2008年11月1日土曜日
和蘭医事問答1:「冬の鷹」
● 「冬の鷹」 吉村昭著
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和蘭医事問答1:「冬の鷹」
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ジャパン・デーへいった。
お目当てのひとつは出展されている古本をあさること。
手に入れた中に吉村昭の文庫本の束があった。
7冊で5ドル、日本風にいうと1冊70円。
「ふおん・しいほるとの娘 上・下」のような厚手のものもあったが、大半は薄手のもの。
その中のもっとも古いものが「冬の鷹」。
奥付は「昭和51年11月30日発行:新潮社」
「この作品は昭和49年7月毎日新聞社より刊行された。」とある。
昭和51年というと 三十余年前で1976年になる。
他の本で次に古いのは1989年であり、これと比べるととてつもなく古い。
まず擦り切れたカバー縁をセロテープし、糊付けがはがれてページがバラけないように必要な箇所をボンドで補強する。
裏カバーの解説をタイプしてみる。
『
わずかな手掛りをもとに、苦心惨憺、殆ど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。
出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する。
わが近代医学の礎を築いた画期的偉業、「解体新書」成立の過程を克明に再現し、両者の劇的相克剋を浮彫りにする感動の歴史長編。
』
つまりこの本は杉田玄白が訳したとされる解体新書の、正式な訳者である前野良沢を主人公にした小説なのである。
「解体新書」といえば、日本の歴史教科書にも出てくる重大な書物。
この本が出たことによって、鎖国の中で日本は一気に「蘭学」に突き進んでいく。
それが、明治維新の学問的基礎になる。
この窓口をもっていたからこそに、日本は直ちに西洋列強をターゲットにすることができた。
西洋は遠くにあったが、ドアは開かれていた。
そのドアを開き、学問的基礎の大本を作ったのが「解体新書」といって過言ではない。
それは単に医学書の翻訳ではなく、西欧への道でもあった。
解体新書の翻訳の経過は玄白の「蘭学事始」に書かれており、事情を克明に追うことができる。
この本は書店に並んでおり、どこの図書館にもおいてあるので、文字を追った方も多いのではないかと思う。
その中に確かに前野良沢の名は出ているが、でも世にはまるで知られていない。
私もそういえばそんな名前の人がいたようだな、といった程度の記憶しか残っていない。
冬の鷹を読んで、今回あらためて「前野良沢」という人物の歴史に残る業績を知ったといっていい。
蘭学事始は玄白83歳のときに書かれており、解体新書は40歳のとき概略が完成している。
翻訳開始が39歳のとき、解体約図出版41歳、解体新書出版が42歳である。
つまり、四十数年前の訳業の苦心を振り返って書いたのが蘭学事始といっていい。
ちなみに「蘭学事始」を題材にした小説はこの吉村昭の「冬の鷹」のほかに、菊池寛の「蘭学事始」がある。
Wikipediaにはこの2冊しか載っていない。
日本史にとって歴史的事件であるが、小説のネタとしてはあまりいいテーマではないのかもしれない。
この菊池寛の「蘭学事始」は下記のアドレスをクリックすれば、デイスプレイ上で読むことができます。
その中から抜粋します。
『
★ 菊池寛「蘭学事始」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/497_19867.html
彼は、中津侯の医官である前野良沢の名は、かねてから知っていた。
そして、その篤学の評判に対しても、かなり敬意を払っていた。
が、親しく会って見ると、不思議にこの人に親しめなかった。
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それかといって、彼は良沢を嫌っているのでもなければ、憎んでいるのでもなかった。
ただ、一座するたびに、彼は良沢から、妙な威圧を感じた。
彼は、良沢と一座していると、良沢がいるという意識が、彼の神経にこびりついて離れなかった。
良沢の一挙一動が気になった。
彼の一顰(びん)一笑が気になった。
彼が気にしまいとすればするほど、気になって仕方がなかった。
それだのに、相手の良沢が、自分のことなどはほとんど眼中に置いていないような態度を見ると、玄白は良沢に対する心持を、いよいよこじらせてしまわずにはおられなかった。
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刑場からの帰途、淳庵が感に堪えたようにいった。
「今日の実験、ただただ驚き入るのほかはないことでござる。
かほどのことを、これまで心づかずに打ち過したかと思えば、この上もなき恥辱に存ずる。
