2008年9月17日水曜日

気になる値づけ


● ファッションカタログより
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 気になる値づけ
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 ここには「セールスマン」というのがいない。

 ドアをトントンと叩くのは決まって宗教勧誘の方。
 何しろ日本人は「世界でもっとも信仰心の深い宗教的な民族」と言われている。
 生まれたときは神社でお払い、七五三も神道、結婚式はキリスト教式で、最後の葬式は仏教式。
 偏狭な宗教思想に凝り固まっていない民族であり、最も心伸びやかな宗教的愛に培われた珍しい人種でもある。

 異民族が寄り集まっている町なので「Where from?」が先に出てくる。
 日本人というと、もうそれだけで安心される。
 勧誘の人はおもむろに、カバンの中から日本語のパンフレットを選び出してくる。

 でも、どうも日本人というのは、神様は一人というのは生理的に合わないようである。
 勧誘の方には悪いのだが、なんでこの人たちは、わざわざ自らの思考の視野を狭めるようなことをするのだろうか、それでいいのだろうかと危ぶんでしまう。
 世界が豊かで平和であるなら、神様も豊かにたくさんいたほうが面白いし、それがなごやかにやってい方が平和的ではないかと思ってしまうのだが。

 そのせいではないだろうか、だんだんこの勧誘もうるさく感じるようになってきた。
 そこで、撃退方としてドアに何処だったかの「おふだ」を貼り付けて、それを指して「イヤ、このオフダでわかるように、ブッデイストなので」と言うことにしている。
 このオフダ、仏教のオフダだっただろうか。
 本人だってよくわからないオフダだ。
 まして他人がわかるわけがない。
 でもこのオフダは偉大だ。

 効き目は抜群。
 何しろ、「仏教」とは静かで平和で争いを好まない宗教と知られており、宗教ランクの最上位「超A」に位置づけされている。
 かれらの宗教は「A」ランクであり、それより上位の宗教と認識されている。
 宗教的カテゴリーだけで、平和な市民なのだなという印象を与えることができる。
 なんだかわからないオフダを見せられて、なんとなく負けたといった雰囲気で勧誘の方は帰ってくれる。


 また、セールスマンのいないぶん、たくさんのダイレクトメールやビラが届く。
 セールスマンの人件費を、印刷代に回しているのが、こちらのマーケテイングの特色である。
 それだけ人口が少ないということなのだろう。
 日本は過剰人口を抱えているため、派遣社員のような人材の使い捨てができる。
 募集すれば、ワンサと人が集まってくる。
 いいのがいなけりゃまた募集すればいい。
 またワンサと集まってくる。

 ここでは人集めにムリがある。
 その分がビラ・カタログに化けていく。
 言い換えると「競争がない」
 カタログで競争してもいかほどでもない。
 カタログで競争ができる程度のもの、ということでもある。

 郵便屋さんの後ろに、ビラ配りの配達人のバイクが続いてくる。
 印刷物をドサッと置いていく。
 とても小さな郵便箱では入りきれない。
 大半ろくでもないジャンクメールだが、ときにお金がかかっているなと思うカタログが入っていることがある。
 そんな中から気に入ったデザインや写真を探すのも、ジャンクメールを見る楽しみの一つ。


 没頭の写真は気に入ったデザインの一つ。

 タダでもらった分厚いファッションカタログを眺めていて、なんとなくいいなと思ったもの。
 何で気に入っているのか、いまでもって分からない。
 モデルが好みということもあるのかもしれないが、とりたててどうこうというモデルでもない。
 この程度のモデルは捨てるほどいる。
 カタログには同じモデルの写真が何様もあったが、これだけに注意がいった。
 ということは、モデルだけの問題ではないようだ。
 そこで勝手に紹介してしまった、というワケなのだが。
 どこがいいのだろう(スキャナーの精度が低いので画像は悪いですが)。

