2008年9月1日月曜日
「日本沈没」2:「復活の日」は
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「日本沈没」2:「復活の日」は
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今回「日本沈没」を読んで、一番印象に残ったのは、7千万人という日本人が世界に別れて暮らすことになるということである。
それはいい。
問題は「日本がない」ということである。
「国土」がない、ということである。
ユダヤの民は国を失って世界を放浪した。
しかし、地面はあった。
ただ、歴史的宗教的に異なる民族が支配していただけ。
「いつか帰れる」だろうという、精神的支柱が人を確固たるものにしいえた。
それが結束を固めた。
ふるさとはある、でも帰れない。
人間、辛苦のときの方が力を発揮できる。
「ふるさとは遠くにありて想うもの、そして哀しく詩うもの」
日本沈没が発生すれば、地面それ自体がない。
「地面がない」
「ふるさとはない」
そんなことがありえたら。
そうしたとき人々はどういう精神状態になり、どういう行動をとるのだろう。
私は海外に暮らしている。
でも日本はある。
日本の地面は海の向こうだがある。
これが「ない」となったら、どうなるのか。
日本沈没(下)「エピローグ 竜の死」から抜書きしてみます。
『
本当をいえば…私は日本人全部にこう叫び、訴えたかったのです。
みんな、日本が…私たちのこの島が、国土が…破壊され、沈み、ほろびるのだ。
日本人はみんな、おれたちの愛するこの島といっしょに死んでくれ。
今でも、そうやったらよかった、と思うことがあります。
なぜといって…海外へ逃れて、これから日本人が…味わわねばならない、辛酸のことを考えると…
』
『
日本人は、「人間だけが日本人」というわけではありません。
日本人というものは…この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村や、先人の住み残した遺跡と一体なんです。
日本人と、富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。
このデリケートな自然が、…島が…破壊され、消え失せてしまえば…もう、日本人というものはなくなるのです。
』
『
気候的にも地形的にも、こんなに豊かな変化に富み、こんなデリケートな自然をはぐくみ、その中に生きる人間が、こんなにラッキーな歴史を経てきた島、というのは世界じゅう探しても、ほかになかった。
何よりも…この島が死ぬとき…私が傍でみとってやらなければ…最後の最後まで、傍についてやらなければ…いったい、誰がみとってやるのです。
この島が滅びるときに、この私がいてやらなければ…ほかに誰が…
』
『
日本人はな…これから苦労するよ…。
この四つの島があるかぎり…帰る"家"があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれている、おふくろがいたのじゃからな。
だが、世界の中には、こんな幸福な、温かい家を持ち続けた国民は、そう多くない。
何千年の歴史を通じて、流亡を続け、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかねばならなかった民族は山ほどおる…。
生きて逃れたたくさんの日本民族はな…これからが試練じゃ…家は沈み、橋は焼かれた…。
外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、渡っていかねばならん…。
いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん…。
これからは…帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧で何もわからん民族と立ちあって…外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか…それもええと思うよ。
』
『
それとも…未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の"おとな民族"に大きく育っていけるか…日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな"国"ぐらいつくるじゃろうが、辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の"冷たさ"に対する愚痴や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族になりさがるか…これからが賭けじゃ…