われわれ医をもって主君主君に仕えるものが、その術の基本とも申すべき人体の真形をも心得ず、今日まで一日一日とその業を務め申したかと思えば、面目もないことでござる
何とぞ、今日の実験に基づき、おおよそにも身体の真理をわきまえて医をいたせば、医をもって天地間に身を立つる申しわけにもなることでござる」
良沢も玄白も玄適も、淳庵の述懐に同感せずにはおられなかった。
玄白は、その後をうけていった。
「いかにも、もっともの仰せじゃ。
それにつけても拙者は、如何にもいたして、このターヘルアナトミアの一巻を翻訳いたしたいものじゃと存ずる。
これだに翻訳いたし申せば、身体内外のこと、身明(しんみょう)を得て、今日以後療治の上にも大益あることと存ずる」
良沢も、心から打ち解けていた。
「いや、杉田氏の仰せ、もっともでござる。
実は、拙者も年来蘭書読みたき宿題でござったが、志を同じゅうする良友もなく、慨(なげ)き思うのみにて、日を過してござる。
もし、各々方が、志を合せて下されば何よりの幸いじゃ。
幸い、先年長崎留学の砌(みぎり)、蘭語少々は記憶いたしてござるほどに、それを種といたし、共々このターヘルアナトミアを読みかかろうではござらぬか」と、いった。
玄白も、淳庵も、玄適も、手を打ってそれに同じた。
彼らは、異常な感激で結び合された。
「しからば、善はいそげと申す。明日より拙宅へお越しなされい!」
良沢は、その大きい目を輝かしながらいった。
』
また、下記のアドレスをクリックすれば、「杉田玄白著 蘭学事始」を原文でみることができます。
『
★ 蘭学事始 上之巻
http://ijustat.at.infoseek.co.jp/gaikokugo/rangaku-kotohazime1.html
』
この中で玄白は前野良沢に尽きせぬ敬意を払っている。
現代文訳で、上記に続く箇所を載せます(訳文は「日本の名著 昭和46年4月版」から)。
『
前野良沢は前々からオランダ語研究を心がけ、そのために長崎まで行ってオランダ語の単語や文法のことを聞きかじってきた人であり、彼をこの研究会の盟主(かしら)とさだめ、先生として仰ぐことにした。
わたしはまだアルファベット25文字さえ習ったことがないのに、にわかにこの勉強を思い立ったのだから、まず少しずつ文字を覚えて、いろいろ単語を習っていったのである。
』
これをこの度、偶然に購入し、読む機会をもった吉村昭の「冬の鷹」から見てみる。
『
良沢は骨ケ原刑場からの帰途、玄白がターヘル・アナトミア(解体新書の原本)の翻訳を熱っぽく主張した時、翻訳の同志を得たことを喜び、そのくわだてに即座に同意した。
しかし、同志と呼ぶにはあまりにも心もとない者ばかりで、かえってA,B,Cを教えることで、一カ月近くを費やしている。
むしろ、かれらは足手まといで、独力で翻訳事業に専念する方が効果的だとさえ思った。
』
つまり、実際の翻訳という作業に取り組んだのは前野良沢という人で、杉田玄白はサポート役なのである。
この盟主たる前野良沢という人、特異な性格をもっていたようである。
蘭学事始から、抜粋で。
『
わたしの友人に、豊前中津候の医官をしている前野良沢という人がいる。
幼いときに両親を失い、伯父である宮田全沢という人に養われて成人した。
全沢は博学な人であったが、天性の奇人で、常人と異なっていた。
「人というものは、世の中から廃れてしまいそうに思える芸能をちゃんと習っておいて、末々までも絶えないようにし、いまの人が見捨ててしまったようなことを敢えてして、世のため後々までも残るようにしなければならない」
良沢という男も、また「天然の奇士」だった。
第一の盟主と仰いだ良沢は、特別な天分の持ち主で、この蘭学をもって一生の事業と考えていた。
もし、この世に良沢というような人がいなかったら、この蘭学の道は開けなかったろう。
しかし、また一方に、わたしのような大まかな男もいなければ、これほどすみやかに開けることはなかったろう。
このようなとりあわせがあったというこのとも、また天の助けであったにちがいない。
「世に良沢という人なくば、この道開くべからず。
されど翁のごとき、素意大略の人なければ、この道かく速かに開くべからず、是もまた天助なるべし」
』
今風に言えば「スパー・オタク」
このスパー・オタクならしめているのは、良沢を「オタクさせていた」藩主の庇護があったためである。
同じく蘭学事始から。
『
かれの主君奥平昌鹿公は良沢の本当の志をよく心得ておられ、「あの男はもともと変わり者なのだから」と言われて、別に深くおとがめにもならなかった。
公みずから、ポイセンという学者の「プラクテーキ」などという内科書を買い求められ、その一隅にご自分の印章を押されたうえで良沢に下された、ということもあったのである。
』
翻訳を実際に行ったのは前野良沢。
それを支えたのが杉田玄白という構図になる。