 やはり細身のグラスとの「対比が絶妙」ということだろう。
 このファッション写真集にはたくさんのいろいろな形のグラスが使われている。
 もちろん合成写真であろうが、それに数人のモデルが最新スーツに身をかためて出てくる。
 その中で特にこの写真にひきつけられたのは、このグラスのデザインが、スッキリして、モデルとうまくマッチしていたせいかもしれない。


 ところで、写真の右下を見てください。
 値段が記載されています。

 スーツ$99.95、バッグ$49.95、合わせて$149.90.
 1ドル100円換算で大きな間違いはないとおもいますので、合わせて日本円で1万4990円。

 いつもことだが、ここの値づけはイライラさせられる。
 たとえば、このスーツだが1万円である。
 それを「9,995円」と表示している。
 たった「5円の割引」だ。
 それで割り引いたつもりになっている。
 それっぽち割り引いてなんになるのだろう。
 根本は「売る」ということ。
 5円の値引きで売れるのだろうか。
 この値づけは日本人には到底「理解不能」といっていい。

 なら「10円」引いて「9,990円」ならどうだろうか。
 5円と五十歩百歩である。
 「9,980円」ならば。
 アホくさい、元値1万円のものから「20円」引いて安いといえるだろうか。
 おおまけにまけて「9,900円」
 うん、まあいいかな。

 なら、ぴったり「1万円」の方が、はるかに値引きのイメージが出る。
 もしかしたら正価は1万2千円かもしれないなどと、勘ぐりを想起させるからだ。
 「1万円ジャスト、ジャストだよ、安いよ安いよ」という心理になる。

 日本風の値づけなら「キューッパ」で「9,800円」だろうと思う。
 日本人特有の心理であろうか、末端の有効数字が「9」となると、いやがる。
 人をバカにしたような、ミエミエの「割引値付け」を嫌うせいだろうか。
 バーゲンセールではない、という心理が働くのか。
 「買って'ク'労する」ということか。

 「8:八」というのが好まれるようだ。
 「買って末広がり」という、気分になるのかもしれない。


 学問としての「マーケテイング」は発達している。
 だが、実際の場での消費者心理の読みは「最低レベル」と思うのだが。
 それでも、やっていけるほどに安穏な社会だということかもしれない。
 学問やテクニカルが泣いてしまう。

 でもこれは勝手な思い込みということもありうる。
 末端数字「9」という方が購買意欲を誘う心理が旺盛な文化ということもかもしれない。

 「8」だとどうも「生ぬるく」、シャキットしないという言葉を聞いたことがある。
 文化背景の違いかもしれない。




● ガソリン価格 
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 これは昨今話題のガソリンの価格。
 どうみるかというと下の方の黄色い帯に「Unleaded:無鉛」とあります。
 これが無鉛ガソリンで、通常のガソリン価格です。
 「139.9」とは「139.9セント」です。
 リッター「139.9円」です。

 なを、下の「168.9」はデイーゼルの価格です。
 日本では産業保護のために法律的にデーゼルの方を安くしていますが、こちらでは区別を設けないため、みな一律同率の税対象になり、結果としてデーゼルが高くなっています。

 ウールワース(Woolworths)というショッピングセンターで30ドル(3千円)買い物をすると、「4セント割引券」をくれます。
 これを使うと「135.9円」で買えます、ということになります。
 「石油枯渇」でも書きましたが、ガソリン価格高騰のこの折、この手の「4セントサービス」はすべてのショッピングセンターで行われており、このサービスのないショッピングセンターは立ち行かなくなっています。
 ちなみに、素朴な疑問としてなぜ切りのいい「5セント」にしないのかという問が出るのだが。
 おそらく、サービスというものの「消費者からの視点」が欠けているのだろう、と思っているのだが。