』
日本沈没では天皇家はスイスに避難したという。
おそらく、そこで臨時日本政府が発足することになるであろう。
だが、帰る地面がないということは、亡命政府ではない。
とすれば、そもそも国なるものが成立しうるのかという根源的な問題に直面してしまうのではないだろうか。
文化・民族なるものも存在しうるものだろうか。
世界のどの国が地面を分けてくれるであろうか。
「理解できない」民族である中国とロシアはまずだめ。
ヨーロッパ、アフリカは満杯。
可能性のあるのは、モンゴルとオーストラリアとアメリカ。
でも政権を作ることは許されないだろう。
モンゴル自体はいいにしても、危険を感じる中国・ロシアの圧力で難しくなるだろう。
オーストラリアは単一島国であるため、そこに別の国が樹立されることは許可しないだろう。
残るはアメリカで、アラスカの一部に四国くらいの土地を借りて、臨時政権を作ることになるか。
四国はベルギーの6割ほどの大きさ。
アラスカはアメリカがロシアから譲りうけた飛び地。
同じようなプロセスで僅かばかりを譲ってくれるかもしれない。
アメリカはイギリスから渡ってきた連中が立てた国なので、受け入れるのにアレルギーが最も少ない国であろう。
人口は四国くらいの土地では、1千万人ぐらいでリミットか。
今の四国は400万人、とすると2.5倍、そのくらいで満杯であろう。
仮に、1千万人が暮らしたとしても、日本文化なるものが保持できるのか。
日本文化は環境に依存した文化である。
日本列島という環境が生み出した文化である。
ヨーロッパ文明のような論理文化ではない。
とすれば、環境を失った日本文化なるものは、そこで急速に滅亡していく。
そして、周囲に見合った一千万人型「寒冷式アラスカ風日本文化」が作られていくことになるだろう。
他の6千万人はそれぞれの土地で、同化していくことになる。
とすると、その6千万人にとって、アラスカ風の日本文化は、自分たちの文化ではなくなる。
以前に「ルーツ」という映画があった。
アフリカ系アメリカ人が自分のルーツを求めてアフリカを旅するものである。
アフリカ系アメリカ人はアメリカ人であってアフリカ人ではない。
民族の起源を一緒にするだけで、別種の民といっていい。
それと同じでおそらく、時とともに日本文化は消えていく。
アラスカの地面の少々を分けてもらえなかったらどうなるだろう。
日本文化は歴史の彼方に沈んでいくだろう。
「歴史から消えた文化」となるだろう。
おそらく、ここを除いたら、世界のどこにも国を作れる地面はない。
国を作ったとしても、寒冷式アラスカ風日本文化もまた、本来の日本文化ではないだろう。
一千万の文化であり、民族の本源文化ではない。
民族は祖先の生物的血のつながりでだけで、文化は急速に消滅する。
日本については、未来の図書館で「消えた文化と民族」というコーナーで知るだけのものになるのではないだろうか。
海外で生活するということは、「日本沈没」があったらどうなるのか、もしそうなったらどういう行動をとるべきが一番ふさわしいのか、あるいは実際にどういう行動をとる可能性が高いのか、ということを考えてみるチャンスが与えられているということである。
日本に住んでいるかぎり、日本沈没はSFでいい。
それ以上は進まない。
進んでしまったら、日本はなくなる。
でも日本の外にいるものは、一歩踏み込んで「もし、そうなったら自分は」という問を持つことになる。
さらに突き詰めれば、日本人とは、日本文化とは何か、ということを自分自身に問うてみなければならないということになる。
日本人は「群れない民族」である。
ヨーロッパ系で群れる民族はイタリア人。
レストランで大勢の人が集まり、ワイワイガヤガヤ迷惑この上もないのが、それはどこでもあるイタリアレストランでのごく当たり前の風景。
アジア系でネットワークがしっかりしているのは中国人と韓国人。
日本人同士の横のつながりは、ひじょうに希薄である。
「コロニー」を作らない民族である。
同じ企業に勤めるというファクターがない限り、他人は他人で限りなく個人主義である。
よって、環境に同化しやすいという特徴をもつことになる。
中国人や韓国人は血に付帯する民族である。
よって、単純明解にして、何処にいこう、何処にいようとこの仕組みは機能する。
どこへいこうと、中国人であり、韓国人である。
国土を離れても、消えてなくなるものではない。
ために、国を離れることにためらいはない。
それが華僑を生んだ。
韓国人は海外に出て、高等教育を受け、そこで職を得ることを望み、その多くが帰国しないという。
