2008年11月15日土曜日

ケンボッキ島


● ケンボッキ島地図
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 ケンボッキ島
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 「ケンボッキ島って知っていますか」
 「ヒョッコリひょうたん島のとなりだろう」

 「行ったことありますか」
 「行けるわけないだろう」


 お話はこういう具合にすすみます。

 大字琵琶瀬村 字ケンボッキ島 六番地

 登録用紙に書き込むとき、手が震えて、書き損じてしまった。
 だが、それも記念になるだろうと、そのまま提出することにした。
 印を押し、書類が完成した。
 すると役場の人が口々にいった。
 「おめでとうございます」
 「あの島で住民登録をしたのは、あなたが地球はじまって以来です」

 「地球はじまって以来です」
 なんともダイナミック。

 さらに、「琵琶瀬村」。
 反面、なんとも優雅な地名である。
 ドキドキしてきた。
 こういうのが好きなのである。

 これまで地球上に住民登録した人がいないのに「六番地」という番地がある。
 ウーン、これも"なんとなく"「らしい」。

 そして、主人公とその家族(妻と娘)はケンボッキ島に住むことになったのである。
 上の地図の下の左側の「ゴロウの家」がそれです。
 隣に馬小屋があります。
 そのさらに横に「OK号」というのがあります。
 これなんだと思います。
 通常なら、島へ渡るためのヘリコプターとなるでしょう。

 ところがなんとなんと、これ「船」なのです。
 何故、陸に船があるのか、と疑問を持たれた方は、なかなか鋭い頭脳の持ち主です。
 もしこれ、本当の船なら「丸」でなければならないはずだからです。
 それとも空飛ぶ船なのだろうか。

 この稿のお話は「OK号」を手に入れる物語なのです。
 もちろん、本の中身を忠実に、且つ特大の皮肉を交えてみていくのが、その仕事となるのですが。

 ちなみに、地元では「ケンボッケ」と呼ぶそうである。
 もちろん最後の「ボッケ」は「ボケ」のことでしょう。
 よって俗称は「ケンボケジマ」になります。


 まずは、このお話の主人公がケンボケジマへいく舟を手に入れたときの様子からみていくことにします。
 この舟はOK号ではありません。

 「モシモシ」
 「はあはあ」
 「売りに出ている船はないでしょうか。
  ‥ええ、島まで渡る舟です」
 「舟ですか」

 ‥‥

 「あるそうですよ、手ごろな舟が」
 「買いましたよ、それを」
 「なんでも、"人が乗っても沈まない"といっていますよ」
 「ははあ、ますます気に入りました。どうかゆずってください」
 かくて、たちまち舟長になった。

 ここで断っておきたいが、船長ではなく、舟長である。
 あくまで舟である。

 どうか皆さん、舟長(しゅうちょう)と呼んでいただきたい。

 "人が乗っても沈まない舟"があるという。
 そんな珍しい舟、広い世にはあるもののようである。


 だがである。
 突然、それに続いて変なストリーが出てくる。

 マスコミ界の巨星、大宅壮一老が南の島の酋長(しゅうちょう)に就任されたと聞いたとき、どんなにうらやましかったことか。
 おそるおそるそのいきさつをおたずねしてみた。
 すると大宅酋長は、かのバセドウ病的巨眼をカッとみひらいて、就任式のさい食卓に並べられた世にも「めずらめずら」の料理について語るのだった。

「それがだね、君イ。
 長くて、モヤモヤしてツルツルしておる。
 気味が悪いからこれは何じゃと訊ねたら、地元の酋長が、カエルの卵じゃが、精力がつくと説明した。
 こんな丼にいっぱいじゃったが、精がつくもんなら食わにゃならん。
 そう思って食ってみたら、これが珍味じゃ」
「おいしゅうございましたか」
「ま、珍味じゃった」

 ああ、煙と消えてしまいたかった。
 もし枝ぶりのいい木が手じかにあったなら、本当に自殺してしまっただろ。

 「しゅうちょう」は"しゅうちょう"でも"しゅうちょう"が違うではないか。

 この作者、手前勝手にゴロ合わせを楽しんでいる。


 ところがこれ、まだ続くのである。

 ともあれ、舟長に就任して発狂寸前になった私は、迷惑もかえりみず、日ごろから尊敬おくあたわぬ北杜夫氏に手紙を書いた。
 それも便せん一枚だけの報告だったが、封筒ではカンロクがないので小包にした。

 便箋一枚の手紙を小包にするという、これで個人名「北杜夫」がお話の世界にいざなわれていく。
 つまり実名を登場させることによって、妙にリアリテイっぽくなるというわけである。

 北杜夫の小説は持っているが、幸いと言うべきか不幸と言うべきか、まだ読んでいない。
 でも「どくとるマンボウ航海記」と「怪盗ジバゴ」は読んだことがある。
 こういうタイプの人だから、使いようによっては"リアリテイ"を生み出すのに結構"すぐれモノ"になる。


 と、返事にいわく。
 ───ゴロウ大村長殿
 これでタイトルがふえた。
 大舟長であり、大村長なのである。
 得意満面、気分爽快。

 どうもこの主人公「大」と「長」がつくと何でも感激するらしい。

 とすると、その舟の名は、

 「これ、水夫ども、しがない半端労働者ども‥‥舟の名前はどうすべきかよ」
 「ぜったいにゴロウ丸にすべきよ」
 ムスメは目も上げずに答えた。
 「ウン。そうだな」
 「そうよ」
 半端労働者にしては、頭の回転がよい。
 近ごろは教育が普及し、半端労働者まで知識をふり回すので、経営者や大村長がこまるのである。

 やはり舟は「丸」でないといけない。

 めでたしめでたし、である。


 ところがである。
 また、「ところが」が出てくる。
 この得意絶頂の主人公に、恐ろしい不幸が襲うのである。
 やはり"人が乗っても沈まない舟"がこの世にあるわけがない。

 「この調子じゃ、冬に行き来するのは大変ですなあ」
 と、舟を世話してくれた人にいった。
 「もちろんです」
 その人は大まじめでうなずき、
 「たいしたむずかしいことですね。
  冬の海で死んだ人はたくさんいますから」

 なんとなく、背筋のスーと寒くなる予感が忍び寄ってくるでしょう。
 これはホラー童話か。

 海で顔なじみになった漁師が、船大工を連れて来てくれた。
 この船大工が微塵のケガレもなく言う。

 「命が惜しかったら、あのタヌキ舟には乗らないことですね」

 おお、なんと、大舟長のはえあるゴロウ丸がタヌキ舟になってしまった。


 「ま、三千円でも買い手が現れないでしょう。
  本来なら流してしまうところです」
 「流す‥‥」
 「もやいをはずして海に放ってやるのです。
  プカプカ浮いておさらばです」

 なんという「ミジメ」なことだろう。
 あの大舟長を生んだゴロウ丸が「葬送される」

 舟大工はいとも淡々とひどく乾いた言葉で、非情にもさらに続ける。

 「意地はって乗り続けたとして、舟が沈んでも、間違ったってあの舟の板には"つかまっちゃダメ"です。
 あの木なら、"水に浮かぬ"はずです」

 ウー。


 ゴロウ丸は、島に定着しないうちに、轟沈してしまったのであった。

 なるほど、"水に浮かぬ木"で造ってあるので、「なんでも、"人が乗っても沈まない"といっていますよ」というセリフが出てくるわけである。
 ヒネリを加えているようだ。
 推理小説なみに、行間を読んでいかないと、落とし穴があるというわけである。


 ではこの特大のバカバカしくもミットモナイお話の後で、いよいよ陸に鎮座している変な船、OK号を手に入れたいきさつはどうなっているのか。
 それがこの話のメインです。

 OK号の正式名称は「オトキッス号」である。
 船の名前は常に「****丸」でなければならない。
 ご存知かと思うが、これは日本の「船舶航行法」に定められている。
 なのに「****号」とはなんぞや。
 罰金モノである。
 でも大丈夫、この船、浜に鎮座しているだけで、ゴロウ丸と同じく水に浮かばないから。
 ちなみに空は飛ばない。

 でも、本当は、これ浮くのである。
 もともとの名前は「ほうりう丸」という。
 やはり「丸」がついていた。

 ただでは起きないのがこの物語の主人公。
 不幸を幸に変えてしまうという天性のオポチュニスト。
 ちなみに幸を不幸に変えてしまうという恐怖的楽観主義者でもある。
 ミスター・ビーニズム。
 「ビーニズム」って何。
 ミスター・ビーンて知らない?

 轟沈したゴロウ丸とはうって変わって、この「丸」のついた船を、ひとのいい正直な持ち主の元漁師を、口先三寸でだまくらかして貰いうけ、勝手に「号」をつけてしまうというとんでもないことをやらかしてしまうのだ。
 その経緯は。

 ゴロウに家を貸してくれている大家さんが、タダで船をまき上げられたそのモト漁師。
 コンブで一儲けしたことがあり、それでこの大きな船を買った。
 でもシケによる遭難にあい、九死に一生を得て生還した大家さんは船を下りた。
 大家さんの口ぐせ、

 人間、百まで生きるものでもなし、イキモノとしての人間は海の中では死ぬものだし、こうして、ちゃっこくやってお天道様の光を浴びているほうが、しあわせだべ。
 サケ・マスやったほうが金儲けできるという人もいるけど、他人は関係ねえべ。


 主人公が眼をつけたのが、その推進力を失って北の海をさまよった、栄光の船。
 それはいま、廃船となってキリターフの浜で風雨にさらされている。
 これをいかにして、まき上げるか、主人公はいろいろと考える。

 そしてこんな具合に話をもっていく、

 「あの船、もうボロだけど、海に浮かぶかしらねえ」


 気のいいオヤジは怒った。
 バカこくでねえ、

 「何をいうのだ」
 と、彼は青筋を立てて、
 「あれは特別な船だぞ。
  ハマチューの人たちを何度も救助したし、それで記念に置いてあるのだ。
  沈むものじゃねえ。
  なにしろ"ヘノキ"でつくってあるから」


 シメシメ、と思うが、ヘノキってなんだ。

 「屁の木?」

 「そうだとも。
  ぶっ通しの一枚板でおめえ、十トンの船体が作ってあるなんぞ‥‥‥おい、今どき聞いたことがあるか」


 ほうりう丸はヒノキの一枚板で造られた船だったのだ。
 ヒノキなら三十年経っても腐っていないはずだ。
 ますます欲しくなり、これ幸い儲けものと、主人公の役者顔負けの演技が続く。

 「困った、困った」

 「困ったか。困ってくれたか。それで、どうした?」
 ヒトのいい大家氏は、とろけるような微笑を浮かべて身を乗り出した。
 「大家といえば親同然、店子といえば‥‥」
 「子も同然」

 大家氏の身の上に不吉の影が迫ってくる。


 「そこで子からのお願いだけど、あの、ほうりう丸ゆずってくださいよ」
 「え?」
 「むろんタダ。
  それからタダでもらう以上、島までは運んでもらわねばなりませぬ」
 「運ぶって、あの船を‥‥」
 大家は呆れ、実に長い間、まじまじと私の顔をのぞきこんでいた。


 いわく、

 ついに、店子の権利として十トンの船をむしり取った。

 店子にそんな権利があるか。
 単なるサギではないか。


 「ヘノキの船を島まで運んで、最後の花を咲かせたらどうかね」
 「ウーン。それもそうなんだけど‥‥あれを動かすには、人手が三十ほど要るべえが」

 信頼している人に訊いたところでは、今どき、あれだけの船を動かすのは至難な業だそうだ。


 彼は毎日、浜へ出てほうりう丸を見上げているという。

 こういっていたかもしれぬ。
 「ほうりうよ、おめえは何故にそこにいるのだ。
  トットと消えてなくなれ」

 と。


 しかし、ついにほうりう丸は主人公のサギ師の元に運ばれることになる。
 その門出のシーンを、

 まず、浜の地ならしをし、ブルトーザーでそろそろ下ろした。
 すると浮いたのである。
 およそ十年、陸上に放り出されていた船が、ポッカリと浮き、アカ一つないのである。



 翌朝、4時半。
 願ってもない快晴、油凪の海面に、ポツリと黒い点が現れた。
 キリターフをほうりう丸が船出したのである。
 5時半───。
 とうとうやって来た。
 静かに、小揺るぎもしないで、オンボロほうりうがやってきた。


 エッツ、

 やってきたのはたったの四人。
 それも大家氏の息子さんを除いては年寄りばかりである。
 不安になって訊いた。
 「三十人が四人になって、それで大丈夫ですか」


 なんとなんとたった四人で、ついにほうりう丸は陸揚げされたのである。
 物語はいかようにでもつくれる。

 ともかくめでたい。
 船のキャビンから見る海もまた格別で、これで名実共に大舟長になったのである。



 口先三寸で船を手に入れたゴロウは、次にこの船の名前を変えようという、またもや大胆不埒なことを実行しようとする。
 長くなりますので、この部分は省略します。
 ちなみに、この船の利用方法も。