この取り合わせで解体新書が世に出ていくことになる。
いい換えれば、この組み合わせがなかったら、日本の蘭学は別の形で発展していったのかもしれない。
冬の鷹から。
『
良沢は人嫌いで、知己もほとんどいない。
派手なことは好まず、ただ一人で学問にいそしむ学究肌の人間だ。
翻訳事業は良沢の存在なしでは一歩も前進しない。
良沢が気分を害して離脱してしまえば、翻訳事業はたちまち崩壊するのだ。
玄白は、翻訳事業を成功させる鍵は、良沢の機嫌を損ずることなく、良沢の知識を利用し、翻訳をすすめさせねばならぬと思っていた。
良沢は一つの難問に突き当たると、それを解き明かすために全精力を傾ける。
その執念はすさまじく、それ故にわずかずつではあるが翻訳がすすんできた。
翻訳は、前野良沢の語学力なくしては到底果たし得ないものだった。
と言うより、良沢の翻訳環境を玄白らが整えたに過ぎないといった方が適切だった。
』
なんと、翻訳を志してから二年弱ほどで、一応のまとまりをみせてきたという。
「ターヘル・アナトミアは249ページにわたってぎっしりと文字の詰め込まれた医書であ」る、と吉村昭は書いている。
何から何までほぼ手探りの状態から、たった二年弱で250ページの外国の医学書が翻訳できるものなのであろうか。
まるで想像がつかない。
もうそこには前野良沢の「すさまじい」としか形容のない執念しか見えてこない。
時代は人を生むものである。
そして、人が時代をつくっていく。
良沢の超人的な意思力の下に「ターヘル・アナトミア」が屈服したといっていいだろう。
● 前野良沢:[中津の医学史(中編)]より
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翻訳の偉業が形を成してきたら、次にこれをどうするかという問題が出てくる。
「出版」ということになるのだが、良沢は「まだ訳にあいまいなところもある」と言ってためらう。
学者の心情としては、不完全なものは出したくない、「完全なもの」として真価を問いたいという「美意識」が強固にある。
菊池寛の蘭学事始から。
『
玄白は、ターヘルアナトミアの稿を更えること十二回に及んだ。
が、篇中、未解の場所五カ所、難解の場所十七カ所があった。
玄白は、ひたすらに上梓を急いだ。
が、良沢は、未解難解の場所を解するまではとて、上梓を肯(がえ)んじなかった。
良沢と玄白とは、それについて幾度も論じ合った。
が、二人はいくら論じ合っても、一致点を見出(みいだ)さなかった。
それは、二人の蘭学に対する態度の根本的な相違だった。
』
冬の鷹から。
『
かれは、ターヘル・アナトミアの翻訳書---「解体新書」の刊行に不賛成だった。
少なくとも時期尚早と信じていた。
翻訳は一応成ったが、良沢にとってその内容は決して満足すべきものではなかった。
さらに長い歳月をついやして訳を練り、完訳をはたして後に初めて刊行すべきものだと思っていた。
』
それに対して、実務的進行掛を担った玄白は、
蘭学事始から。
『
西洋の外科の法はすでに「二百年前」から日本に伝わっていながら、直接に西洋医書を翻訳するということは一度も試みられなかった。
われわれの最初の仕事が不思議にも、医学のいちばんの基本となるべき人体内部構造を説いた本で、それが蘭書翻訳の始まりともなったのは、まったく天意の働きともいうべきものだったと思われる。
早く明らかにして治療の用に役立たせ、また世の医者達が種々の医術を発明する際の約にも立たせたい、とういうのが私の唯一の願いであった。
そのために、ぜひとも早くこの一冊を一般に見られるものにしたいと心がけ、この一冊の訳さえできあがればそれで満足だと決心してとりかかったのであった。
われらの蘭学にしても、いまはじめて唱えだしたばかりで、どうしてにわかに整然たる体系をなすようなことができようか。
いまはまず、「人体の構造」という一点で、千年来説かれてきたことも間違いを世に示し、何とかその概略だけでも知らせることができればよい。
それ以上のことは望むところではない。
』
玄白の主張も強固で鋭い。
学問主義ではなく、実務主義に徹している。
『
オランダの書物の翻訳となれば、古今に先例のない最初の試みである。
その第一歩に際して、はじめから細かなところまでわかるはずがない。
なるべく翻訳を急いで、一日も早くその大筋を誰も耳にもわかりやすいように伝えてやり、すみやかにさとることができるようにするのを、第一に心がけた。
「解体新書」を見る人には、これはさぞかし誤訳だらけに見えるにちがいない。
しかし、何事においても、はじめて新しい説を打ち出そうというようなときは、当初から後日の批判を恐れているようなケチな了見では、どんな企ても仕出かすことはできないものである。
「はじめて唱える時に当りては、なかなか後の譏(そしり)を恐るるようなる碌々たる了見にて企事(くわだてごと)はできぬものなり。
くれぐれも大体に基づき、合点の行くところを訳せしまでなり。