日本と中国の狭間にあるという地政学からいけば、おそらく海外に出られた人にとっては、そこに居残ることは最良の選択であることは間違いない。
海外の韓国コロニーで生活できれば、これに優るものはない。
なまじの祖国へ戻るよりも賢い、と言って過言ではない。
ただ、血のつながりも欠点はある。
どちらもそのつながりにおいてのみであり、血が繋がっていない人との連帯が脆くなる。
時に民族的連帯感か血脈的連帯感かという瀬戸際に立つこともある。
日本人は「遠くの親戚より、近くの他人」というように、血のつながりが紐帯機能を成しえなくなったとき、集団を維持していくためのはどうしても「精神的協調性」を優先せざるをえない。
でないと、分解してしまう。
海外に出ると日本人はその協調性が希薄になり、個々ばらばらになる。
「中国人は一人なら優秀である、日本人はひ弱である。でも三人になったら中国人はてんでんになり、日本人は団結する」
これはよく言われることである。
なら、海外ではどうか。
まず、日本民族の団結というのは、期待しえない。
「日本人コロニー」は存在しえない。
しかし、枠組みを定められた小集団であれば日本人の結束力は強い。
目的意識をもった場合の日本人の協調性は群を抜く。
それは「近くの他人」意識のなせるワザであると思える。
血の繋がらない中国人の三人集団より、近くの他人の三人の日本人集団の方が連帯性が高くなる。
どうも日本人は土地というもに付帯する民族のようである。
日本文化の担い手であった武士とは農地からの税で生活する階級である。
その生活権を護るために、「家」が基準をなす。
後を継ぐものがなければ、養子を迎える。
血のつながりは切れる。
血は切れてもいい、家が継続することが何よりも大切なことである。
血は生物である、家は文化である。
よって、日本国土が文化の担い手になってしまう。
日本人はあまりにも作られた文化の中にいる、といっていい。
家こそが、日本という国土が生んだ特殊文化だといえる。
日本人は「ふるさと」を追い求める。
そして、海外に出た人たちは、老いたら帰ることをあたりまえに考えている。
それが文化である。
血は本源的なものである。
海外に生活するからといって、血のつながりは消えはしない。
しかし、文化はそれを作った環境を求める。
一世では日本文化はその人の行動基準としてある。
でもその子の代では、さほど真剣にはならないだろう。
とすれば、環境に依存する日本文化は急速に影を薄くしていく。
血を基準にするなら、その上に作られたものは消えはしない。
だが、環境で作られた文化は、孫あたりでは地元に同化して、ルーツなどまるで気に留めることもなくなるだろう。
コロニーとして留まることはないだろう。
つまり、日本の国とは「地面」あっての国であり、「環境」あっての文化だということ。
地面がないと脆いのが日本人ということである。
そういう、あまりに「環境に依存した文化」であること。
日本人が作ったのではなく、環境がつくり、それを偶然そこにいた民族が享受したということである。
豊かな自然に育まれた「贅沢な民族」だったということもできる。
もし7千万人が世界に分散したら、おそらく百年で日本人は地元に同化して、「日本文化」は忘れ去られるのではないだろうか、ということである。
「コロニー」を作らない性格とは、本家本元の「日本の地面」が消滅したときは、日本民族なるものが「消滅の方向づけ」を受ける民族ということになる。
アフリカ系アメリカ人のような存在に近くなるのではないかと思えるのだが。
『
★ deep_science|未来人 Vol.1 小松左京- 8月5日
http://www.deepscience.miraikan.jst.go.jp/miraijin/01/
』
【〇〇〇】
「日本沈没」を読んで早速書いたのがこの稿。
ところが、公開するにあたり、小松左京を調べていたら、なんとなんと「日本沈没 第二部」が2006年8月にすでに発表されていた。
これはちょうど2年前になる。
まるでまるで知らなかった。
『
★ 終わらない「日本沈没」 小松左京さん、共著で第2部
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20060801bk03.htm
国土喪失から25年、日本人は世界に難民として分住しながら、高い科学技術や政府組織を維持していた。
第一部で科学者だった中田首相は、日本の沈む海に人工の浮島を置き、東アジアの政治的緊張の中で「領土回復」を狙う……。
第一部のプレート・テクトニクスに代わり、SFとしての核となるのは、寒冷化による人類滅亡の危機。