 ところでこの本、いかにして手に入れたか。
 息子が三週間の有給休暇で日本へいった。
 三週間となれば、重役なみのはずだが。
 でも、もっとも近年に入ったペイペイ。
 なにしろやっと1年。
 それで3週間の有給休暇。
 この国そのうち、潰れてしまうぞ。

 前に務めていた会社の先輩で日本に戻られた方が「一生で読んでおかねばいけない本の一冊だ」として、取り寄せて贈ってくれたというのがこの単行本。
 奥付は「昭和47年1月25日 第1刷」の「4月10日 第11刷」版。
 ちなみに「発行所 毎日新聞社」とある。
 天下の大新聞である。
 なんと、あの「冬の鷹」よりさらに4年も古い。

 でも、けったいなことに「あとがき」がない。
 「なかがき」というのがある。

 そしてまた強風、烈風。
 「ヤセ」、つまり妻が吹き飛ばされ、見事に大地から離れた。
 「しめたぞ。これで飼育の手間がへった」
 そう呟き、バンザイを三唱しようとして気がついた。
 飼育されているのはこちらであり、飼育人は妻である。
 消えてなくなるのはやはり困る。



 「チビ丸」は、外へ出る時間が少なくなった。
 そこで壁という壁を利用して、新聞や歌やウラナイの結果をはりつけている。
 便所には、各人の座高を考えた劇画がぶら下げられている。
 題して「トイレコミック」。
 マンガがそえられたちゃんとした物語なのである。
 "パパのためのトイレコミック第一号"
 その粗筋は、難破船の死体がある時ケンボッキ島の浜に打上げられ、それがこの便所の位置。
 死体はユウレイとなり、人間の生血を求めているそうだ。

 便所の位置というのはなかなか冴えているが、考えると夜、便所にいかれなくなる。
 お尻を出すと、尻の穴から生き血を吸われそうな気分になる。


 ゾッとしたつもりで娘に訊ねた。
 「あれ本当だろうか」
 「本当よ」
 「へえ、それでおまえ怖くないのか」
 「それがおかしいのよ。自分でつくった話だと怖くないの」



 これは"あとがき"ではない。
 中にはさむので"なかがき"である。


 つまり、続編があるということである。

 そこでさっそく、偶然にも日本にいる家のモノに「続」を送れとメールした。
 ちなみに、注文してある日本の名著の「空海・最澄」と「荻生徂徠」は後回しでいい、と書き添えて。
 あああ、なんと自堕落になってしまったことか。

 本の後ろにはシリーズもので、「無人島日記」も刊行予定とある。
 ついでにこれもと思った。
 がしかし、検索してみたところ、発売された形跡はない。
 どうもケンボッキ島は「無人島記」の上下巻(あるいは正続)2冊らしい。

 付け加えると主人公ゴロウの"準"名称は「陸奥五郎」です。
 サムライみたいな名前です。
 「陸奥五郎源為五郎」なんちゃって。
 でも、一般にはカタカナ表記されています。


 ケンボッキ島はグーグル写真で見ることができます。
 また、らしいウソをこく?
 残念なことに解像度が悪く、OK号は写っていません。
 やはり、ちゃんと逃げ道をこしらえている。

 このお話から1/3世紀以上はたっていますので、浜で朽ち果ててしまったかもしれませんが。
 ヘノキなら三十年たっても腐らないはずだが。
 もちろん、建造からは更なる歳月が経っています。
 キリターフの浜に放置されて十年ですから、少なくとも四十年、北の海を荒らしまわった年月を入れると少なくとも半世紀の歴史が流れていると思われます。
 うまいこと言うもんだ。



● ゴロウの無人島記

 ところでこのお話、どこまでが本当で、どこまでがジョーダンで、どこまでがパロデーなのだろうか。



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【追記】


 大あとがき

 大舟長だから大あとがきを書く。
 懐かしい「大舟長」という称号をこの世にとどめ置くために。

 私は大舟長だから、人にダマされるのは得意だが(?)、私ごとき人間が大舟長だと名乗れるのは、人のいない島だからである。

 困苦欠乏に耐え、水や雪をすすり、幽鬼のごとく痩せ衰えるべきであった。
 ところが住んでみると、島には命がけで生きさせる何かがあった。
 私たちは自然と語る「神がかりの技術」を開拓しつつある。
 私はまた美貌の持主だから一目見たら当分病気にかからないという噂もある。

 さて、島から陸へ上陸したのは、悲願を達成するために島が手狭になったからである。
 結局のんびりしたものしか残せなかったけれど、毎日ぼんやり海を眺め、鼻くそをほじって丸め、
 「生きてるって、鼻くそも生産することだなあ」
と確認した。

 つけ加えて置くけれど、私は簡単には死なない。

 それからゆっくりケンボッキ島に帰るだろう。
 人生の日暮れに帰るにふさわしい島よ、その時まで噴火などせずに待っていてくれ。
 それではいよいよ筆を置く。

 
 昭和四十七年六月    元大舟長・現動物王国大王




● 続ゴロウの無人島記



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2008年11月9日日曜日

和蘭医事問答4:読むたびに涙する


 ● 和蘭医事問答:[慶応義塾所蔵貴重コレクション]より


 和蘭医事問答4:読むたびに涙する
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 玄白はこれに丁重な返書をしたためる。

 おそらくそれは、幕府の脅威におびえながら、自分たちのやったことを誰かに見てもらいたい、知ってもらいたいという、感情のほとばしりからくる饒舌に近いものではないかと思う。
 そのとき玄白は、自分たちの仕事を誰にでもいいから、しゃべってしゃべってしゃべりまくりたい、書いて書いて書きまくりたいといった心境にあったのではないだろうか。

 そこに見知らぬ人建部清庵の手紙が舞いこんできた。

 おそらく玄白は相当なのめりこみをもって、疑問に対して微塵も残すところなく応答するといった心情で、答書を書いたのではないでしょうか。
 そうすることによって、玄白みずからの幕府の脅威に対する精神的安定を図ったのではないかと思うのです。

 「第二信」を抜粋で。


 杉田玄白からの答書:安永二年正月(1773) 江戸発
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 建部清庵先生、オランダ流外科医についての御不審の数々、逐一拝見いたし、まことにもって感銘いたしました。
 遠く異郷に相いへだたっており、一度も御面識もございませんのに、先生は実にわが党の知己でいらっしゃいます。
 これこそ千載の奇遇と申すものと存じ、さっそく御不審にこたえてわたくしの存じておりますころどもを左にしたためて、御返事申しあげるしだいでです。

 オランダ人が年々日本にやってくるというくだり───
 外科医というのはたしかにいるようだが内科というのは見かけぬとの御不審──
 オランダでも風・寒・暑・湿云々があるはずだ、とのくだり───
 だいたいの治療のしかたは───
 オランダの本草書についてのくだり───
 医書はたくさん渡来してきているのかとの御不審───
 日本にはオランダ外科の伝書というものがたくさんある云々のくだり───
 オランダ文字は日本のいろはと同じとのくだり───
 辞書というものはなぜそんなにたくさんあるのかと、御不審をおもちになるかもしれません、それは──
 言葉には雅俗の違い、方言の差などあるはずだとの御不審───
 これまで伝わりましたオランダ流の外科書では、薬名が一様でないとのこと、御不審───
 いま世間でオランダ外科と呼んでいる医者どもは、‥‥とのお考え───

 二、三年前のこと、はからずも、前に申しましたクルムスという人の著した解剖の本を手に入れて、まずその挿図ばかり見ていましたところ、内臓の形にせよ、脊椎の数にせよ、わたしがかねて知っておりましたところとちがいますので、不審に思っておりました。
 ちょうどそのころ、処刑後の屍体を解剖なさるという人がありましたので、これさいわいと思い、その人に同伴して行って、見学いたしましたところ、内臓・骨格いずれについても従来のシナの所説は大ちがいです。
 そこで蘭書の図にあわせてみますと、こちらはまるで鏡にうつしたように、寸分のちがいもございません。
 このとき私どもは心中に無限の想いがこみ上げるのを感じて、一つの志を立てたのであります。

 私どもは右前野良沢氏を盟主として集い、むかし字引き一冊をたよりに…、クルムスの本の吟味をつづけました。
 ところが、まことに「昧からざるものは心」とか言いますとおり、この医書がしだいにわかるようになってきました。

 私どもの見解によりまして翻訳をいたし、ようやく「解体新書」という五冊の訳書ができあがりました。
 まだ原稿の照らし合わせなどすんでおりませんので、印刷にまわしてありませんが、近々のうちにできあがる予定でおります。

 この書物の要領を示した「約図」の方はできましたので、この手紙といっしょに御覧に入れます。
 これでおおすじのところは御推察ください。


 これまで私はシナの書を精密だと思い込み、それによって日本流外科をうちたてようとしかけていたのですが、ここでそれをとりやめにし、ぜひともオランダ正流の医学をうちたてねばならぬと固く決心したしだいです。
 それでまず、人体内部の構造こそ医学の根元でありますから、右のクルムスの書から翻訳をはじめたのであります。
 若い元気な人たちもおりますから、数年後ののちにはオランダ流の医術が成就できるものと考えております。

 最後になりましたが、オランダ船に乗ってくるような者はたいがいは世間のことわざでいう馬奴船脚(うまかたせんどう)のたぐいの人間にちがいない、それに雇われてくるような医者のことだから、上手の者はめったにこないだろうという御説、御不審はごもっともだと存じます。

 しかし、実は、かの国の風習では外国に出かけますことをひじょうに喜びます。
 すなわち国王が資金を出して仕立てる商船でありますから、わが国にまいりますカピタンと申すものなどは、公益を総括する役所の官吏でありまして、なかには高貴な身分の者が来ることさえあると聞いております。
 正保のころにまいりましたカスパルという医者などは、なかなかの名医だったと見えて、オランダ側の書物にも評判がのっております。

 以上数条、老先生の述べられました御不審につきまして、それがあまりにも深くうがった御不審であることに驚き感銘いたしましたため、私どものこれまで考えておりましたことどもや、ひそかに自負しておりますことどもまで、先生の御意向のほどもかえりみず、あれこれと申し述べてまいりました。

 このような私どもの気持ちがなにとぞ先生のみもとにとどきますようにと願っております。
                                   以上
  安永二年正月



 解体約図
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 凡例
─────
 だいたい、図のなかの説明はこまかすぎない方がよい。
 そのため各部分に甲乙などの字をつけ符号とし、各条の説明の方にも符号の字をしるしておいた。
 両方を照らし合わせて見ていただきたい。
 内臓・血管・骨格はそれぞれ別紙に離して図示した。
 これらを重ねあわせて透かしてみれば、各部分の全構造がわかるようになっている。

甲:両肺(肺臓)呼吸をつかさどり、血液の運行を助ける。
乙:心(心臓)血液をつかさどる。
丙:隔膜(横隔膜)旨と原とのさかいをなし、あわせて呼吸をたすける。
丁:胃 飲食物を受けとめる。
戊:大幾里児(膵臓)シナ人がまだ説いていないもの。オランダ名の音訳。
  胆嚢につらなり、飲食物の消化を助ける。
巳:肝(肝臓)門脈からの血液を受け、胆嚢をたすける。
庚:胆(胆嚢)十二指腸につらなり、飲食物の消化をたすける。
辛:脾(脾臓)肝臓や胆嚢を助ける。
壬:薄腸(小腸)いわゆる小腸である。
 木:十二指腸
 火:化腸(空腸)
 土:回腸
  の区別がある。
  飲食物の消化をつかさどる。
発:厚腸(大腸)いわゆる大腸である。
 金:盲腸
 水:直腸
  の区別がある。
  食物はここまできて大便となる。
東:門脈 シナ人がまだ説いていないもの。オランダ名の意訳。
  腸から始まり肝臓や脾臓に入ってゆく。
西:奇婁管 および科臼(乳*管と乳*槽)シナ人のまだ説いていないもの。
  オランダ名の音訳。
  飲食物中の養分を受け、それで血液に化することをつかさどる。
南:両腎(腎臓)水分と血液を分別する。
北:膀胱 小便を排泄する。
天:動脈 血液が順行する道路。
地:血液(静脈)シナ人が説くところの「青脈」である。
  血液が逆行する道路。


☆ 臓腑(内臓)
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☆ 脈絡(血管)
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☆ 骨節(骨格)
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 そもそも人の生命というものは、外から栄養をとって保たれている。
 外からの栄養とは、つまり飲食のことである。
 飲食物が口に入れば、その中の養分は液となり血となって、体内を循環し周流する。
 それによってこそ身体は生育するのである。