 ところでこの価格ですが、「139.9円」です。

 日本のガソリン価格の詳細はしりませんが、「169.9円」というのはないのではないでしょうか。
 「170円」ですよね。
 でなければ「169円」
 「169.9円」を日本語でいうと「169円90銭」
 ちゃんと円の下に「銭」という単位があるにもかかわらず、価格表示では「銭」代は使わない。

 「139.9」は「139.9セント」
 セント以下の貨幣単位はない。
 よって小数点以下は「ポイント9セント」になる。

 小数点以下の表現があるのにもかかわらず日本では、その単位の価格は使われていない。
 逆に表現のないところで、その価格表示がある。
 この「0.1セント」の違いとはどれほどのものなのだろうか。
 ガソリンタンクの大きさは車種別で違うので一律とはいかないが、中型で60リッターくらいだろう。
 半分になったところで給油し、30リッターいれて、たったの「3円」である。

 昔は1セントと2セントの銅貨があった。
 でも今は5セント貨が最小単位となり、そのコインは廃棄されている。
 3セントは切り上げで「5セント」になる。
 とすると、2セント分損することになる。
 差し引き「1セント」の得になる。
 1セントとは「1円」である。
 たった1円の儲けにしかならない。

 小数点以下の「0.9円」という価格は無意味に近い。
 なら「1円」の方が計算しやすく、分かり易い。
 1セントコイン、2セントコインを廃止したにもかかわらず、ガソリンの値段に「0.9セント」を使っている。
 なんという、アホらしさ。

 単なる数字のマジックで、「ヒューマンな発想」がまるでみあたらない。
 つまり値段という「数字だけで考えている」
 「人がどうする」、「人がなにを」という視点がまるで欠けている。
 その程度の文化ということだろうか。

 実際、この「0.9」というのは見た目だけの安さであり、ガソリンを入れたときひじょうに分かり難くなる。

 なんとなくスコーシ儲かったという雰囲気は残るが、多くの問題を残す。
 何しろ、ユーザー側では計算がしにくい。
 全体価格を把握し難い。
 販売側では、看板が一つ増え、レジスターも単位を増やさないといけない。
 事務員が計算できる範囲を超えて、レジスターに頼るしかなくなる。
 トータル的にはおそらく、損失はこちらの方が大きいのではないだろうか。


 日本の価格設定は、担当者が頭のなかで計算できる価格か、あるいは概略をつかめる価格設定にしている。
 そうすることにより、機械にたよらず、自己の脳ミソを使って間違いを減らすことができるようになっている。
 それがボケ防止、脳ミソの訓練にもなり、思考回路の開発につながり、数学的レベルの向上にも繋がる。

 もちろん、1万円台で「銭」を表示する「日経平均株価」のような出来損ないもあるのだが。
 ちなみに、日本の平均株価をここで表示するときは「¥12,345」で、「¥12,345.67」といった哀れな表示はしない。
 日本の表示は「バカの壁」といったものに近いのかもしれない。


 こちらの価格設定は普通人が把握できる有効数字という概念から離れた、人間をじゃまもの扱いした「計算に弱いバカ製造機」を目指す設定のように見受けられてならない。

 数字計算は人間がやってはならない。
 なぜならミスを犯すから。
 もともと、人間は数字計算をするようには生まれついていない。
 これは全面的に機械にやらせるべき仕事である。
 そんな信念に基づいているように思える。
 これまでは、やむ得ずやってきたのだ。
 技術の発達した現代では、その本来の命題を達成すべきである。
 それが、神が人に与えし使命。

 これでは、経済的損失よりも「人的損失」のほうが、はるかにおおきい。
 文化とは「人をどう有効化するか」ということではないだろうか。
 「人を開発」することではないだろうか。
 他人の国だから、文句をいってもはじまらないが、「もったいない」ような気がする。

 日本のように過剰人口なら、より頭のいいヤツを引っ張ってくればいい。
 それが出来る国だ。
 それほどに人が余っていく国だ。
 頭のいいヤツはいくらでもいる。
 でもここは人手がない国だ。
 「人が欲しい国」だ。
 誰もがみな、そこそこ優秀になってくれなければ困るのだ。
 なにかボタンを掛け違っているような気がしてならない。

