2008年11月1日土曜日

和蘭医事問答2:すべての咎はわれにあり


● 解体新書1:[Wikipedia]より
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 和蘭医事問答2:すべての咎はわれにあり
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 解体約図(日本の名著より抜粋)

 私はしばらく前からオランダの解剖書について研究し、数年の間その翻訳にあたってきた。
 今それは完成した。
 これを「解体新書」と名づけることにした。
 オランダ人が説明し、図で示すところは、およそ人体の百の骨格、九つの穴、内臓、筋肉、血管から皮膚や毛や爪や歯にまでいたり、それもあらゆる部分をこまかく分けて説き明かし、ひとつひとつ分類して図示している。
 まことにくわしい研究であって、それはシナ人がまだ説いていないところまでおよんでいる。
 その解説と図はみな「新書」にのせておいた。
 だがここでは、やがてその「新書」を見る人のために、まず臓腑(内臓)、脈絡(血管)、骨節(骨格)の全形を図示しておいて、その大略を知っていただこうと思ったのである。

  若狭 侍医   玄白杉田翼  誌ス
        同   淳庵中川鱗  校閲
        処士 元章熊谷儀克  図



 冬の鷹より

 「解体約図」が刊行された。
 それは三枚の紙に描かれた人体図で封皮につつまれ、「解体約図 全」と大きな表題がつけられていた。

 玄白たちは域をひそめて「解体約図」の反応をうかがった。
 まず、かれらが最もおそれたのは、幕府の態度であった。
 玄白たちは、不安にみちた眼をして良沢の家にあつまった。
 かれらは、今にも捕り方が家の中に荒々しく踏みこんでくるような不安におびえていた。

 「解体約図」の刊行は、幕府の堅持する鎖国政策と対決する性格のものであった。


 この解体約図は「解体新書」の刊行を予告した内容になっている。
 出たものを発禁ということもあり、前もって出版を許さず、という出方もある。
 幕府がどうでるか。
 彼らは恐々として日々を過ごした。

 冬の鷹より

 玄白らは幕府の咎めを恐れ、夜も眠ることができなかった。
 が、一カ月経過しても、幕府の動きはみられず、ようやく愁眉をひらくことができた。


 捕り方の踏み込みはなかった。
 ということは、出版刊行を幕府が容認したということになる。
 とりあえず解体約図は通った。


 が、出版後に「内容不穏当」で発禁、お咎めという可能性も大きく残されている。


 「解体新書」の出版準備をすすめたが、玄白は、その整理の段階でも幕府を刺激することのないような慎重な配慮を払っていた。

 その一例に符号の改変があった。
 紅毛談がおとがめをうけたのは、同書中にオランダ語のABC二十六文字がのっていたことが原因だとされている。

 玄白は二個の符号は危険だと直感した。
 キリストの十字架を連想させる。
 キリシタン禁制に神経過敏な幕府が、その二つの符号をとりあげてきびしく処罰を浴びせかけてくるおそれは多分にある。
 と言うより、世のみせしめのために重大な犯罪行為として玄白らに重罪を科すことが容易に想像できた。
 玄白はただちにその符号を排して、新しい符号にとりかえた。

 そのような慎重な修正もくわえたが、このまま出版すれば幕府のおとがめをうける可能性が十分にあった。

 そしてとがめをうければ、自分たちだけでなく、小浜藩侍医として藩侯にも同罪の累がおよぶことも考えられた。


 約図は図が主体であり、たった三枚の図とその説明でなんとか出版できたが、百ページに近い分厚い解体新書が、すんなり幕府の目を通り抜けるとは玄白にはまったく考えられなかった。
 なんらかの方法をとらねば、まず百にひとつの可能性もないであろうと思えた。

 冬の鷹からつづけます。

 「慎重に事をはこばねばなりませね」
 と、玄白は、鎮痛な表情でつぶやいた。
 「それで、私はも日夜考えあぐねましたが、おとがめをうけずにすむ方法は、ただ一つしかないと思い至りました」
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 「それは、思いきってまずこの書を御奥へ献上するようつとめることです」
 玄白は断言するように言った。

 将軍家治への内献が可能になるには、厳重な審査がともなう。
 それは、最もおそれているい深い淵に自ら身を投ずるようなものであった。


 解体新書はまずはじめに将軍家へ献上されたのである。
 玄白自らが死地に身をおいたのである。

 が、それは受領された。

 さらに玄白は、慎重に二の手、三の手を講じていく。
 どこからでも「お咎めのいいがかり」はつけられるものである。
 できる限り、考えられる限りは根は塞いでおかねばならない。