 最初はまず胃に入って、そこから十二指腸に送られ、そこに大幾里児(膵臓)の分泌液や胆汁も入って一緒になる。
 そしてともに空腸を経るうちに混和され、廻腸を経て消化吸収される。
 養分は外に溢れてゆき、それは液(乳*)となって奇婁管(乳*管)で運ばれて、上部の奇婁科臼(乳*槽)に集まる。
 そこでようやく血液と化して、欠盆骨(鎖骨)の下までのぼって動脈に交わる。
 もともと血液は心臓から出て、左右両肺の中をめぐり、その肺によって鼓動する力をえて、動脈の大幹に入るのである。
 動脈によって順行していって各部分の微細なところに注ぎこみ、血脈(静脈)の微細なところに伝わってゆく。
 そしてそれによって逆行していって静脈の大幹に至り、また心臓に帰る。

 心臓に帰ってはまた出てゆき、終わってまた始まる。
 円環に端がないのと同じである。
 腎臓は静脈の大幹の左右につらなっていて、血液中の水分をとり分けてそれを膀胱に送る。
 門脈は腸の中で血液を受け集めて、それを肝臓と脾臓とに伝えるのである。
 肝臓はそれを受けて胆汁をつくる。
 膵臓は門脈と動脈との支脈につながり、そこから養分を受けて膵液をつくる。
 厚腸(大腸)は飲食物の滓を受けて、それを直腸に送りこむのである。

    安永二年春正月
    書肆 江戸室町三丁目 須原屋市兵衛板



 この情熱溢れる、かくも丁寧な手紙を受け取った建部清庵は狂喜し、涙をとめどもなく流し、長いこと手紙を肌身からはなさず、出しては見、見ては懐にいれ、眺め暮らす日々をおくったという。


 その様子を「和蘭医事問答 序 (大槻玄沢)」から抜粋します。


 私は少年のころから建部清庵翁について学んだ。

 翁がそのころいつも嘆いて語っていたのはつぎのようなことだった。
「私のおこなっている外科医術では、むかしからいまにいたるまで、日本・シナのどちらの国にもこの道をきわめたといえるような者がいたためしがない。
 この分野でのわが国近世の名家といわれるような者でも、、その医論の大部分は長崎の通詞から聞いてつくりあげた説にすぎない。
 ここに問題にするにもたりない。
 直接にオランダ語を学んでそのうえでオランダの書を訳すのでなければなるまい。
 そうしてこそ、その医学の真理をとらえることもできるのであろう。
 しかし、この私にどうしてそのような能力のある人物を知りえて、その人とともにこのオランダ医学研究に従うことなどできようか。
 私は年老いてしまった。
 この志を果たすことはもうおそらくできないであろう」

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 伯竜(衣関甫軒)は手紙を玄白先生のもとにとどけた。

 先生(玄白)はこれを読んで------。
 そこで自分の仕事の「意義を明らかにすべく」答書を書き、翁に送った。
 安政二年の年のことであった。

 翁はこの答書を得て、よろこびのあまり気も狂わんばかりであった。
 その手紙をただ宝物のようにありがたがるばかりでなく、くり返しくり返し読んでは何ヶ月ものあいだ手から放そうとしなかった。
 長年来の心の患いも、これでほとんどなおってしまったのである。

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 令息亮策氏と私茂質を江戸にやり、先生のもとに入門させることになった。
 私どもはこうして二人ともども塾生となって、先生の医論を聞くことができたのである



 そして、これに対する「第三信」が建部清庵からとどく。
 この往復書簡集のクライマックス。

 老耄至愚の眼力を以って申し上げ候儀、恐入り候へども、他流は存ぜず、和蘭流においては、古今無双真の大豪傑、文王を待たずしておこると申し候は、先生の事を申すべからんと存じ候。
 御恵与下され候約図拝見、覚えず狂呼、口ひらきて合わず、舌はあがったまま下がらず、瞠若たる老ぼう頻りに感泣仕り候。

 の手紙である。


 抜粋でみていきます。


 建部清庵からの問書:安永二年四月九日(1773)、奥州一関発
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 御面識もございませんが、一書を差しあげます失礼をお許しください。

 かねて衣関甫軒に託しておりました私の長年来の疑問をしるしました一冊子が、さいわいにも大先生の目をけがすことになりましたうえに、各条の疑問について御懇切な教えをいただき、深謝にたえません。

 特に御翻訳の「解体新書」の約図の恩賜にあずかり、はじめて拝見いたしまして、驚き入りました。

 この愚かな老いぼれの心を深く御憐察くださいまして、お仕事がお忙しく寸陰を惜しんでお励みになっておられるなかから、あのように御丁寧な御示教をたまわり、おかげさまで、年ひさしく小雨の降りつづけていた空がにわかに雲はれて青空が望まれてきたような心地、まことにもってお礼の気持ちは筆に尽くしがたく、ただただかたじけなく思っております。

 世間にはそんなにもたくさんの蘭書があることを、この年になるまで知らずにおりました。
 ほんとうの田舎翁で一生を暮らしてまいったわけですが、いただきましたお手紙の上ではじめて蘭書の題目をうかがっただけでも、四十余年来の素志がむくいられた思いで、嬉しくてなりません。

 オランダ文字のこと、薬品名が統一されていないわけ……おおよそのところよくわかりました。

 先生は、オランダの解剖書を御覧になって御不審をいだかれ、刑屍体を解剖させて見られたところ、シナ人の説はたいへんな間違いで、オランダ人の図の示すところは寸分の違いもなく、さらにその説明もはなはだ精密であることに気づかれて、ついに決心して「解体新書」の御訳述をなされたとのこと、逐一くわしくお教えくださいましたその経緯を、私はいちいちうなずきながら拝読いたしました。

 私のような老いぼれの愚か者の判断をもって申しあげるのは恐縮に存じますが、他の流儀ではいざ知らず、少なくともオランダ流では、古今無双の真の大豪傑が文王の出現を待たずにして登場するとは、まさに先生のような方こそ申すのであろうと存じました。

 そして御恵与くださいました「約図」を拝見しまして、私は思わず狂呼しました。
 口は開いたまま合わず、舌はあがったまま下がらず、みひらいた老いの眼にはただ感激の涙が流れるばかりでございました。

 オランダ人が日本に来はじめたのはいつのことかよく知りませぬが、二百年はど前のことでもありましょう、それ以来今日までかの国の医書を翻訳してみようと考えた人がなかったというはずがない、いまごろはきっとすでに翻訳書も出ているにちがいない、などと常日ごろ弟子たちに語っていたのでありましたが、その私の憶測にたがわず、大先生がいらっしゃたのです。
 この私のよろこびは、盲の目がにわかに開き、いざりの足が突然立ったといういうようなありさまでした。

 この老いぼれの私も、かねがね魔神祓いの祈祷師にすぎぬ身を嘆いておりましたところ、この先生がたの御盛挙のおかげで、正真のオランダ流外科の一家がたち、本尊もあり宗旨もあることになりました。
 インチキな祈祷師であることをやめ、本当の医学治療の世界を自信をもって独歩したいというのが、私の多年の願いでありましたが、それがいまかなえられて、私はよろこびに躍びあがらんばかりでございます。

 正保年間に来日したカスパルという医者は上手の者で、解剖書には同人の著したものもあるとの由、はじめてうけたまわって納得いたしました。
 カスパルから伝わったという書も見たことがありましたが……日本の医者の文盲のために、オランダの名医までこんな下手に仕立ててしまったのは、罪なことだと思います。

 先生は、日本にはもちろんシナでも周代以来絶えすたれていた医道をいま復興なさろうとして、一家をお立てになさるのですから、衆愚は口やかましく非難して、金をも熔かし骨をも消す勢いの讒言を言い立てるであろうかと思われます。
 まことにさしでがましいことではありますが、その辺を十分に御考慮下さり御用心下さいますよう、願っております。

 申しあげたいことは山ほどございますが、嫌いの悪筆悪文のうえに、老人となりましては長い文章の筆をとることさえままならぬ身でありますので、代筆をもって申しあげました。
  なにとぞよろしくお察しくださいませ。
                       恐惶謹言
   四月九日

 なを、私は多年のあいだ世間なみのオランダ流を勤めてまいりましたために、不学文盲の身、かなまじりの文でお手紙をしたためました。
 今後ともこの点はなにとぞ御容赦くださいませ。
                       以上



 玄白からの返書としての「第四信」も大半は医学的な回答で占められている。
 その部分は抜かして手紙の頭と後を抜粋します。

 「第四信」を抜粋で。


 杉田玄白からの答書:安永二年十月十五日(1773) 江戸発
────────────────────────────

 昨年、衣関甫軒氏がおとでけにくださった、従来の御疑問をしるされたお手紙を拝読し、一、二の点につきましてお答え申しあげましたところ、先生のお手もとに無事とどきましたそうで、このたび、去る四月九日づけのお手紙を拝誦いたしました。

 前のお手紙ににありました先生の多年の御疑惑につきまして、その一つ一つに感服いたし、、はばかりながらこれこそ同志のかたと存じあげましたため、私の考えますところを先生の思召しをかえりみず勝手に申しあげたのでありますが、このたびはそれにつきましても縷々過褒のお言葉を頂戴し、まことに汗顔のいたりでございます。
 むかしから、たとえ千年ののちでも自分の志を知ってくれる知己を得るということが、士君子のなによりの望みとすることでありましたが、この私はすでに生涯のうちに先生のような鐘子期にめぐりあうことができました。
 これこそ世にもまれな大幸と、おもわず躍りあがらんばかりです。


 このような世情のおりから、「解体新書」出版のあかつきには衆愚は口やかましく騒ぎたて、金を熔かし骨をもとろかすほどの非難讒言を浴びせられたりするかもしれぬから、大いに用心せよとの御忠告、先生のありがたい御親切に感泣いたしました。
 いずれにしても剣を按じて私どもを待ち伏せしている人は多いにちがいありません。
 しかし、そうは申しましても、敵陣に「一番槍を入れる」には、自分も「敵の槍玉にあがる覚悟」がなければできるものではありますまい。
 たとえそうなっても、一人でも相手を槍で突き刺すことができたら本望のいたりと存じます。

 一度着実な、実証にもとづく説を唱えておけば、いつかは、千年来おかしてきた誤りが改められる日もくるにちがいないと、ただそう期待しているまでのことです。

 まだまだ申しあげたいことは山のように、林のようにございます。
 筆紙に尽くしがたい気持ちではありますが、お手紙への御返事かたがたこれまでといたします。
                       恐惶謹言
十月十五日



 玄白は手紙のなかでは、かれらのもっとも緊急の問題である幕府の鎖国政策に対するおののきをまったく語っていない。

 建部清庵の手紙で「衆愚は口やかましく非難して、金をも熔かし骨をも消す勢いの讒言を言い立てるであろう」から用心せよと言っている。
 これを受けて、対象を幕府に置き換えて、最後の部分で敵陣に「一番槍を入れる」には、自分も「敵の槍玉にあがる覚悟」と、大言壮語しているように見える。
 悲壮感ともとれる。

 いいかえるなら、幕府の恐怖にたいする不安をなんとかおしとどめようとする武者ぶるい、あるいは非常時の自己への納得と諦めを表している。
 もし、清庵の手紙にそういうような周囲の家者連中の懸念を表現する文がなければ、決して書かれることのなかった感情のようにもとれる。

 医者連中の懸念だけなら、もっとサラリと受け流していたのではないだろか。
 解体約図出版後の医家連中の動きを「冬の鷹」はこう書いている。

 当然予想していたことであったが、医家たちの態度は、冷淡だった。
 無名の医家である杉田玄白らの発刊した解剖図を黙殺しようとする空気が支配的であったのだ。


 医家連中の態度は、玄白にとってほとんど考慮するに値するものではなかったのである。
 はるかに心理的圧迫となっていたのは、幕府の動きではなかったろうか。
 「実証にもとづく説を唱えておけば、いつかは、千年来おかしてきた誤りが改められる日もくるにちがいないと、ただそう期待しているまでのことです」
と言って、もし何かがあっても、われらがやったことは間違いではないと、自己に言い聞かせているようにもとれるのである。


 まあ、そういういらぬ詮索は抜きにして、いつ読んでも感激に涙する手紙なのです。


 最後に「跋」を抜粋しておきます。


 和蘭医事問答跋
──────────
 この手紙は、亡父建部先生があるとき暑さをまぎらわせようと、ふだんから心に思っていたことを書きしるしたものである。
 はじめは一篇の述作にしようなどという気持ちはなかったようだが、弟子の衣関甫軒が江戸から帰郷したとき、これを書きあらため彼に託した。
 甫軒はしばらく郷里にいただけで、また江戸に留学し、この手紙をもって杉田先生をたずねた。
 安永二年の歳、杉田先生からの答書を得て、父ははじめて心が晴れたという様子であった。
 これは私がまだ垂れ髪の七、八歳の少年のころ、目のあたりにしたことである。