 「人間の思考にやさしい文化」に移行すべきだと思うのだが。
 いくら発展発達したとはいえ、「あまり機械に頼りすぎる」というのは、どうだろうか。




【☆☆
  補稿 ☆☆
 先日、飛行場へ行った。
 その途中に「ゲートウエイ・ブリッジ」という有料橋がある。
 確か、今年のはじめは「$2.60」だったと思う。
 値上がりしたという話は聞いていた。
 ということは"3ドル"ということであろう。


● 「2ドル90セント」の料金投入バスケット
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 ところが、「2ドル90セント」

 ユ-ザー軽視もはなはだしい。
 ガソリンの「0.9セント」は、まあローカルな問題だが、これは国道にかかっている橋の料金である。
 有料橋を使うのは便利だからである。
 この値段が「便利だろうか?」

 「不便のきわみ」と思えてならない。
 3ドルなら2ドルと1ドルのコインを用意すればいい。
 あるいは、日本風にやるなら1ドルコイン3枚用意すればいい。
 シンプルで分かりやすくていい。
 2ドル90となると、どうなる。
 これじゃ何処の誰だって、頭を悩ます。
 オートマチックでコインをバスケットに投入すると、ゲートが開くシステムだ。
 3ドル入れてもいいが、でもお釣りは出てこない。
 なんとなくシャクにさわるから、2ドル90ですませたい。

 2ドル60セントから1割の値上げなら、当然この値段になる。
 役所の発想ならこれでいい、文句は言わない。
 でも、それを利用するのは、ごくごく当たり前の市民だ。
 「公共施設の値づけ」というのは、ただ数字で「1割アップです」、では納まらないだろう。
 サイフの中をあけて、2ドル90セントを探しだす責務を負っているのは一般人である。
 まず、はじめに利用者の利便を考えるべきではないのか。

 なにしろ、国際飛行場に通じる道だ。
 利用者の誰もが地元民ではないのだ。
 異民族、他民族、国籍の違う人種、老若男女人などさまざまいろいろ混じっている。

 料金所の前でドライバーがパニックにくって、財布の中や車のボックスをひっくり返している。
 なんとか、コインを探し当てるまで、後ろには延々の車の列。
 初歩のマーケテイングだろうが。
 少しは使う側の身になって考えてくれ、といいたい。

 どこにもあるもののようです、身勝手な公共の壁が。

 「少しは、頭を使えよな」、と怒鳴ってもあながち悪意にとられることもあるまい。
 頭を使わなくても、過小人口と豊かな資源でのんびりやっていかれる国だ。
 頭などアサッテにおいておいても何とかなる。
 確かにそういう国だが、でもなんとなく、スッキリしない。

 なぜに、そんな国民に無理強いをする。
 列が長くなっても、誰も怒鳴りはしいない。
 じっと、ガマンできる人種だ。 
 でも、やっぱり便利なほうがいいだろう、「と、思うのだが」。

 「人間にやさしい文化に移行すべきだと思うのだが」と、書いたが。
 いくら発展発達したとはいえ、「あまり人間に頼りすぎる」というのは、どうだろうか。
 結論が逆になってしまった。

 確かにこの国、肉体的には人間に優しい文化をもっている。
 その結果は、デブ製造国ナンバースリーに入ってしまった。
 でも頭の使い道になると、「まるでダメ」
 「脳みそに優しい文化」などできるわけがない。

 ここにいるとだんだん、自分の日本人的発想に自信がなくなってくる。
 全体を見渡す視野が失われてくる。
 これでも結構、がんばっているのだが。
 「朱に交われば、赤くなる」というやつかもしれない。
 慣れとは恐ろしいもの、そうならないように気を使っているのだが。



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