 二の手は、京都の主だった公家への献上である。
 関白太政大臣、左大臣、そして武家伝奏にそれぞれ進献された。

 さらに玄白は、万全を期して三の手を打つ。
 幕府の老中への献上をくわだてるのである。
 幕府の中枢に座する六人に贈呈されたのである。

 この手配りは一級のものがある。
 杉田玄白ここにあり、といった感がある。
 そこまで、緊迫した状況にかれらは置かれていた、といってもいいだろう。
 さほどの手配りをしうる玄白がいなければ、解体新書が世に出ることはなかったのではないだろうか。
 オランダ流医家の秘伝書として人目に触れることのない蔵の中に仕舞われていった可能性もなきにしもあらずである。

 しかし、いくら上層部に献上したところで、それが免罪符になるわけではない。
 「くれたから貰ったよ」で終わってしまう可能性も大きい。
 「お咎めの恐怖」は決して消えはしないのである。

 腹をくくるしかないのである。
 最後に玄白は、もしこの書の発行に際して罪科が発生したとしても、責任は一人で負うことを宣言する。
 すべての手配を考慮したあとでも、天は玄白に微笑えまないかもしれない。
 そうなら災害は免れず、そのときはわが身一身のみにて負うしかない。


 三の手まで講じたあとに、ついに十回を越えるくり返しの推敲を経た「解体新書」が一般に刊行される。
 本文四冊、序と附図が一冊で計五冊。
 本文は「巻之一」が22枚、「巻之二」が23枚、「巻之三」が24枚、「巻之四」が26枚。
 あわせて計95枚である。
 
序と附図(訳図)を入れれば130枚を超える。


 ● 解体新書2:[京都外語大学付属図書館]より
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 ● 解体新書3:[歴史もの教材]より


 本文の巻之一から巻之四の冒頭には訳業の関係者の名前が記されているが、図を含めてそれに前野良沢の名前はない。

 冬の鷹より抜粋で。

 玄白は、感動に眼をうるませて五巻の書を愛撫し、飽きずにページをくりつづけた。

 骨ケ原刑場で腑分けを見た帰途翻訳を志してから三年五ケ月──。
 闇の中をてさぐりですすむような努力の閣下が、書物の山になったのが信じがたい夢のようであった。

 本文巻之一から巻之四の冒頭には「解体新書」訳業の関係者の氏名が左のようにしるされていた。

若狭    杉田玄白翼  訳
同藩    中川淳庵鱗  校
東都    石川玄常世通 参
官医東都 桂川甫周世民 閲

 玄白らは、良沢を翻訳事業の盟主とも師とも仰いだのだ。
 当然「解体新書」の著者名の筆頭には、良沢の名がしるされていなければならなかった。

 が、良沢の名はなく、代りに「訳」の部分に杉田玄白とある。



 解体新書の「序文」は長崎で良沢に解体新書の原本であるターヘル・アナトミアを斡旋した幕府大通詞吉雄幸左衛門が書いている。


 二君再配して曰く、これ和が功に非ざるなり、誠に先生の徳なり。
 敢えて請ふ、先生の一言を得て巻首に弁し、永く以って栄となさんことをと。
 余謝して曰く、章(吉雄幸左衛門)や惰夫、幸いに諸君の彊を以って曹丘となり、我れこの盛挙に与るを得るに生くるなり。
 深く以ってざんじくす。
 鄙辞を以って穢をその側に形すが如きは、章何ぞ以って敢えてせん。
 況んやこの書の行はれて、日月を掲げば、則ち天下自らその貴重なるを知るなり。
 章何ぞ以ってこを光価せんやと。
 二君可かず、遂に余の二君を識る所以の由を記して、もって序となす。
  安永二年春三月
          阿蘭訳官西肥
          吉雄永章  撰 [印]


 この中の「二君」とは、前野良沢と杉田玄白をさしている。
 ということは、この序文からいくと首謀者は二人で、良沢にも幕府の咎が及ぶおそれがある。
 これに対する策も玄白はとっている。

 彼は解体新書の中にそれを「意図的に書き記している」。

 「解体新書凡例」より(日本の名著抜粋)