 杉田先生には男の子がなかったので……ついに私が養子となり、二十歳の私が杉田氏を名のることになった。
 最近は先生のお仕事は世間にひろく知られるようになり、先生の門に学ぼうという者が日ごと各地から集まってくるようになった。
 先生はするとまずこの書簡を彼らに示して、この学問への入門の心得を与えられるのである。

 私はこれが筆写されるたびに種々の写しちがいがあるのではないかと心配していたので、大槻玄沢君と相談して、これを一冊の本として刊行することにした。
 家塾に貯えて門人たちに配り、その筆労をはぶいてやろうという願いからである。

 本書の説くないようについては、世の識者の高見を待つのみである。

     寛政甲寅六年(1794)三月
                       不肖の息子 勤 敬識




 <おわり>




*].
「日本の名著<22>杉田玄白・平賀源内・司馬江漢」に掲載されている杉田玄白の著作をリストしておきます。
 日本の名著はどこの図書館でも置いてあり、中古本ならamazonで千円ほどで手軽に購入できますので、機会がありましたらぜひ読んでみてください。

 1...蘭学事始
 2...解体約図
 3...「解体新書」凡例
 4...和蘭医事問答
 5...狂医の言
 6...後見草
 7...野叟独語
 8...犬解嘲(げかいちょう)
 9...形影夜話
 10..玉味噌
 11..耄耋独語(ぼうてつどくご)
 12..玄白の詩歌


● 日本の名著22:杉田玄白他
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2008年11月1日土曜日

和蘭医事問答3:漂流する遺書


● 建部清庵:[早稲田大学図書館]より
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 和蘭医事問答3:漂流する遺書
━━━━━━━━━━━━━━━━

 読むたびに涙を流すのは「和蘭医事問答」である。

 杉田玄白と建部清庵との間でやりとりされた四通の手紙である。
 といっても最初の一通目は玄白宛ではなく、質問状として江戸の医者に向けて発せられたものである。
 たった四通の手紙なので、繰り返し読んでいるが、本当に読むたびに涙してしまう。

 蘭学事始は八十余歳の玄白の回顧談である。
 が、和蘭医事問答はまさに解体新書翻訳当時の生の記録である。
 そこにあるのは、人生をかけた、あるいはかけてきた二人の医師の情熱のほとばしりといっていい。
 感動なしには読めない手紙である。


 江戸の医者に向けられた質問状が玄白の家に届いたときの様子を抜書きしてみよう。

 蘭学事始ではサラリと簡単に書いている。
 玄白がその当事者ではそうなってしまうのであろう。

 「解体新書」がまだ出版されないうちのことだったが、奥州一関藩の医官で建部清庵という人が、はるかにわたしの名前を聞き伝えて、ふだんからいだいていた疑問を書きつけて送ってよこしたことがあった。
 その手紙にしるされたことがらは、わが業とする医学についてまことに感服することが多く、これまでたがいに知り合った間柄でもないのに、わたしとまるで同じ志が述べられている。
 まさに、千里へだてていても心はひとつ、の思いであった。


 冬の鷹から。

 玄白は、或る日玄関に立った貧しい服装をした青年の姿を不審そうに見つめた。
 青年は、東北訛り強い言葉で来訪の目的を述べた。
 その眼には、燃えるような熱っぽい光がみちていた。
 青年──衣関甫軒は奥州一ノ関藩田村候の侍医建部清庵の塾生で眼科の勉強に専念していた。
 建部清庵は漢方医であったが、オランダ流医学に強い興味をいだき----。

 清庵のオランダ流医学に対する関心は高まる一方で、たまたま江戸に医学取得のためおもむく門下生衣関甫軒に、オランダ流医学に対する疑問をしるした質問書をわたし、江戸のオランダ流医家の回答を得てくるように依頼した。

 甫軒は、六十歳に近い老師の念願をはたすため江戸の町々を歩いたが、それはすべて徒労に終わった。
 が、帰省の日がせまったころ、かれは江戸にオランダ流医学を講ずる者がいるという話を耳にした。
 甫軒は、師の念願をはたすことができると思ったが、医家たちは、
 「たしかにそのような話は耳にしているが、いずれのだれやらは…」
と、頭をかしげるのみであった。

 やむなく甫軒は一ノ関にかえり、その話を師の清庵につたえた。
 清庵はよろこび、質問書にさらに加筆したものを、ふたたび江戸におもむく甫軒に託した。
 それは明和七年六月中旬のことであった。

 江戸に出た甫軒は、「オランダ流医学を講ずる者」を求めて、医家たちを歴訪した。
 しかし、それは単なる噂にすぎぬらしく目的の医家にめぐり会うことはできなかった。

 二年余が経過し、師から託された質問書はボロボロになっていた。

 明和九年(安永元年)秋をむかえた頃、甫軒は、江戸の医家の間に妙な噂が流れているのを耳にした。
 それはオランダ医書を少人数の医家が寄りあつまって訳出につとめているらしいという風聞であった。
 甫軒は、その源をさぐることにつとめたが、実体はつかめなかった。

 かれは、失望し、それもう浮説にすぎなかったのだと思ったが、年が明けて間もなく、かれは須原屋を版元にして「解体新書」という解剖図が刊行されるという話を耳にした。
 それは、オランダ医書を翻訳したもので、その書の責任者が杉田玄白という小浜藩医であることを突きとめた。
 甫軒はこの人物こそ師の疑問をといてくれる医師であると信じ、玄白の家を訪れてきたのである。

 玄白は、甫軒のさし出した建部清庵のしるした一書をひらいてみた。
 読みすすむにつれて玄白の顔に、感動の色が濃くあらわれた。


 甫軒が、「オランダ流医学を講ずる者がいるという話を耳にし、その話を師の清庵につたえ、清庵はよろこび、質問書にさらに加筆したものを、ふたたび江戸におもむく甫軒に託した」とある。
 それは明和七年六月中旬のこと。
 解体新書の翻訳を実行しようとしたのは、翌明和八年三月のことである。
 ということは、オランダ医学を講ずるものがいるという噂の主は玄白たちではなく、他の誰かということになる。
 それが誰であるかはわからない。

 よって蘭学事始のなかで「奥州一関藩の医官で建部清庵という人が、はるかにわたしの名前を聞き伝えて、ふだんからいだいていた疑問を書きつけて送ってよこした」というのは、玄白の記憶違いであろう。


 もう一本、同じ場面を。
 なんでそんなに同じところをしつこく書くのかと思われるでしょうが、書きたいのです。
 なにしろ、タイプ打つ手も涙でぬれているのですから。
 ちょっとオーバーで。

 日本の名著の解説[芳賀徹]より抜粋で。

 蘭学事始が老学者の四十年前にさかのぼっての回想記であるとするならば、その創業当時の努力のただなかにあってしるされたなまなましい、劇的な記録が「和蘭医事問答」、すなわち奥州一関田村候の侍医建部清庵と玄白との「往復書簡四通」である。

 解体新書の翻訳がほぼ終わりに近かった安永元年(1772)の末、あるいは同二年の正月のころ、玄白のもとに見知らぬ医学生が一通の所管を届けてきたのである。
 それよりたっぷり「二年半」は前に奥州一関を発した、明和七年(1770)閏六月十八日付、未知の人建部清庵の署名の一通だった。

 玄白はいぶかりながら封を開け、読み進めていって驚いた。
 その内容は……

 この手紙の筆者自身、自分が行っている中途半端な蘭法を久しい以前から憂い、自分はいかさまの祈祷師と同じことをしているのだと嘆いてきたのだ。

 「江戸表には広きことなれば、先立ってこの道を建立したる人あるか。
 また、オランダ医書を翻訳したる人あるべし……。
 かやうの大業は都会の地にて豪傑の人起こり、唱え出さざれば成就せぬ事なり」

 もしすでにそのような書があるならば、わが身はもはや日暮れて道遠し、一日も早くそれが見たくて、このように「遺書」のつもりで、僻遠の地から「定かなあてもなく」江戸に向けて一書を託す。

 という文面である。


 ドラマチックでしょう、そう思いません。
 もう少し続けましょう。


 まさに玄白たちの「解体新書」翻訳の事業と端緒と意図とを、全部言い尽くしたような言葉であった。

 いま海に向かって放たれた一切れの木片のようなこの清庵の書簡が、一関と江戸の間を一、二度空しく往復したのちに、ついに玄白の手元に漂着した…。


 ● 杉田玄白:[早稲田大学図書館]より
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 玄白は抑えきれぬ感激をもって返書をしたためた(安永二年正月)。

 この玄白の答書に対して、ほどなく清庵からの第二信があった(同年四月)。
 それはもはや単なる医学通信である以上に、一個のヒューマン・ドキメントともいうべき熱烈な感動の文章であった。




 いよいよ涙なしには読めないという、「往復書簡四通」を見ていくことにします。

 まず「第一信」から。
 これは玄白宛ではなく、オランダ医学をやっている誰とはわからぬウワサの江戸の医家に対してのものである。

 日本の名著から抜粋で。


 建部清庵からの問書:明和七年閏六月(1770)、奥州一関発
────────────────────────────

一.オランダ人は年々日本にやってくるというのに、外科医というのはたしかにいるようだが内科というのは見かけない。
 オランダにはいったい内科の医者はいないのだろうか。

一.いくらオランダといっても、風、寒さ、暑さ、湿気などによる病気、またお産の前後など、なにかと病気はあり、婦人・小児の病気もないということはあるまい。
 日本でオランダ流と称するのは、みな膏薬・油薬のたぐいを扱うばかりで、腫れ物をひととおりなおすだけだというのは不審なことである。
 
一.オランダの本草学の書物があることは話に聞いているが、わたしのいるような片田舎では見ることができない。
 その書物をみれば、草木の形態も効能も「本草綱目」などと同じようにわかるのであろうか。

一.オランダの医書もたくさん日本に渡ってきているものなのだろうか。

 右にあげた四カ条は貴兄(衣関甫軒)こんどまた江戸に出られるときは諸名家に御質問くださって、その答えをくわしく書き付けられてわたしにお教えくださるようにしていただきたいのです。

 このほかにもオランダ医学のことについては年来不審に思っていることがいろいろあります。
 それにわたしはもう老いぼれの身ですから、またお会いできるかどうかもあやしく思われますので、前から貴兄にお話ししたいと思っていたことどもをとり集めて、筆にまかせてこまごまと左に書き綴っておくことにいたします。

 いまの日本には、オランダ外科伝書と称して八巻書、十二巻書、新伝の六巻書などと勝手に名づけたいろいろさまざまなものが、おびただしくある。
 外科医たちはそれをさもありがたそうにそれぞれの家の秘伝にしたりしているが、実はそれらはオランダ人の医者が著述したものではない。
 もともと医学のことはなんにも知らない通詞の口をとおして伝えられた問答だから、心もとない話である。
 だからほんとうのオランダ流医学とはとてもいえないものであろうと思う。

 オランダの医書が渡ってきたとしても、オランダ文字という言語を知らなければ用に立てようがなかろう。
 日本にも学識のある人が出てきて、オランダの医書を翻訳して漢字で読めるようにしてくれたならば、はじめて正真のオランダ流医学が成立し…、さらには婦人科や小児科の妙術も生まれてくるようになるにちがいない。

 「日本にも学識ある人出て阿蘭陀の医書を翻訳して漢字にしたらバ、正真の阿蘭陀流が出来、唐の書をからず外科の一家立ち、、その外婦人科小児科などの妙術も出べし」

 オランダ流の外科ばかりは、オランダを名のっていながらも、内実をみれば、みなシナの書から抜きとっては寄せ集め、こじつけたものにすぎない。

 これまでの外科医は、…中途半端なインチキの渡世業にほかならず、…いかさま坊主そのままというのがいまの外科医の体たらくなのだ。

 わたしはすでに若いころから、この外科医のありさまを憂いていたのだけれども、オランダの医書は見たこともない。
 たとえ見たとしても、翻訳でなければわかるはずがない。


 わたし自身はもはやすっかり老齢で、気力がおとろえて、日用のことでさえ物忘れするほどである。
 残った子どもたちは幼くて、まだ頼りにもならない。
 ただ弟子たちに、わたしが死んだあとでも、なんとかしてわたしの志をつぎ、独立の外科の一家をなせと教えているだけである。

 江戸は広い都会なのだから、もうとうにこの正統のオランダ流外科の道をうちたてた人がいるかもしれず、またオランダの医書を翻訳した人がいるかもしれない。
 もしすでにそういう本があるならば、さっそく見たいものだと思う。
 蘭書翻訳というような大事業は、都会の地に豪傑の人が出て唱えださなければ、到底成就しえないことである。

 「江戸表にハ広き事なれバ、先達而此道を建立した人あるか、又阿蘭陀医書を翻訳したる人あるべし。若し左様の書あらバ、早速見たきもの也。かやうの大業は都会の地にて豪傑の人起り唱出さざれば成就せぬ事なり」