火山の噴火という地球の変化で、氷河期が起きうることへの警告は、小松さんが第二部の準備として取材したことが生かされたものだ。
一方、日本人論としては、国土を失っても、その誇りを継承させようとする中田首相の愛国主義と、世界と共存するコスモポリタニズムを主張する鳥飼外相の対立が焦点となる。
谷さんは、「僕の考えを中田首相に、過去の著作などから学んだ小松さんの考えを鳥飼外相に代弁させてみた」という。
人類のために、日本人はどんな貢献ができるかという問いかけは、今日の世界にも重なる。
「第一部が著名なだけに、へたなことは出来ない。しんどい仕事だった」と振り返る谷さんに対し、小松さんは、「青年海外協力隊などで6年の海外経験のある谷君だから、難民となった日本人の境遇にリアリティーが出た。文学性も高く、満足している」と太鼓判を押す。
第一部で別れた恋人の再会場面では、涙ぐみそうになったという。
小松さんは「地球人が宇宙人になりうるかをテーマとした第三部も考えている」と語る。
日本から世界、そして宇宙へ。
未曽有の危機を乗り越えるドラマは引き継がれていく。
』
上の解説によると、日本の海に人口の浮島をおいて政権を樹立するという。
なるほど。
アラスカなんぞではなかった。
でも、浮島とはどれほどの面積を持つのだろう。
どれほどの人口を抱えているのであろうか。
是非とも第二部を読みたいものである。
なを、共著の谷甲州であるが、作品としては「遥かなり神々の座」しか読んだことがない。
その本がいい具合に古本屋の棚にあって、偶然手にとり読む機会に恵まれた。
そのときにはじめて「甲州」という面白い作者の名前を知った。
一冊でも読んでいれば、印象がもてる。
【〇〇〇】
「日本沈没」のウエブサイト
『
★ 「日本沈没」鑑賞対策本部
シナリオステーション開業6周年記念企画
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【D-1 原作復旧本部】
http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd1.html
■ 「日本沈没」、その先にあるもの ■
<日本沈没>の末尾には<第一部・完>と記されている。
左京氏いわく
<日本沈没>は<未完の架空譚>の前章。
続編である<第二部・日本漂流>においてはその後の日本民族が世界で流浪する姿を克明に著す構想が挙げられ舞台となるオーストラリア、南米、アイスランドなどの取材もすでに終え<異常気象><歴史と文化の旅><遠い島遠い大陸>と習作を刊行しているのであるが、メインステージである<日本漂流>においてはその悲観すぎる内容からすでに書き始めていた120枚に及ぶ原稿を総て破棄したという-----。
ぜひ、存命中の完成を祈りたい!
しかし。
その片鱗として別作では、そのヒントとなる要素が随所にある。
一時期、左京氏は、沈没後の日本民族のモデルケースとして、<日本アパッチ族>の中で語られている漂流民族を指摘していたが、<日本漂流>の執筆構想が現実化した際に抹消されたという。
この他に、<果てしなき流れの果てに>においては、星間移住民である日本民族が、プラットホームにおいて、<君が代>を謳っているシーンがあるが、その解説として数百年前に母国が海面下に没した流浪民だという説明がなされている。
この事から、沈没後の日本国民は宇宙空間にまで赴き、ひたすら彷徨い続けている事が窺える。
- 追 記 -
小松左京氏が<未完の架空譚>と称していた<日本沈没続編>が
2006年7月8日、初版発行された。
名は<日本沈没 第2部>(小学館/¥1,890)
』
なを、この”「日本沈没」鑑賞対策本部”には下記の項目があります。
【D-1 : 原作復旧本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd1.html
【D-2 :前兆検出本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd2.html
【D-3 :人名救助本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd3.html
【D-4 :初回観測本部】 http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncd4.html
【D-end: 第二部書評本部】http://scenario-station.hp.infoseek.co.jp/ncdend.html
【Top Page】
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