 この書はオランダ人のヨハン・アタン・キュルムスが著した「ターヘル・アナトミイ」を訳したものである。
 考えてみれば、解剖は外科医学にとってもっとも肝要な基礎であって無知ですますわけにはゆかぬ事柄である。
 さまざまの病症の所在も、解剖によらなければ知ることができない。
 医学の道に進もうとする者は、だれでもまずこの解剖学から出発するのでなければ、けっしてものにならないはずだ。

 そこで私は、オランダ医書のなかから、とくにこの解剖学の部門を選んで翻訳し、初学者に提供することとした。
 これを端緒として新しい医学の道が定まるならばやがてすぐれた智恵がつぎつぎに発揮されるようにもなるだろう。

 まことに、私のこの仕事がここまでたどりつくことができたのも、まことに天の恵みによるものである。
 どうして人力のみで成しとげることができようか。
 このオランダ医学に志をもつ天下の人びとに対して、私はひそかに描く郭隗をもって任じ、その人びとの先頭に立とうと思う。
 そのために四方から非難・攻撃を浴びることになろうとも、それは辞するところではない。

 私は文章を作ることに慣れていない。
 そのため本書では、まず一応意味が通じるようにすることだけを眼目とした。
 これを読む人で、もしよくわからぬところがあったら、私の生きているかぎりでいつでも質問を寄せてくださってかまわない。
 私はよろこんでそれに応じよう。


 玄白はこの書の翻訳を、二君から彼個人一人の責任に置き換えているのである。
 つまり「すべての咎はわれにあり」と述べ、それ以外の者に罪が波及しないように、慎重な考慮を払ってこの凡例を書き残しているのである。

 「私の生きているかぎりでいつでも質問を寄せてくださってかまわない。私はよろこんでそれに応じよう。」
という最後の一文はそれを明白に物語っていると言っていいだろう。、
 すべてを「私に」と作為的に非難の矛先を自分に向けるようにしているのである。

 「なにかあったら私を責めろ、外の者は無関係だ」と陰に陽に言い切っている。

 これは個人的想像だが、上記の「これを読む人……よろこんでそれ応じよう」の部分は上層部に贈呈した版にはないのではないだろうか。
 上層部に贈呈するには、まるで不要の言である。
 あくまでも「上層部贈呈」では、「蘭語の本を翻訳しましたので、拝見ください」との儀であって、個人的な意見など入れていいはずがない、と思うである。
 もし下手にそういう言葉を入れると、逆に面倒なことになるようにおもえるのである。
 この部分、どうもとってつけたような感じがするのである。


 これにより、本当の訳者である前野良沢の名は解体新書から消えていくのである。
 そして日本の蘭学発展のひのき舞台からも。


 解体新書は「お咎めなし」であった。
 新書の刊行により、日本は怒涛のように蘭学に突入していく。
 杉田玄白の名のみが歴史にとどまることになる。



 蘭学事始が明治二十三年に再版されたとき、福沢諭吉がその序を書いている(日本の名著より)。


 「蘭学事始」再版の序 福沢諭吉
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 「蘭学事始」の原稿はもともと杉田家に一部だけあって秘蔵されていたのだが、それは安政二年(1855)の江戸の大地震のときに火事で焼失してしまった。
 医学仲間や杉田門下にも誰もそれを筆写していた者はなかったので、千載の遺憾事と皆ただこの不幸を嘆くばかりだったが、旧幕の終わりのころのある年、神田孝平氏が本郷の通りを散歩していたとき、たまたま通りがかりの聖堂裏の露店にたいへん古びた写本が一冊あるのを目にとめた。
 なにげなく手にとってみるとそれはまぎれもない「蘭学事始」であり、しかも杉田玄白先生みずからの手で書いて門人の大槻玄沢先生に贈られたものである。

 神田氏のよろこびようは想いやるに余りある。
 士はただちにこの発見を学友同輩に語ったが、同輩たちはいずれも先を争ってこれを写しとり、にわかに数冊の「蘭学事始」が誕生することとなった。
 それは、もうこの世にない人と思っていた友人の再生に会ったような気持ちであった。
 この再生を可能にした恩人はまさに神田氏であって、私どもがこの本とともにいつまでも忘れることのできない氏の功績である。