 オランダ船が日本に来るようになった始まりは、いつごろだったか、年代は知らないが、およそ二百年ぐらい前のことだっただろう。
 それからいままでのあいだに、オランダ医書を翻訳するほどの人が一人もなかったということはあるまい。
 とすればいまごろはもう翻訳書があるのかもしれない。
 このような辺鄙な土地にいては見当もつかないのが無念なことだ。

 さてまたオランダ船には、たくさんの人が乗り組んでいるとの話だが、船長から水夫・舵取りのたぐい、それに商人たちだろう。
 その連中に雇われて船中で一応の治療をして渡世しているような医者に、たいした上手・名人はおるまい。
 また世間のことわざでも、「馬奴船脚:うまかたせんどう」といって船乗りのことをたいそう下劣なものと見なしているようだが、オランダでも船乗りはまさか貴人・公子ではなかろう。
 そして船医はそれに従って歩きまわるのだから、医者としてもきっと本国では、はやらぬ下手医者なのにちがいない。

 世のオランダ流のいい加減な点はいちいち言えないほどたくさんある。
 そんな点までしるしたくわしいオランダ伝書も、江戸や京にはあるかもしれぬが、この田舎にはない。
 それでわたしはオランダ流医術というものを信用する気になれないのだ。

 わたしは一生祈祷師同然のいかさま医者として朽ち果てるよりほかにないのだろう。
 江戸へももう二十五、六年出たことがないから、最近の様子はどうなのか、ちっとも知らない。
 むかし知っていた人たちもみな死んでしまった。
 江戸の様子を問うてやるべきあてさえもない。


 まだ、幼い子どもらが成長ののち江戸に出たならば、ここに語ったような趣を心得て、このわたしの志をつぎ、学問に精勤するように、万事伊藤松台と御相談のうえ、よろしくお導きくださるようにおたのみいたします。
 あれやこれやととり集めて長い話になりましたが、言い忘れることがないようにと、後事を託す気持ちでわたしの悪筆をもってしたためてきましたところ、字を書き落としたりしたところが多かったので最後に書きなおさせました。

 たとえ明日死んでも、この手紙の趣意にそって子どもたちをお世話くださりさえすれば、なんの遺恨もありません。
 それでこれはわたしの遺言と同様のものと考え、印章を押して差し出すしだいです。
  以上

 明和七年閏六月十八日        奥州一関  建部清庵  印



 この手紙が二年余の歳月を経て、玄白の手元に漂流してくるのである。

 最後の一行は強烈ですね。
 「遺言と同様のものと考え、印章を押して差し出すしだいです」

 差し出す相手とは、「誰とはわからぬ誰か」である。
 「定かなあてもない」見知らぬ相手である。
 おそらくいるはずであろう「誰かに」、老体を目一杯張りつくしている、そんな気迫が渦巻いている。
 建部清庵の「すごさ」、ですね。
 印章されたこの遺書は「誰とはわからぬ誰か」を求めて、二年余の間、江戸を漂流するのである。

 前に述べたように、この遺書を送りだしたとき、良沢たちはまだ翻訳の「ホ」の字にもかかわっていない。
 それは翌年明和八年三月の話で、九カ月も後のことになる。
 つまり、清庵は「見知らぬ人 玄白」に向けて遺書を送り出したのではない。
 他の別の噂の主に向けて出しているのである。
 清庵は、ただの「ウワサに向けて」遺書を差し出しているのである。

 さほどに、この老人の残り少ない人生における悔しさ、危機感がつのっていたということでもある。

 この遺書が江戸市中を漂流する間に、運よく良沢らの翻訳作業が動き始める。
 そして、二年弱の月日を経て完成間近に、この遺書が玄白の下へ漂着するのである。
 年月とは恐ろしものですね。
 それが涙を誘うのです。


 この建部清庵をWikipediaで見てみる。

 正徳2年生れ。
 享保15年(1730年)、19歳で仙台に遊学、4年後帰郷。
 その後、江戸に出てオランダ医学を学ぶ。
 その際、蘭方医の家として有名な桂川家に入門を願ったが、当時桂川家は弟子をとらないことにしており認められなかった。
 帰郷後、37歳で後を継ぐ。
 以来、一関を出ることはなかったという。

 清庵の医術は絶妙を極め、生前から、

「一ノ関に過ぎたるものが二つあり。時の太鼓に建部清庵」

と歌われるほどだった。
 なお時の太鼓というのは、御三家格の大名でないと認められない時の太鼓が、特別に一関藩に認められたことを指す。


 決して普通の医師ではなかったようです。
 その「過ぎたる者」が、己が知識のつたなさに絶望し、「定かなあてもない、誰とはわからぬ誰か」へ印章した遺書を送り出すのである。

 事実は小説より奇なり、ですが事実ですから涙をそそります。


 建部清庵について、
から

★ 民間備荒録(みんかんびこうろく) 『民間備荒録』(上巻)

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/024.html

 建部清庵(たけべせいあん)(1712―1782)は一関藩の医師でした。
 寛延(かんえん)年間と宝暦(ほうれき)年間の2度にわたる飢饉を体験し、食料に困った農民が餓死(がし)する姿を見て、「自分がふだん安心して生活できるのも農民のおかげである、このようなときにこそこの恩の何万分の一でも報いることができないだろうか」と考えました。
 そこで中国などの古い文献をもとに医師としての知識も加え『民間備荒録』(上下二巻)を書いたのです。
 宝暦5年(1755)、清庵43歳のときでした。

 この本の中で清庵は、ふだんからナツメ、クリ、カキなどの栽培をすすめているほか、一関領と周辺の山野に自生する植物のうち、トチの実、ドングリ、山菜な ど食料になる98種をあげ、食べ方を紹介しています(ハコベ、タンポポ、ツユクサなどの食べ方も載っています)。
 また、草や木の葉による中毒やヘビ・虫の 毒の解毒法(げどくほう)なども紹介されています。
 この本のおかげで、一関 藩では餓死する人がぐんと減ったといいます。
 16年後の明和8年にはこれらの植物の見分け方を知らせるため、特徴(とくちょう)を絵に描いて彩色した『備荒草木図(びこうそうもくず)』(上下二巻)も編集しました。

 建部清庵はまた、東北初の蘭学医(らんがくい)でもありました。
 『解体新書(かいたいしんしょ)』を訳述した杉田玄白(すぎたげんぱく)との往復書簡はのちに『和蘭医事問答(おらんだいじもんどう)』として本にまとめられ、医学を志すものの入門書といわれるようになりました。
 清庵の息子は玄白の養子となりのちに江戸の蘭学者として活躍しています。
 また、江戸で蘭学塾を開いた大槻玄沢(おおつきげんたく)もはじめは清庵に学んでいます。




<つづく>



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和蘭医事問答2:すべての咎はわれにあり


● 解体新書1:[Wikipedia]より
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 和蘭医事問答2:すべての咎はわれにあり
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 解体約図(日本の名著より抜粋)

 私はしばらく前からオランダの解剖書について研究し、数年の間その翻訳にあたってきた。
 今それは完成した。
 これを「解体新書」と名づけることにした。
 オランダ人が説明し、図で示すところは、およそ人体の百の骨格、九つの穴、内臓、筋肉、血管から皮膚や毛や爪や歯にまでいたり、それもあらゆる部分をこまかく分けて説き明かし、ひとつひとつ分類して図示している。
 まことにくわしい研究であって、それはシナ人がまだ説いていないところまでおよんでいる。
 その解説と図はみな「新書」にのせておいた。
 だがここでは、やがてその「新書」を見る人のために、まず臓腑(内臓)、脈絡(血管)、骨節(骨格)の全形を図示しておいて、その大略を知っていただこうと思ったのである。

  若狭 侍医   玄白杉田翼  誌ス
        同   淳庵中川鱗  校閲
        処士 元章熊谷儀克  図



 冬の鷹より

 「解体約図」が刊行された。
 それは三枚の紙に描かれた人体図で封皮につつまれ、「解体約図 全」と大きな表題がつけられていた。

 玄白たちは域をひそめて「解体約図」の反応をうかがった。
 まず、かれらが最もおそれたのは、幕府の態度であった。
 玄白たちは、不安にみちた眼をして良沢の家にあつまった。
 かれらは、今にも捕り方が家の中に荒々しく踏みこんでくるような不安におびえていた。

 「解体約図」の刊行は、幕府の堅持する鎖国政策と対決する性格のものであった。


 この解体約図は「解体新書」の刊行を予告した内容になっている。
 出たものを発禁ということもあり、前もって出版を許さず、という出方もある。
 幕府がどうでるか。
 彼らは恐々として日々を過ごした。

 冬の鷹より

 玄白らは幕府の咎めを恐れ、夜も眠ることができなかった。
 が、一カ月経過しても、幕府の動きはみられず、ようやく愁眉をひらくことができた。


 捕り方の踏み込みはなかった。
 ということは、出版刊行を幕府が容認したということになる。
 とりあえず解体約図は通った。


 が、出版後に「内容不穏当」で発禁、お咎めという可能性も大きく残されている。


 「解体新書」の出版準備をすすめたが、玄白は、その整理の段階でも幕府を刺激することのないような慎重な配慮を払っていた。

 その一例に符号の改変があった。
 紅毛談がおとがめをうけたのは、同書中にオランダ語のABC二十六文字がのっていたことが原因だとされている。

 玄白は二個の符号は危険だと直感した。
 キリストの十字架を連想させる。
 キリシタン禁制に神経過敏な幕府が、その二つの符号をとりあげてきびしく処罰を浴びせかけてくるおそれは多分にある。
 と言うより、世のみせしめのために重大な犯罪行為として玄白らに重罪を科すことが容易に想像できた。
 玄白はただちにその符号を排して、新しい符号にとりかえた。

 そのような慎重な修正もくわえたが、このまま出版すれば幕府のおとがめをうける可能性が十分にあった。

 そしてとがめをうければ、自分たちだけでなく、小浜藩侍医として藩侯にも同罪の累がおよぶことも考えられた。


 約図は図が主体であり、たった三枚の図とその説明でなんとか出版できたが、百ページに近い分厚い解体新書が、すんなり幕府の目を通り抜けるとは玄白にはまったく考えられなかった。
 なんらかの方法をとらねば、まず百にひとつの可能性もないであろうと思えた。

 冬の鷹からつづけます。

 「慎重に事をはこばねばなりませね」
 と、玄白は、鎮痛な表情でつぶやいた。
 「それで、私はも日夜考えあぐねましたが、おとがめをうけずにすむ方法は、ただ一つしかないと思い至りました」
 -----
 「それは、思いきってまずこの書を御奥へ献上するようつとめることです」
 玄白は断言するように言った。

 将軍家治への内献が可能になるには、厳重な審査がともなう。
 それは、最もおそれているい深い淵に自ら身を投ずるようなものであった。


 解体新書はまずはじめに将軍家へ献上されたのである。
 玄白自らが死地に身をおいたのである。

 が、それは受領された。

 さらに玄白は、慎重に二の手、三の手を講じていく。
 どこからでも「お咎めのいいがかり」はつけられるものである。
 できる限り、考えられる限りは根は塞いでおかねばならない。

 二の手は、京都の主だった公家への献上である。
 関白太政大臣、左大臣、そして武家伝奏にそれぞれ進献された。

 さらに玄白は、万全を期して三の手を打つ。
 幕府の老中への献上をくわだてるのである。
 幕府の中枢に座する六人に贈呈されたのである。

 この手配りは一級のものがある。
 杉田玄白ここにあり、といった感がある。
 そこまで、緊迫した状況にかれらは置かれていた、といってもいいだろう。
 さほどの手配りをしうる玄白がいなければ、解体新書が世に出ることはなかったのではないだろうか。
 オランダ流医家の秘伝書として人目に触れることのない蔵の中に仕舞われていった可能性もなきにしもあらずである。

 しかし、いくら上層部に献上したところで、それが免罪符になるわけではない。
 「くれたから貰ったよ」で終わってしまう可能性も大きい。
 「お咎めの恐怖」は決して消えはしないのである。

 腹をくくるしかないのである。
 最後に玄白は、もしこの書の発行に際して罪科が発生したとしても、責任は一人で負うことを宣言する。
 すべての手配を考慮したあとでも、天は玄白に微笑えまないかもしれない。
 そうなら災害は免れず、そのときはわが身一身のみにて負うしかない。


 三の手まで講じたあとに、ついに十回を越えるくり返しの推敲を経た「解体新書」が一般に刊行される。
 本文四冊、序と附図が一冊で計五冊。
 本文は「巻之一」が22枚、「巻之二」が23枚、「巻之三」が24枚、「巻之四」が26枚。
 あわせて計95枚である。
 
序と附図(訳図)を入れれば130枚を超える。


 ● 解体新書2:[京都外語大学付属図書館]より
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 ● 解体新書3:[歴史もの教材]より