これが、翁が、その頃よりの宿志にして企望せしところなり。」
』
だが、これらの意見の相違の前に、とてつもない大きな問題が横たわっていた。
それが幕府の「鎖国政策」
蘭学事始から。
『
しかしそのころは、とくに役職にない普通の人がみだりに横文字を扱うことは遠慮していた時代である
当時たとえば、本草家と呼ばれていた後藤梨春という人が、オランダのことについて見聞したことを書き集め、「紅毛談:オランダばなし」というかな書きの小冊子を出版したが、たまたまそのなかにアルファベットの二十五文字が印刷してあったため、「どの筋からか」おとがめを受けて絶版になったというこがあった。
すでにそのような例もあったのである。
』
がしかし、ぜひにでも出版したいと玄白は願う。
出版の可否、意見の相違など、「鎖国という壁」と較べたら、塵あくたに過ぎない。
冬の鷹から。
『
「この翻訳書は、出版しなければならぬものでござるが、突然の出版はなんとなく危険に存じております。
私には、後藤梨春殿が紅毛談を刊行し、お咎めを受けたことが脳裡からはなれませぬ。
翻訳書が禁令にふれるかどうか、とりあえず人体図のみ出版して、その反応をうかがってみることが得策と存ずるが、いかがであろう」
良沢は幕府の反応をうかがうためにも、人体図を刊行してみたいという提案に玄白の用意周到な性格をみたように思った。
「それは結構な御配慮と存ずる」
淳庵の言葉に良沢も同意し、うなずいた。
』
翻訳が完全に誤訳のない満足のいく形で整ったら、出版することになろうことは良沢も認識していた。
でも、その前に幕府が立ちはだかったら、ニベもなくなる。
「人体図出版」というのは、その幕府の出方を伺う上で、いいテストケースになりうる、と思ったといえよう。
玄白は「お咎めを受ける可能性が大きい」方へかけていたようだ。
というより、まず「お咎めをうける」であろうと思っていた。
このとき、玄白の最大の問題は出版の可否の問題ではなかった。
良沢の言を入れ、翻訳の完全を期しても、あと2,3年あれば済むことである。
2,3年の違いである。
どうということもない。
これまでの苦労を考えれば、すこしばかり遅れたとて何の不都合もない。
眼の前にたちはだかる問題の核心は、幕府のお咎めを「どういう形で受けるか」である。
それが、玄白の心痛であったのではないかと思われる。
2,3年で幕府の政策が変わるわけではない。
ならば、早く出しても、遅く出してもお咎めをうけることは同じこと。
そうなら、早く出して幕府がどうでるか、それを知りたい。
「紅毛談:オランダばなし」は小冊子である。
が、解体新書はなにしろ、丸々一冊、オランダ本を翻訳したもので、それを出版しようと企てているのである。
過去にこういうことをやった者もいないし、その咎を比較考量できるデータもない。
心配なことは、その「お咎めの大きさ」がどれほどのものになるか、それが未知だということである。
打ち首獄門ということはないが、いくら藩の者だといっても「鎖国」は幕府の管轄。
丸々一冊、オランダ本の翻訳と出版ともなれば、一年、二年の遠島はありうるかもしれない。
あるいは数年になるかもしれない。
そう玄白が思ったとしても間違いではないだろう。
玄白は思う。
人的被害だが、絶対に前野良沢だけは安全な場所に避難させないといけない。
彼をしてこの翻訳を成功せしめ、彼は日本の蘭学の未来を背負っている人材である。
何がなんでも、無傷でおかねばならない。
「もし、この世に良沢というような人がいなかったら、この蘭学の道は開けなかったろう」と言わしむる人材である。
解体新書の出版が禁止され、版を没収されることになっても、彼さえいれば、また次の手が打てる。
彼がいなければ、どうにもならない。
牢獄ですごさせてはならない。
いかにしても、良沢だけには幕府の手を出させてはならない。
ならどうする。
彼の名前を絶対出してはならない。
「すべての咎めを自分が背負う」、それしか手はない。
『
「御公儀からどのような「思いがけないお咎め」を受けるか、予想もつきませぬ。
そこで、人体図を刊行するに際しては責任の所在を明らかにいておきたい。
このような提案をしたのであるから、私が責任をとり、万一に備えるべきだと存ずる。
若狭小浜藩の侍医として責任をとるのが妥当と思う。
むろん藩主酒井忠用候の御了承も得て、もしもお咎めを受けた折には、小浜藩のみにとどめて良沢殿に累の及ぶのを防ぐことが良策だと思う」
玄白の顔には、悲壮な表情があらわれていた。
』
これにより、翻訳書の出版は小浜藩と玄白の門人たちの責任所在の中で進行していく。
よってこれを契機に、前野良沢の名前は解体新書の中から消えていくことになり、黒子であった杉田玄白の名前がクローズアップされてくる、ということになってくる。
<つづく>
【Top Page】
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