 この書中に記されていることは一字一句みな辛苦を語っている。
 なかでも、明和八年三月五日、蘭化先生(前野良沢)の宅ではじめて「ターフル・アナトミア」の本にうち向かったとき、
 「誠に艪舵なき船の大海に乗り出だしがごとく、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでになり」
 云々の一段にいたっては、われわれは読むたびごとに先人の苦労を思いやり、その剛勇に驚き、そのひたすらな熱情に感動し、感きわまって泣き出さぬ者はなかった。

 私はそのころ故箕作秋坪氏ともっとも親しく交わっていたのだが、この写本を手に入れて二人で相むかい、なんどもくり返してはこれを読み、右の一段までくるときまって二人とも感涙にむせんでしまって、あとは、無言に終わってしまうのであった。

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 単に先人の功労を日本国中に発揚することにとどまらず、さらに、東洋の一国たるこの大日本では、百数十年前の学者世界のうちにすでに西洋文明が根づき胚胎していたのであって、今日の進歩も偶然ではないのだという事実を、世界万国のの人びとに示すにたることでもあるだろう。
 内外の人びとはこの書を読んで、これを単なる医学上の一小記事と読み誤まらぬようにしてほしいものである。
 
 明治23年(1890)4月1日
         後学福沢諭吉謹んでしるす



 ● 蘭学事始:[歴史もの教材]より


 ここで福沢諭吉は

 「誠に艪舵なき船の大海に乗り出だしがごとく、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでになり」
 云々の一段にいたっては、われわれは読むたびごとに先人の苦労を思いやり、その剛勇に驚き、そのひたすらな熱情に感動し、感きわまって泣き出さぬ者はなかった。

と、書いている。

 ご存知のように福沢諭吉は緒方塾の塾頭。
 大阪緒方塾は蘭学塾。
 そこを出て、彼は23歳の時、江戸で蘭学塾を開いている。
 それが慶応義塾の起源といわれている。
 とすれば、福沢にとって蘭学事始は自分の学問の起端を担った祖の回顧録であり、辛苦の記録であり涙なしには読めなかったのだろう。
 彼はその後、蘭学から英学に大きく舵を切り、明治という時代を引っ張っていく。
 英学の先駆者といってもいい。
 蘭学事始は先駆を担うものの辛苦の記録と写ったともいえる。

 ちなみに、彼は豊前中津藩出身。
 前野良沢も同じ中津藩出身
 これは偶然か。

 吉村昭の冬の鷹も菊池寛の蘭学事始もすべて、杉田玄白の「蘭学事始」を基本資料にしている。
 そこから、どのような臭いをかぐかは作者による。
 そのかいだ臭いからストリーをつくり、主人公を生み出し、その心理を描写するのが作者の腕ということになる。

 真の翻訳は前田良沢がやった。

 だが、それを世に出したのは杉田玄白である。
 鎖国という閉ざされた世に、蘭学書という「とてつもない大物」を出版できたのは、ひとえに杉田玄白の器量によっている。
 玄白の「捨て身の器量」によっている。

 「責はわが身が負う、この一身どうなろうとも」

という捨て身さがなければ、解体新書は世に出なかっただろう。 
 その器量によって、解体新書は蔵に埋もれることなく、巷に流布し、それによって日本は世界への窓口を持ったのである。
 玄白の捨て身が窓を開いたのである。

 玄白は時代を担った、というより日本の未来の時代を切り開いた人物と評価してもしすぎることはない。 







付記★:『解体新書』(Wikipedia)より
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 本文は4巻に分かれている。それぞれの内容は以下の通り。

* 巻の一
総論、形態・名称、からだの要素、骨格・関節総論、骨格・関節各論
* 巻の二
頭、口、脳・神経、眼、耳、鼻、舌
* 巻の三
胸・隔膜、肺、心臓、動脈、静脈、門脈、腹、腸・胃、腸間膜・乳糜管、膵臓
* 巻の四
脾臓、肝臓・胆嚢、腎臓・膀胱、生殖器、妊娠、筋肉
* 図は別に1冊にまとめられている(解体訳図)。


★ 「解体新書」初版本が 図書館書庫で見つかる
http://www.kyokyo-u.ac.jp/KOUHOU/113/topics.pdf
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/t122/image/1/t122s0001.html


 ● 解体新書4:[京都大学図付属書館]より


 
解体訳図は下記のサイトで

★ 「解体訳図」全頁  和本館 別館
http://homepage2.nifty.com/akibou/kaitaiyakuzu.htm







付記★:『重訂解体新書』(Wikipedia)より
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 『重訂解体新書』(ちょうていかいたいしんしょ または じゅうていかいたいしんしょ)は、杉田玄白らが出した解剖学書『解体新書』を大槻玄沢が訳し直した書。
 寛政10年(1798年)の作。
 刊行は文政9年(1826年)。
 文章13冊と図版1冊よりなる。

 オランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』からの邦訳書である『解体新書』は、日本の医学史上画期的な本であった。
 だが、初めての西洋語からの翻訳という性質上、誤訳も多かった。

 その後蘭学が発展し、蘭語(オランダ語)研究が進んだこともあって、杉田玄白は高弟の大槻玄沢に『解体新書』を訳し直すように命じる。

 実際には、大槻玄沢を中心とする多数の蘭学者が関わったのであろう。
 寛政10年(1798年)にいちおうの稿は出来たが、刊行は大幅に遅れ、文政9年(1826年)となった。
 「付録」などの部分はその間に執筆されている。
 刊行時、杉田玄白は既に亡く、大槻玄沢はその翌年没している。

『重訂解体新書』は文章13冊と銅版画による図版1冊よりなる。

* (1)序、旧序、附言、凡例
* (2)~(5)巻の一~巻の四。旧版『解体新書』の本文に対応する。
* (6)~(11)巻の五~巻の十。名義解。用語を解説したもの。『ターヘル・アナトミア』の注釈の一部や、他の西洋解剖書からの注釈もまとめられている。
* (12)巻の十一。付録(上)。和漢の学説を大槻玄沢がまとめたもの。
* (13)巻の十二。付録(下)。大槻玄沢による解剖学雑録。

 総じて旧『解体新書』より字がきれいである。
 図版は京都の中伊三郎による銅版画。
 木版で刷られた旧『解体新書』と比べてはるかに鮮明になっている。
 なお、『解体新書』の図版表紙は、『ワルエルダ解剖書』の扉絵をもとに描かれたものだったが、『重訂解体新書』の図版扉絵は『ターヘル・アナトミア』の扉絵をもとに描かれている。


★ ふーきちのかわら板
http://fwu-kawaraban.sakura.ne.jp/kaitai/kaibou.htm
★重訂・解体新書
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_a0036/


  ● 重訂・解体新書:[早稲田大学図付属書館]より
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<つづく>





【 ○○○ 補稿 2008/11/24 ○○○ 】
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 インターネットを検索していたところ、解体新書より遡る90年前に医学書が翻訳されていた、ということを知りました。
 その写本は、解体新書より2年ほど前に出版されたという。

 それについての3つの記事をサイトから抜きだして、参考データとしておきます。


★ 東京大学付属図書館
  展示ケース18 和蘭全内外分合図  A00:6552
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2004/tenji/index-k.html
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 わが国で翻訳された最も古い西欧解剖図譜である。
 ドイツの医師レメリン (J. Remmelin) の著書「小宇宙図観 (Microcosmographicus)」の初版本(1613年刊)のオランダ語訳版(1667年刊)を原典とし、オランダ語の名通詞とうたわれ医学にも通じていた木本良意(庄太夫)が天和2年(1682)に訳出した。
 「解体新書」の出版を遡ること92年も前のことである。

 本書完成から90年を経た明和9年(1772)に、その写本が周防(山口県)の医師、鈴木宗云の手によって刊行された。
 この刊本は「和蘭全躯内外分合図」、「験号」と各々題する2冊からなる。
 前者が図によって構成された本体であり、それがここに展示されている。

 本書は、原典と同じく工夫をこらしたユニークな作りになっていて、3つの解剖図からなる。
 第一図には男女2体が向い合わせに、また第二図と第三図にはそれぞれ男、女が単独で描かれている。
 書名にある通り、各図とも折本形式をとっており、入子(いりこ)型に人体内部の臓器・系統が15枚の紙片で作られていて、それを表面から1つずつめくってゆくと、各臓器・系統の形や位置関係が容易に分かるようになっている。

 描かれた男女の容貌、髪型などは、原典の西欧人から日本人のそれに変えられているが、体つきのほうは西欧人風のままで、いささかアンバランスなところがユーモラスに感じられる。

 かのシーボルトも本書を手に入れて、ヨーロッパへ持ち帰ったといわれる。(山口先生)