 本文の巻之一から巻之四の冒頭には訳業の関係者の名前が記されているが、図を含めてそれに前野良沢の名前はない。

 冬の鷹より抜粋で。

 玄白は、感動に眼をうるませて五巻の書を愛撫し、飽きずにページをくりつづけた。

 骨ケ原刑場で腑分けを見た帰途翻訳を志してから三年五ケ月──。
 闇の中をてさぐりですすむような努力の閣下が、書物の山になったのが信じがたい夢のようであった。

 本文巻之一から巻之四の冒頭には「解体新書」訳業の関係者の氏名が左のようにしるされていた。

若狭    杉田玄白翼  訳
同藩    中川淳庵鱗  校
東都    石川玄常世通 参
官医東都 桂川甫周世民 閲

 玄白らは、良沢を翻訳事業の盟主とも師とも仰いだのだ。
 当然「解体新書」の著者名の筆頭には、良沢の名がしるされていなければならなかった。

 が、良沢の名はなく、代りに「訳」の部分に杉田玄白とある。



 解体新書の「序文」は長崎で良沢に解体新書の原本であるターヘル・アナトミアを斡旋した幕府大通詞吉雄幸左衛門が書いている。


 二君再配して曰く、これ和が功に非ざるなり、誠に先生の徳なり。
 敢えて請ふ、先生の一言を得て巻首に弁し、永く以って栄となさんことをと。
 余謝して曰く、章(吉雄幸左衛門)や惰夫、幸いに諸君の彊を以って曹丘となり、我れこの盛挙に与るを得るに生くるなり。
 深く以ってざんじくす。
 鄙辞を以って穢をその側に形すが如きは、章何ぞ以って敢えてせん。
 況んやこの書の行はれて、日月を掲げば、則ち天下自らその貴重なるを知るなり。
 章何ぞ以ってこを光価せんやと。
 二君可かず、遂に余の二君を識る所以の由を記して、もって序となす。
  安永二年春三月
          阿蘭訳官西肥
          吉雄永章  撰 [印]


 この中の「二君」とは、前野良沢と杉田玄白をさしている。
 ということは、この序文からいくと首謀者は二人で、良沢にも幕府の咎が及ぶおそれがある。
 これに対する策も玄白はとっている。

 彼は解体新書の中にそれを「意図的に書き記している」。

 「解体新書凡例」より(日本の名著抜粋)

 この書はオランダ人のヨハン・アタン・キュルムスが著した「ターヘル・アナトミイ」を訳したものである。
 考えてみれば、解剖は外科医学にとってもっとも肝要な基礎であって無知ですますわけにはゆかぬ事柄である。
 さまざまの病症の所在も、解剖によらなければ知ることができない。
 医学の道に進もうとする者は、だれでもまずこの解剖学から出発するのでなければ、けっしてものにならないはずだ。

 そこで私は、オランダ医書のなかから、とくにこの解剖学の部門を選んで翻訳し、初学者に提供することとした。
 これを端緒として新しい医学の道が定まるならばやがてすぐれた智恵がつぎつぎに発揮されるようにもなるだろう。

 まことに、私のこの仕事がここまでたどりつくことができたのも、まことに天の恵みによるものである。
 どうして人力のみで成しとげることができようか。
 このオランダ医学に志をもつ天下の人びとに対して、私はひそかに描く郭隗をもって任じ、その人びとの先頭に立とうと思う。
 そのために四方から非難・攻撃を浴びることになろうとも、それは辞するところではない。

 私は文章を作ることに慣れていない。
 そのため本書では、まず一応意味が通じるようにすることだけを眼目とした。
 これを読む人で、もしよくわからぬところがあったら、私の生きているかぎりでいつでも質問を寄せてくださってかまわない。
 私はよろこんでそれに応じよう。


 玄白はこの書の翻訳を、二君から彼個人一人の責任に置き換えているのである。
 つまり「すべての咎はわれにあり」と述べ、それ以外の者に罪が波及しないように、慎重な考慮を払ってこの凡例を書き残しているのである。

 「私の生きているかぎりでいつでも質問を寄せてくださってかまわない。私はよろこんでそれに応じよう。」
という最後の一文はそれを明白に物語っていると言っていいだろう。、
 すべてを「私に」と作為的に非難の矛先を自分に向けるようにしているのである。

 「なにかあったら私を責めろ、外の者は無関係だ」と陰に陽に言い切っている。

 これは個人的想像だが、上記の「これを読む人……よろこんでそれ応じよう」の部分は上層部に贈呈した版にはないのではないだろうか。
 上層部に贈呈するには、まるで不要の言である。
 あくまでも「上層部贈呈」では、「蘭語の本を翻訳しましたので、拝見ください」との儀であって、個人的な意見など入れていいはずがない、と思うである。
 もし下手にそういう言葉を入れると、逆に面倒なことになるようにおもえるのである。
 この部分、どうもとってつけたような感じがするのである。


 これにより、本当の訳者である前野良沢の名は解体新書から消えていくのである。
 そして日本の蘭学発展のひのき舞台からも。


 解体新書は「お咎めなし」であった。
 新書の刊行により、日本は怒涛のように蘭学に突入していく。
 杉田玄白の名のみが歴史にとどまることになる。



 蘭学事始が明治二十三年に再版されたとき、福沢諭吉がその序を書いている(日本の名著より)。


 「蘭学事始」再版の序 福沢諭吉
─────────────────────
 「蘭学事始」の原稿はもともと杉田家に一部だけあって秘蔵されていたのだが、それは安政二年(1855)の江戸の大地震のときに火事で焼失してしまった。
 医学仲間や杉田門下にも誰もそれを筆写していた者はなかったので、千載の遺憾事と皆ただこの不幸を嘆くばかりだったが、旧幕の終わりのころのある年、神田孝平氏が本郷の通りを散歩していたとき、たまたま通りがかりの聖堂裏の露店にたいへん古びた写本が一冊あるのを目にとめた。
 なにげなく手にとってみるとそれはまぎれもない「蘭学事始」であり、しかも杉田玄白先生みずからの手で書いて門人の大槻玄沢先生に贈られたものである。

 神田氏のよろこびようは想いやるに余りある。
 士はただちにこの発見を学友同輩に語ったが、同輩たちはいずれも先を争ってこれを写しとり、にわかに数冊の「蘭学事始」が誕生することとなった。
 それは、もうこの世にない人と思っていた友人の再生に会ったような気持ちであった。
 この再生を可能にした恩人はまさに神田氏であって、私どもがこの本とともにいつまでも忘れることのできない氏の功績である。

 この書中に記されていることは一字一句みな辛苦を語っている。
 なかでも、明和八年三月五日、蘭化先生(前野良沢)の宅ではじめて「ターフル・アナトミア」の本にうち向かったとき、
 「誠に艪舵なき船の大海に乗り出だしがごとく、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでになり」
 云々の一段にいたっては、われわれは読むたびごとに先人の苦労を思いやり、その剛勇に驚き、そのひたすらな熱情に感動し、感きわまって泣き出さぬ者はなかった。

 私はそのころ故箕作秋坪氏ともっとも親しく交わっていたのだが、この写本を手に入れて二人で相むかい、なんどもくり返してはこれを読み、右の一段までくるときまって二人とも感涙にむせんでしまって、あとは、無言に終わってしまうのであった。

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 単に先人の功労を日本国中に発揚することにとどまらず、さらに、東洋の一国たるこの大日本では、百数十年前の学者世界のうちにすでに西洋文明が根づき胚胎していたのであって、今日の進歩も偶然ではないのだという事実を、世界万国のの人びとに示すにたることでもあるだろう。
 内外の人びとはこの書を読んで、これを単なる医学上の一小記事と読み誤まらぬようにしてほしいものである。
 
 明治23年(1890)4月1日
         後学福沢諭吉謹んでしるす



 ● 蘭学事始:[歴史もの教材]より


 ここで福沢諭吉は

 「誠に艪舵なき船の大海に乗り出だしがごとく、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでになり」
 云々の一段にいたっては、われわれは読むたびごとに先人の苦労を思いやり、その剛勇に驚き、そのひたすらな熱情に感動し、感きわまって泣き出さぬ者はなかった。

と、書いている。

 ご存知のように福沢諭吉は緒方塾の塾頭。
 大阪緒方塾は蘭学塾。
 そこを出て、彼は23歳の時、江戸で蘭学塾を開いている。
 それが慶応義塾の起源といわれている。
 とすれば、福沢にとって蘭学事始は自分の学問の起端を担った祖の回顧録であり、辛苦の記録であり涙なしには読めなかったのだろう。
 彼はその後、蘭学から英学に大きく舵を切り、明治という時代を引っ張っていく。
 英学の先駆者といってもいい。
 蘭学事始は先駆を担うものの辛苦の記録と写ったともいえる。

 ちなみに、彼は豊前中津藩出身。
 前野良沢も同じ中津藩出身
 これは偶然か。

 吉村昭の冬の鷹も菊池寛の蘭学事始もすべて、杉田玄白の「蘭学事始」を基本資料にしている。
 そこから、どのような臭いをかぐかは作者による。
 そのかいだ臭いからストリーをつくり、主人公を生み出し、その心理を描写するのが作者の腕ということになる。

 真の翻訳は前田良沢がやった。

 だが、それを世に出したのは杉田玄白である。
 鎖国という閉ざされた世に、蘭学書という「とてつもない大物」を出版できたのは、ひとえに杉田玄白の器量によっている。
 玄白の「捨て身の器量」によっている。

 「責はわが身が負う、この一身どうなろうとも」

という捨て身さがなければ、解体新書は世に出なかっただろう。 
 その器量によって、解体新書は蔵に埋もれることなく、巷に流布し、それによって日本は世界への窓口を持ったのである。
 玄白の捨て身が窓を開いたのである。

 玄白は時代を担った、というより日本の未来の時代を切り開いた人物と評価してもしすぎることはない。 







付記★:『解体新書』(Wikipedia)より
────────────────────────────
 本文は4巻に分かれている。それぞれの内容は以下の通り。

* 巻の一
総論、形態・名称、からだの要素、骨格・関節総論、骨格・関節各論
* 巻の二
頭、口、脳・神経、眼、耳、鼻、舌
* 巻の三
胸・隔膜、肺、心臓、動脈、静脈、門脈、腹、腸・胃、腸間膜・乳糜管、膵臓
* 巻の四
脾臓、肝臓・胆嚢、腎臓・膀胱、生殖器、妊娠、筋肉
* 図は別に1冊にまとめられている(解体訳図)。


★ 「解体新書」初版本が 図書館書庫で見つかる
http://www.kyokyo-u.ac.jp/KOUHOU/113/topics.pdf
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/t122/image/1/t122s0001.html


 ● 解体新書4:[京都大学図付属書館]より


 
解体訳図は下記のサイトで

★ 「解体訳図」全頁  和本館 別館
http://homepage2.nifty.com/akibou/kaitaiyakuzu.htm







付記★:『重訂解体新書』(Wikipedia)より
────────────────────────────
 『重訂解体新書』(ちょうていかいたいしんしょ または じゅうていかいたいしんしょ)は、杉田玄白らが出した解剖学書『解体新書』を大槻玄沢が訳し直した書。
 寛政10年(1798年)の作。
 刊行は文政9年(1826年)。
 文章13冊と図版1冊よりなる。

 オランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』からの邦訳書である『解体新書』は、日本の医学史上画期的な本であった。
 だが、初めての西洋語からの翻訳という性質上、誤訳も多かった。

 その後蘭学が発展し、蘭語(オランダ語)研究が進んだこともあって、杉田玄白は高弟の大槻玄沢に『解体新書』を訳し直すように命じる。

 実際には、大槻玄沢を中心とする多数の蘭学者が関わったのであろう。
 寛政10年(1798年)にいちおうの稿は出来たが、刊行は大幅に遅れ、文政9年(1826年)となった。
 「付録」などの部分はその間に執筆されている。
 刊行時、杉田玄白は既に亡く、大槻玄沢はその翌年没している。

『重訂解体新書』は文章13冊と銅版画による図版1冊よりなる。

* (1)序、旧序、附言、凡例
* (2)~(5)巻の一~巻の四。旧版『解体新書』の本文に対応する。
* (6)~(11)巻の五~巻の十。名義解。用語を解説したもの。『ターヘル・アナトミア』の注釈の一部や、他の西洋解剖書からの注釈もまとめられている。
* (12)巻の十一。付録(上)。和漢の学説を大槻玄沢がまとめたもの。
* (13)巻の十二。付録(下)。大槻玄沢による解剖学雑録。

 総じて旧『解体新書』より字がきれいである。
 図版は京都の中伊三郎による銅版画。
 木版で刷られた旧『解体新書』と比べてはるかに鮮明になっている。
 なお、『解体新書』の図版表紙は、『ワルエルダ解剖書』の扉絵をもとに描かれたものだったが、『重訂解体新書』の図版扉絵は『ターヘル・アナトミア』の扉絵をもとに描かれている。


