っている、行おうとしている、ということになってしまうのだが。
 そしてそのコンセプトは「クール&タイム:冷ややかさと年季」になる。
 つまり、熟成化した若者と、若者化した熟年ということになってくるのだが。
 ウーン、そうだろうか。

 「文化発信大国 ニッポン」

 インターネット上で飛び交う言語は、「日本語」が最も多いという。
 ワールド・ランゲージである英語を抜いている。
 日本語は世界で「最も難解な言語」である。
 それが「イチゼロの世界」を動き回っている。
 日本人しか理解できない言語が、ナンバーワン言語としてインターネット上を飛び回っている。
 不可解な恐ろしさ、畏怖でながめるしかない手がないのか。
 分からぬ言語と分かりやすい文化で世界を凌駕する国。
 なんで分かりやすいモノが、分かりにくいコトバから生まれてくるのか。

 「ナンとも恐ろしい国 ニッポン」

 「サムライが刀を置いた」国である。
 刀の代わりに「イメージ:創造力、創作力」を武器にしはじめた。
 ベースになるのが「品位・品格」だという。
 何が飛び出してくるかわからない。
 最奥義イメージが残っている。

 「天かける竜のひらめき」

 この言葉、実に響きがいい。
 日本沈没のエピローグは「竜の死」
 日本とは竜、「天かける竜」とは。
 「天」とはなに。
 太陽と月と星の宇宙、無限空間、境界のない世界、インターネット網、ついでにあの世。
 どれも違うような気がする。

 Wikipediaによれば
 『天とは身近に存在しながらも、知り得ない世界構造を仮想する概念』

 「ひらめき」とは、創造力、イメージ。

 それも、特有の「凝り性」あるいは「こだわり」「のめり込み」に裏づけられたもの。
 最奥義とはそういうもの。
 練習すれば高品質は手にできる。

 でも最奥義には「こだわり」が必要になる。
 それを「品位・品格」に転移できるか。


● 「天かける竜のひらめき」とは日本の創造力、イメージ


 『竜はひらめくか?



<つづく>






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