★ ヨハン・レムメリンの人体折畳図  長崎県歯科医師会会史第一編
http://www.nda.or.jp/history/11edo/motoki.htm
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 長崎のオランダ通詞本木庄太夫(良意)(1628-97)は1682年(天和2年)に西洋の人体解剖図を翻訳し『和蘭全身内外分合図』を著しました。
 これは日本で最初の人体解剖図の訳書です。
 一般には前野良沢・杉田玄白の『解体新書』が最初とされていますが(教科書など)これより90年前です。

 しかし良意の『和蘭全躯内外分合図』は出版されず稿本のままでした。
 良意の下に訪れた遊学の医師が稿本の写しを持ち帰り、それを1772年(明和9年)に周防の医者鈴木宗云が校正し出版しました。

 良意は出島に派遣された商館医から教えを仰ぎ、原書はドイツの解剖学者ヨハン・レムメリンの『人体折畳図』をオランダ語訳したものでした。
 本の内容は各内臓の形を切り抜き紙片にし、これを重ね合せて、一枚ずつめくって内部をみるようにできていました。
 良意も同じように作り、別冊にその一つずつ訳名をつけ解説しました。

 医者でない良意が医学用語を翻訳する苦心は大変なものでした。
 漢方系の医学用語はありましたが、それには全くない部位の名称や機能を理解し、邦語の訳語を創造せねばならなかったからです。
 良意は翻訳の以前に医学の勉強を重ね、蘭医からヨーロッパ医学を学んだ後に翻訳しました。
 これは主流であった中国医方と西洋医方を結びつけたもので、日本に新しい医学の礎を築く偉業を長崎の一人のオランダ通詞が成したことには深い敬意を表わさずにはいらません。










★ 「解体新書」「和蘭全躯内外分合図」… 
  江戸医学書を公開 旭医大図書館が6日から
  北海道新聞:(2007/08/03 08:39)北海道新聞
http://megalodon.jp/?url=http%3A%2F%2Fwww.hokkaido-np.co.jp%2Fnews%2Ftopic%2F41416.html&date=20070803092208
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● 旭医大図書館が公開する江戸期の医学書。
  和蘭全躯内外分合図(左)は仕掛け絵本のようだ

 【旭川】
 旭川医大図書館(藤尾均館長)は六日から三日間、西洋医学普及の基礎となった「解体新書」や、仕掛け絵本の仕組みで人体の構造を紹介した「和蘭全躯(ぜんく)内外分合図」など、江戸時代の四つの医学書を同図書館で一般公開する。
 いずれも木版で現存数は極めて限られており、市民が目にできる貴重な機会となりそうだ。

 これらの医学書は、道医師会初代会長で医史学の研究家だった関場不二彦氏(故人)の蔵書の一部。
 同図書館が同大受験生向け学内見学会で、医学を志す動機付けに役立てようと、関場氏の遠縁で蔵書を引き継いだ鮫島夏樹同大名誉教授(札幌在住)から借り、一般にも公開することにした。

 解体新書は、ドイツ解剖書のオランダ語訳本「ターヘル・アナトミア」を蘭学医杉田玄白らが和訳し、1774年(安永三年)に全五冊で刊行した。
 初の体系的解剖学書で、現存数は数十点。

 和蘭全躯内外分合図もドイツの解剖書の和訳で、重ね合わせた和紙に皮膚や筋肉、内臓が順に描かれ、紙をめくると体内が分かる仕組み。

 他に国内初の解剖書「蔵志」や「解屍編(かいしへん)」も展示する。

 医史学に詳しい藤尾館長は「これだけの資料を一度に見られるのは通常は考えられない」と話す。




★ 本木良意(1628-1697) 長崎大学付属図書館
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/igakushi/nagasakioranda/nagasakioranda.html
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 本木庄太夫(榮久、剃髪して良意と号する)は通詞の名門本木家の初代である。
 J.レメリンの解剖図譜に依拠して解剖図と訳説を著した。
 1772年周防の鈴木宗云が見出し、『和蘭全躯内外分合図』と題して出版した。
 解体新書出版の2年前であった。
 山脇東洋の蔵志や杉田玄白の『解体新書』よりもはるかに早く17世紀において良意による日本最初の解剖図が筆写されて流布していたと思われる。
 シーボルトもこの書を持ち帰った。

 庄太夫は商館医ケンペルやライネに学び大通詞、通詞目付まで昇進した。



 なを、Wikipediaには「和蘭全躯内外分合図」ならびに「本木庄太夫(良意)」の項目はない。



【Top Page】




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