★ ふーきちのかわら板
http://fwu-kawaraban.sakura.ne.jp/kaitai/kaibou.htm
★重訂・解体新書
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_a0036/


  ● 重訂・解体新書:[早稲田大学図付属書館]より
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<つづく>





【 ○○○ 補稿 2008/11/24 ○○○ 】
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 インターネットを検索していたところ、解体新書より遡る90年前に医学書が翻訳されていた、ということを知りました。
 その写本は、解体新書より2年ほど前に出版されたという。

 それについての3つの記事をサイトから抜きだして、参考データとしておきます。


★ 東京大学付属図書館
  展示ケース18 和蘭全内外分合図  A00:6552
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2004/tenji/index-k.html
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 わが国で翻訳された最も古い西欧解剖図譜である。
 ドイツの医師レメリン (J. Remmelin) の著書「小宇宙図観 (Microcosmographicus)」の初版本(1613年刊)のオランダ語訳版(1667年刊)を原典とし、オランダ語の名通詞とうたわれ医学にも通じていた木本良意(庄太夫)が天和2年(1682)に訳出した。
 「解体新書」の出版を遡ること92年も前のことである。

 本書完成から90年を経た明和9年(1772)に、その写本が周防(山口県)の医師、鈴木宗云の手によって刊行された。
 この刊本は「和蘭全躯内外分合図」、「験号」と各々題する2冊からなる。
 前者が図によって構成された本体であり、それがここに展示されている。

 本書は、原典と同じく工夫をこらしたユニークな作りになっていて、3つの解剖図からなる。
 第一図には男女2体が向い合わせに、また第二図と第三図にはそれぞれ男、女が単独で描かれている。
 書名にある通り、各図とも折本形式をとっており、入子(いりこ)型に人体内部の臓器・系統が15枚の紙片で作られていて、それを表面から1つずつめくってゆくと、各臓器・系統の形や位置関係が容易に分かるようになっている。

 描かれた男女の容貌、髪型などは、原典の西欧人から日本人のそれに変えられているが、体つきのほうは西欧人風のままで、いささかアンバランスなところがユーモラスに感じられる。

 かのシーボルトも本書を手に入れて、ヨーロッパへ持ち帰ったといわれる。(山口先生)




★ ヨハン・レムメリンの人体折畳図  長崎県歯科医師会会史第一編
http://www.nda.or.jp/history/11edo/motoki.htm
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 長崎のオランダ通詞本木庄太夫(良意)(1628-97)は1682年(天和2年)に西洋の人体解剖図を翻訳し『和蘭全身内外分合図』を著しました。
 これは日本で最初の人体解剖図の訳書です。
 一般には前野良沢・杉田玄白の『解体新書』が最初とされていますが(教科書など)これより90年前です。

 しかし良意の『和蘭全躯内外分合図』は出版されず稿本のままでした。
 良意の下に訪れた遊学の医師が稿本の写しを持ち帰り、それを1772年(明和9年)に周防の医者鈴木宗云が校正し出版しました。

 良意は出島に派遣された商館医から教えを仰ぎ、原書はドイツの解剖学者ヨハン・レムメリンの『人体折畳図』をオランダ語訳したものでした。
 本の内容は各内臓の形を切り抜き紙片にし、これを重ね合せて、一枚ずつめくって内部をみるようにできていました。
 良意も同じように作り、別冊にその一つずつ訳名をつけ解説しました。

 医者でない良意が医学用語を翻訳する苦心は大変なものでした。
 漢方系の医学用語はありましたが、それには全くない部位の名称や機能を理解し、邦語の訳語を創造せねばならなかったからです。
 良意は翻訳の以前に医学の勉強を重ね、蘭医からヨーロッパ医学を学んだ後に翻訳しました。
 これは主流であった中国医方と西洋医方を結びつけたもので、日本に新しい医学の礎を築く偉業を長崎の一人のオランダ通詞が成したことには深い敬意を表わさずにはいらません。










★ 「解体新書」「和蘭全躯内外分合図」… 
  江戸医学書を公開 旭医大図書館が6日から
  北海道新聞:(2007/08/03 08:39)北海道新聞
http://megalodon.jp/?url=http%3A%2F%2Fwww.hokkaido-np.co.jp%2Fnews%2Ftopic%2F41416.html&date=20070803092208
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● 旭医大図書館が公開する江戸期の医学書。
  和蘭全躯内外分合図(左)は仕掛け絵本のようだ

 【旭川】
 旭川医大図書館(藤尾均館長)は六日から三日間、西洋医学普及の基礎となった「解体新書」や、仕掛け絵本の仕組みで人体の構造を紹介した「和蘭全躯(ぜんく)内外分合図」など、江戸時代の四つの医学書を同図書館で一般公開する。
 いずれも木版で現存数は極めて限られており、市民が目にできる貴重な機会となりそうだ。

 これらの医学書は、道医師会初代会長で医史学の研究家だった関場不二彦氏(故人)の蔵書の一部。
 同図書館が同大受験生向け学内見学会で、医学を志す動機付けに役立てようと、関場氏の遠縁で蔵書を引き継いだ鮫島夏樹同大名誉教授(札幌在住)から借り、一般にも公開することにした。

 解体新書は、ドイツ解剖書のオランダ語訳本「ターヘル・アナトミア」を蘭学医杉田玄白らが和訳し、1774年(安永三年)に全五冊で刊行した。
 初の体系的解剖学書で、現存数は数十点。

 和蘭全躯内外分合図もドイツの解剖書の和訳で、重ね合わせた和紙に皮膚や筋肉、内臓が順に描かれ、紙をめくると体内が分かる仕組み。

 他に国内初の解剖書「蔵志」や「解屍編(かいしへん)」も展示する。

 医史学に詳しい藤尾館長は「これだけの資料を一度に見られるのは通常は考えられない」と話す。




★ 本木良意(1628-1697) 長崎大学付属図書館
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/igakushi/nagasakioranda/nagasakioranda.html
─────────────────────────────────────────────
 本木庄太夫(榮久、剃髪して良意と号する)は通詞の名門本木家の初代である。
 J.レメリンの解剖図譜に依拠して解剖図と訳説を著した。
 1772年周防の鈴木宗云が見出し、『和蘭全躯内外分合図』と題して出版した。
 解体新書出版の2年前であった。
 山脇東洋の蔵志や杉田玄白の『解体新書』よりもはるかに早く17世紀において良意による日本最初の解剖図が筆写されて流布していたと思われる。
 シーボルトもこの書を持ち帰った。

 庄太夫は商館医ケンペルやライネに学び大通詞、通詞目付まで昇進した。



 なを、Wikipediaには「和蘭全躯内外分合図」ならびに「本木庄太夫(良意)」の項目はない。



【Top Page】




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和蘭医事問答1:「冬の鷹」




 ● 「冬の鷹」 吉村昭著
 <クリックすると大きくなります>


 和蘭医事問答1:「冬の鷹」
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 ジャパン・デーへいった。

 お目当てのひとつは出展されている古本をあさること。
 手に入れた中に吉村昭の文庫本の束があった。
 7冊で5ドル、日本風にいうと1冊70円。
 「ふおん・しいほるとの娘 上・下」のような厚手のものもあったが、大半は薄手のもの。

 その中のもっとも古いものが「冬の鷹」。

 奥付は「昭和51年11月30日発行:新潮社」
 「この作品は昭和49年7月毎日新聞社より刊行された。」とある。
 昭和51年というと 三十余年前で1976年になる。
 他の本で次に古いのは1989年であり、これと比べるととてつもなく古い。
 まず擦り切れたカバー縁をセロテープし、糊付けがはがれてページがバラけないように必要な箇所をボンドで補強する。

 裏カバーの解説をタイプしてみる。

 わずかな手掛りをもとに、苦心惨憺、殆ど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。
 出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する。
 わが近代医学の礎を築いた画期的偉業、「解体新書」成立の過程を克明に再現し、両者の劇的相克剋を浮彫りにする感動の歴史長編。


 つまりこの本は杉田玄白が訳したとされる解体新書の、正式な訳者である前野良沢を主人公にした小説なのである。

 「解体新書」といえば、日本の歴史教科書にも出てくる重大な書物。
 この本が出たことによって、鎖国の中で日本は一気に「蘭学」に突き進んでいく。
 それが、明治維新の学問的基礎になる。
 この窓口をもっていたからこそに、日本は直ちに西洋列強をターゲットにすることができた。
 西洋は遠くにあったが、ドアは開かれていた。
 そのドアを開き、学問的基礎の大本を作ったのが「解体新書」といって過言ではない。
 それは単に医学書の翻訳ではなく、西欧への道でもあった。

 解体新書の翻訳の経過は玄白の「蘭学事始」に書かれており、事情を克明に追うことができる。
 この本は書店に並んでおり、どこの図書館にもおいてあるので、文字を追った方も多いのではないかと思う。
 その中に確かに前野良沢の名は出ているが、でも世にはまるで知られていない。
 私もそういえばそんな名前の人がいたようだな、といった程度の記憶しか残っていない。
 冬の鷹を読んで、今回あらためて「前野良沢」という人物の歴史に残る業績を知ったといっていい。


 蘭学事始は玄白83歳のときに書かれており、解体新書は40歳のとき概略が完成している。 
 翻訳開始が39歳のとき、解体約図出版41歳、解体新書出版が42歳である。
 つまり、四十数年前の訳業の苦心を振り返って書いたのが蘭学事始といっていい。

 ちなみに「蘭学事始」を題材にした小説はこの吉村昭の「冬の鷹」のほかに、菊池寛の「蘭学事始」がある。
 Wikipediaにはこの2冊しか載っていない。
 日本史にとって歴史的事件であるが、小説のネタとしてはあまりいいテーマではないのかもしれない。

 この菊池寛の「蘭学事始」は下記のアドレスをクリックすれば、デイスプレイ上で読むことができます。

 その中から抜粋します。

★ 菊池寛「蘭学事始」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/497_19867.html

 彼は、中津侯の医官である前野良沢の名は、かねてから知っていた。
 そして、その篤学の評判に対しても、かなり敬意を払っていた。
 が、親しく会って見ると、不思議にこの人に親しめなかった。
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 それかといって、彼は良沢を嫌っているのでもなければ、憎んでいるのでもなかった。
 ただ、一座するたびに、彼は良沢から、妙な威圧を感じた。
 彼は、良沢と一座していると、良沢がいるという意識が、彼の神経にこびりついて離れなかった。
 良沢の一挙一動が気になった。
 彼の一顰(びん)一笑が気になった。
 彼が気にしまいとすればするほど、気になって仕方がなかった。
 それだのに、相手の良沢が、自分のことなどはほとんど眼中に置いていないような態度を見ると、玄白は良沢に対する心持を、いよいよこじらせてしまわずにはおられなかった。
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  刑場からの帰途、淳庵が感に堪えたようにいった。
「今日の実験、ただただ驚き入るのほかはないことでござる。
かほどのことを、これまで心づかずに打ち過したかと思えば、この上もなき恥辱に存ずる。
われわれ医をもって主君主君に仕えるものが、その術の基本とも申すべき人体の真形をも心得ず、今日まで一日一日とその業を務め申したかと思えば、面目もないことでござる
何とぞ、今日の実験に基づき、おおよそにも身体の真理をわきまえて医をいたせば、医をもって天地間に身を立つる申しわけにもなることでござる」

 良沢も玄白も玄適も、淳庵の述懐に同感せずにはおられなかった。
 玄白は、その後をうけていった。
「いかにも、もっともの仰せじゃ。
 それにつけても拙者は、如何にもいたして、このターヘルアナトミアの一巻を翻訳いたしたいものじゃと存ずる。
 これだに翻訳いたし申せば、身体内外のこと、身明(しんみょう)を得て、今日以後療治の上にも大益あることと存ずる」

 良沢も、心から打ち解けていた。
「いや、杉田氏の仰せ、もっともでござる。
 実は、拙者も年来蘭書読みたき宿題でござったが、志を同じゅうする良友もなく、慨(なげ)き思うのみにて、日を過してござる。
 もし、各々方が、志を合せて下されば何よりの幸いじゃ。
 幸い、先年長崎留学の砌(みぎり)、蘭語少々は記憶いたしてござるほどに、それを種といたし、共々このターヘルアナトミアを読みかかろうではござらぬか」と、いった。
 玄白も、淳庵も、玄適も、手を打ってそれに同じた。
 彼らは、異常な感激で結び合された。
「しからば、善はいそげと申す。明日より拙宅へお越しなされい!」
 良沢は、その大きい目を輝かしながらいった。



 また、下記のアドレスをクリックすれば、「杉田玄白著 蘭学事始」を原文でみることができます。

★ 蘭学事始 上之巻
http://ijustat.at.infoseek.co.jp/gaikokugo/rangaku-kotohazime1.html


 この中で玄白は前野良沢に尽きせぬ敬意を払っている。

 現代文訳で、上記に続く箇所を載せます(訳文は「日本の名著 昭和46年4月版」から)。

 前野良沢は前々からオランダ語研究を心がけ、そのために長崎まで行ってオランダ語の単語や文法のことを聞きかじってきた人であり、彼をこの研究会の盟主(かしら)とさだめ、先生として仰ぐことにした。
 わたしはまだアルファベット25文字さえ習ったことがないのに、にわかにこの勉強を思い立ったのだから、まず少しずつ文字を覚えて、いろいろ単語を習っていったのである。


 これをこの度、偶然に購入し、読む機会をもった吉村昭の「冬の鷹」から見てみる。

 良沢は骨ケ原刑場からの帰途、玄白がターヘル・アナトミア(解体新書の原本)の翻訳を熱っぽく主張した時、翻訳の同志を得たことを喜び、そのくわだてに即座に同意した。
 しかし、同志と呼ぶにはあまりにも心もとない者ばかりで、かえってA,B,Cを教えることで、一カ月近くを費やしている。

 むしろ、かれらは足手まといで、独力で翻訳事業に専念する方が効果的だとさえ思った。


 つまり、実際の翻訳という作業に取り組んだのは前野良沢という人で、杉田玄白はサポート役なのである。
 この盟主たる前野良沢という人、特異な性格をもっていたようである。

 蘭学事始から、抜粋で。

 わたしの友人に、豊前中津候の医官をしている前野良沢という人がいる。
 幼いときに両親を失い、伯父である宮田全沢という人に養われて成人した。
 全沢は博学な人であったが、天性の奇人で、常人と異なっていた。
 「人というものは、世の中から廃れてしまいそうに思える芸能をちゃんと習っておいて、末々までも絶えないようにし、いまの人が見捨ててしまったようなことを敢えてして、世のため後々までも残るようにしなければならない」
 良沢という男も、また「天然の奇士」だった。
 第一の盟主と仰いだ良沢は、特別な天分の持ち主で、この蘭学をもって一生の事業と考えていた。

 もし、この世に良沢というような人がいなかったら、この蘭学の道は開けなかったろう

 しかし、また一方に、わたしのような大まかな男もいなければ、これほどすみやかに開けることはなかったろう
 このようなとりあわせがあったというこのとも、また天の助けであったにちがいない。

 「世に良沢という人なくば、この道開くべからず。
 されど翁のごとき、素意大略の人なければ、この道かく速かに開くべからず、是もまた天助なるべし」


 今風に言えば「スパー・オタク」
 このスパー・オタクならしめているのは、良沢を「オタクさせていた」藩主の庇護があったためである。

 同じく蘭学事始から。

 かれの主君奥平昌鹿公は良沢の本当の志をよく心得ておられ、「あの男はもともと変わり者なのだから」と言われて、別に深くおとがめにもならなかった。
 公みずから、ポイセンという学者の「プラクテーキ」などという内科書を買い求められ、その一隅にご自分の印章を押されたうえで良沢に下された、ということもあったのである。


 翻訳を実際に行ったのは前野良沢。
 それを支えたのが杉田玄白という構図になる。
 この取り合わせで解体新書が世に出ていくことになる。
 いい換えれば、この組み合わせがなかったら、日本の蘭学は別の形で発展していったのかもしれない。

 冬の鷹から。

 良沢は人嫌いで、知己もほとんどいない。
 派手なことは好まず、ただ一人で学問にいそしむ学究肌の人間だ。
 翻訳事業は良沢の存在なしでは一歩も前進しない。
 良沢が気分を害して離脱してしまえば、翻訳事業はたちまち崩壊するのだ。
 玄白は、翻訳事業を成功させる鍵は、良沢の機嫌を損ずることなく、良沢の知識を利用し、翻訳をすすめさせねばならぬと思っていた。

 良沢は一つの難問に突き当たると、それを解き明かすために全精力を傾ける。
 その執念はすさまじく、それ故にわずかずつではあるが翻訳がすすんできた。

 翻訳は、前野良沢の語学力なくしては到底果たし得ないものだった。
 と言うより、良沢の翻訳環境を玄白らが整えたに過ぎないといった方が適切だった。


 なんと、翻訳を志してから二年弱ほどで、一応のまとまりをみせてきたという。
 「ターヘル・アナトミアは249ページにわたってぎっしりと文字の詰め込まれた医書であ」る、と吉村昭は書いている。
 何から何までほぼ手探りの状態から、たった二年弱で250ページの外国の医学書が翻訳できるものなのであろうか。
 まるで想像がつかない。
 もうそこには前野良沢の「すさまじい」としか形容のない執念しか見えてこない。
 時代は人を生むものである。
 そして、人が時代をつくっていく。

 良沢の超人的な意思力の下に「ターヘル・アナトミア」が屈服したといっていいだろう。


 ● 前野良沢:[中津の医学史(中編)]より
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 翻訳の偉業が形を成してきたら、次にこれをどうするかという問題が出てくる。

 「出版」ということになるのだが、良沢は「まだ訳にあいまいなところもある」と言ってためらう。
 学者の心情としては、不完全なものは出したくない、「完全なもの」として真価を問いたいという「美意識」が強固にある。

 菊池寛の蘭学事始から。

 玄白は、ターヘルアナトミアの稿を更えること十二回に及んだ。
 が、篇中、未解の場所五カ所、難解の場所十七カ所があった。
 玄白は、ひたすらに上梓を急いだ。
 が、良沢は、未解難解の場所を解するまではとて、上梓を肯(がえ)んじなかった。

 良沢と玄白とは、それについて幾度も論じ合った。
 が、二人はいくら論じ合っても、一致点を見出(みいだ)さなかった。
 それは、二人の蘭学に対する態度の根本的な相違だった。


 冬の鷹から。

 かれは、ターヘル・アナトミアの翻訳書---「解体新書」の刊行に不賛成だった。
 少なくとも時期尚早と信じていた。
 翻訳は一応成ったが、良沢にとってその内容は決して満足すべきものではなかった。
 さらに長い歳月をついやして訳を練り、完訳をはたして後に初めて刊行すべきものだと思っていた。


 それに対して、実務的進行掛を担った玄白は、

 蘭学事始から。

 西洋の外科の法はすでに「二百年前」から日本に伝わっていながら、直接に西洋医書を翻訳するということは一度も試みられなかった。
 われわれの最初の仕事が不思議にも、医学のいちばんの基本となるべき人体内部構造を説いた本で、それが蘭書翻訳の始まりともなったのは、まったく天意の働きともいうべきものだったと思われる。

 早く明らかにして治療の用に役立たせ、また世の医者達が種々の医術を発明する際の約にも立たせたい、とういうのが私の唯一の願いであった。
 そのために、ぜひとも早くこの一冊を一般に見られるものにしたいと心がけ、この一冊の訳さえできあがればそれで満足だと決心してとりかかったのであった。

 われらの蘭学にしても、いまはじめて唱えだしたばかりで、どうしてにわかに整然たる体系をなすようなことができようか。
 いまはまず、「人体の構造」という一点で、千年来説かれてきたことも間違いを世に示し、何とかその概略だけでも知らせることができればよい。
 それ以上のことは望むところではない。


 玄白の主張も強固で鋭い。
 学問主義ではなく、実務主義に徹している。


 オランダの書物の翻訳となれば、古今に先例のない最初の試みである。
 その第一歩に際して、はじめから細かなところまでわかるはずがない。

 なるべく翻訳を急いで、一日も早くその大筋を誰も耳にもわかりやすいように伝えてやり、すみやかにさとることができるようにするのを、第一に心がけた。

 「解体新書」を見る人には、これはさぞかし誤訳だらけに見えるにちがいない。
 しかし、何事においても、はじめて新しい説を打ち出そうというようなときは、当初から後日の批判を恐れているようなケチな了見では、どんな企ても仕出かすことはできないものである。

「はじめて唱える時に当りては、なかなか後の譏(そしり)を恐るるようなる碌々たる了見にて企事(くわだてごと)はできぬものなり。
 くれぐれも大体に基づき、合点の行くところを訳せしまでなり。
 これが、翁が、その頃よりの宿志にして企望せしところなり。」




 だが、これらの意見の相違の前に、とてつもない大きな問題が横たわっていた。

 それが幕府の「鎖国政策」

 蘭学事始から。

 しかしそのころは、とくに役職にない普通の人がみだりに横文字を扱うことは遠慮していた時代である
 当時たとえば、本草家と呼ばれていた後藤梨春という人が、オランダのことについて見聞したことを書き集め、「紅毛談:オランダばなし」というかな書きの小冊子を出版したが、たまたまそのなかにアルファベットの二十五文字が印刷してあったため、「どの筋からか」おとがめを受けて絶版になったというこがあった。
 すでにそのような例もあったのである。


 がしかし、ぜひにでも出版したいと玄白は願う。
 出版の可否、意見の相違など、「鎖国という壁」と較べたら、塵あくたに過ぎない。

 冬の鷹から。

 「この翻訳書は、出版しなければならぬものでござるが、突然の出版はなんとなく危険に存じております。
 私には、後藤梨春殿が紅毛談を刊行し、お咎めを受けたことが脳裡からはなれませぬ。
  翻訳書が禁令にふれるかどうか、とりあえず人体図のみ出版して、その反応をうかがってみることが得策と存ずるが、いかがであろう」

 良沢は幕府の反応をうかがうためにも、人体図を刊行してみたいという提案に玄白の用意周到な性格をみたように思った。

 「それは結構な御配慮と存ずる」
 淳庵の言葉に良沢も同意し、うなずいた。


 翻訳が完全に誤訳のない満足のいく形で整ったら、出版することになろうことは良沢も認識していた。
 でも、その前に幕府が立ちはだかったら、ニベもなくなる。
 「人体図出版」というのは、その幕府の出方を伺う上で、いいテストケースになりうる、と思ったといえよう。

 玄白は「お咎めを受ける可能性が大きい」方へかけていたようだ。
 というより、まず「お咎めをうける」であろうと思っていた。

 このとき、玄白の最大の問題は出版の可否の問題ではなかった。
 良沢の言を入れ、翻訳の完全を期しても、あと2,3年あれば済むことである。
 2,3年の違いである。
 どうということもない。
 これまでの苦労を考えれば、すこしばかり遅れたとて何の不都合もない。

 眼の前にたちはだかる問題の核心は、幕府のお咎めを「どういう形で受けるか」である。
 それが、玄白の心痛であったのではないかと思われる。

 2,3年で幕府の政策が変わるわけではない。
 ならば、早く出しても、遅く出してもお咎めをうけることは同じこと。
 そうなら、早く出して幕府がどうでるか、それを知りたい。

 「紅毛談:オランダばなし」は小冊子である。
 が、解体新書はなにしろ、丸々一冊、オランダ本を翻訳したもので、それを出版しようと企てているのである。
 過去にこういうことをやった者もいないし、その咎を比較考量できるデータもない。
 心配なことは、その「お咎めの大きさ」がどれほどのものになるか、それが未知だということである。

 打ち首獄門ということはないが、いくら藩の者だといっても「鎖国」は幕府の管轄。
 丸々一冊、オランダ本の翻訳と出版ともなれば、一年、二年の遠島はありうるかもしれない。
 あるいは数年になるかもしれない。
 そう玄白が思ったとしても間違いではないだろう。

 玄白は思う。
 人的被害だが、絶対に前野良沢だけは安全な場所に避難させないといけない。
 彼をしてこの翻訳を成功せしめ、彼は日本の蘭学の未来を背負っている人材である。
 何がなんでも、無傷でおかねばならない。
 「もし、この世に良沢というような人がいなかったら、この蘭学の道は開けなかったろう」と言わしむる人材である。
 解体新書の出版が禁止され、版を没収されることになっても、彼さえいれば、また次の手が打てる。
 彼がいなければ、どうにもならない。
 牢獄ですごさせてはならない。
 いかにしても、良沢だけには幕府の手を出させてはならない。

 ならどうする。
 彼の名前を絶対出してはならない。
 「すべての咎めを自分が背負う」、それしか手はない。


 「御公儀からどのような「思いがけないお咎め」を受けるか、予想もつきませぬ。
 そこで、人体図を刊行するに際しては責任の所在を明らかにいておきたい。
 このような提案をしたのであるから、私が責任をとり、万一に備えるべきだと存ずる。
 若狭小浜藩の侍医として責任をとるのが妥当と思う。
 むろん藩主酒井忠用候の御了承も得て、もしもお咎めを受けた折には、小浜藩のみにとどめて良沢殿に累の及ぶのを防ぐことが良策だと思う」

 玄白の顔には、悲壮な表情があらわれていた。


 これにより、翻訳書の出版は小浜藩と玄白の門人たちの責任所在の中で進行していく。

 よってこれを契機に、前野良沢の名前は解体新書の中から消えていくことになり、黒子であった杉田玄白の名前がクローズアップされてくる、ということになってくる。



<つづく>



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