2008年11月9日日曜日

和蘭医事問答4:読むたびに涙する


 ● 和蘭医事問答:[慶応義塾所蔵貴重コレクション]より


 和蘭医事問答4:読むたびに涙する
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 玄白はこれに丁重な返書をしたためる。

 おそらくそれは、幕府の脅威におびえながら、自分たちのやったことを誰かに見てもらいたい、知ってもらいたいという、感情のほとばしりからくる饒舌に近いものではないかと思う。
 そのとき玄白は、自分たちの仕事を誰にでもいいから、しゃべってしゃべってしゃべりまくりたい、書いて書いて書きまくりたいといった心境にあったのではないだろうか。

 そこに見知らぬ人建部清庵の手紙が舞いこんできた。

 おそらく玄白は相当なのめりこみをもって、疑問に対して微塵も残すところなく応答するといった心情で、答書を書いたのではないでしょうか。
 そうすることによって、玄白みずからの幕府の脅威に対する精神的安定を図ったのではないかと思うのです。

 「第二信」を抜粋で。


 杉田玄白からの答書:安永二年正月(1773) 江戸発
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 建部清庵先生、オランダ流外科医についての御不審の数々、逐一拝見いたし、まことにもって感銘いたしました。
 遠く異郷に相いへだたっており、一度も御面識もございませんのに、先生は実にわが党の知己でいらっしゃいます。
 これこそ千載の奇遇と申すものと存じ、さっそく御不審にこたえてわたくしの存じておりますころどもを左にしたためて、御返事申しあげるしだいでです。

 オランダ人が年々日本にやってくるというくだり───
 外科医というのはたしかにいるようだが内科というのは見かけぬとの御不審──
 オランダでも風・寒・暑・湿云々があるはずだ、とのくだり───
 だいたいの治療のしかたは───
 オランダの本草書についてのくだり───
 医書はたくさん渡来してきているのかとの御不審───
 日本にはオランダ外科の伝書というものがたくさんある云々のくだり───
 オランダ文字は日本のいろはと同じとのくだり───
 辞書というものはなぜそんなにたくさんあるのかと、御不審をおもちになるかもしれません、それは──
 言葉には雅俗の違い、方言の差などあるはずだとの御不審───
 これまで伝わりましたオランダ流の外科書では、薬名が一様でないとのこと、御不審───
 いま世間でオランダ外科と呼んでいる医者どもは、‥‥とのお考え───

 二、三年前のこと、はからずも、前に申しましたクルムスという人の著した解剖の本を手に入れて、まずその挿図ばかり見ていましたところ、内臓の形にせよ、脊椎の数にせよ、わたしがかねて知っておりましたところとちがいますので、不審に思っておりました。
 ちょうどそのころ、処刑後の屍体を解剖なさるという人がありましたので、これさいわいと思い、その人に同伴して行って、見学いたしましたところ、内臓・骨格いずれについても従来のシナの所説は大ちがいです。
 そこで蘭書の図にあわせてみますと、こちらはまるで鏡にうつしたように、寸分のちがいもございません。
 このとき私どもは心中に無限の想いがこみ上げるのを感じて、一つの志を立てたのであります。

 私どもは右前野良沢氏を盟主として集い、むかし字引き一冊をたよりに…、クルムスの本の吟味をつづけました。
 ところが、まことに「昧からざるものは心」とか言いますとおり、この医書がしだいにわかるようになってきました。

 私どもの見解によりまして翻訳をいたし、ようやく「解体新書」という五冊の訳書ができあがりました。
 まだ原稿の照らし合わせなどすんでおりませんので、印刷にまわしてありませんが、近々のうちにできあがる予定でおります。

 この書物の要領を示した「約図」の方はできましたので、この手紙といっしょに御覧に入れます。
 これでおおすじのところは御推察ください。


 これまで私はシナの書を精密だと思い込み、それによって日本流外科をうちたてようとしかけていたのですが、ここでそれをとりやめにし、ぜひともオランダ正流の医学をうちたてねばならぬと固く決心したしだいです。
 それでまず、人体内部の構造こそ医学の根元でありますから、右のクルムスの書から翻訳をはじめたのであります。
 若い元気な人たちもおりますから、数年後ののちにはオランダ流の医術が成就できるものと考えております。

 最後になりましたが、オランダ船に乗ってくるような者はたいがいは世間のことわざでいう馬奴船脚(うまかたせんどう)のたぐいの人間にちがいない、それに雇われてくるような医者のことだから、上手の者はめったにこないだろうという御説、御不審はごもっともだと存じます。

 しかし、実は、かの国の風習では外国に出かけますことをひじょうに喜びます。
 すなわち国王が資金を出して仕立てる商船でありますから、わが国にまいりますカピタンと申すものなどは、公益を総括する役所の官吏でありまして、なかには高貴な身分の者が来ることさえあると聞いております。
 正保のころにまいりましたカスパルという医者などは、なかなかの名医だったと見えて、オランダ側の書物にも評判がのっております。

 以上数条、老先生の述べられました御不審につきまして、それがあまりにも深くうがった御不審であることに驚き感銘いたしましたため、私どものこれまで考えておりましたことどもや、ひそかに自負しておりますことどもまで、先生の御意向のほどもかえりみず、あれこれと申し述べてまいりました。

 このような私どもの気持ちがなにとぞ先生のみもとにとどきますようにと願っております。
                                   以上
  安永二年正月



 解体約図
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 凡例
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 だいたい、図のなかの説明はこまかすぎない方がよい。
 そのため各部分に甲乙などの字をつけ符号とし、各条の説明の方にも符号の字をしるしておいた。
 両方を照らし合わせて見ていただきたい。
 内臓・血管・骨格はそれぞれ別紙に離して図示した。
 これらを重ねあわせて透かしてみれば、各部分の全構造がわかるようになっている。

甲:両肺(肺臓)呼吸をつかさどり、血液の運行を助ける。
乙:心(心臓)血液をつかさどる。
丙:隔膜(横隔膜)旨と原とのさかいをなし、あわせて呼吸をたすける。
丁:胃 飲食物を受けとめる。
戊:大幾里児(膵臓)シナ人がまだ説いていないもの。オランダ名の音訳。
  胆嚢につらなり、飲食物の消化を助ける。
巳:肝(肝臓)門脈からの血液を受け、胆嚢をたすける。
庚:胆(胆嚢)十二指腸につらなり、飲食物の消化をたすける。
辛:脾(脾臓)肝臓や胆嚢を助ける。
壬:薄腸(小腸)いわゆる小腸である。
 木:十二指腸
 火:化腸(空腸)
 土:回腸
  の区別がある。
  飲食物の消化をつかさどる。
発:厚腸(大腸)いわゆる大腸である。
 金:盲腸
 水:直腸
  の区別がある。
  食物はここまできて大便となる。
東:門脈 シナ人がまだ説いていないもの。オランダ名の意訳。
  腸から始まり肝臓や脾臓に入ってゆく。
西:奇婁管 および科臼(乳*管と乳*槽)シナ人のまだ説いていないもの。
  オランダ名の音訳。
  飲食物中の養分を受け、それで血液に化することをつかさどる。
南:両腎(腎臓)水分と血液を分別する。
北:膀胱 小便を排泄する。
天:動脈 血液が順行する道路。
地:血液(静脈)シナ人が説くところの「青脈」である。
  血液が逆行する道路。


☆ 臓腑(内臓)
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☆ 脈絡(血管)
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☆ 骨節(骨格)
 <クリックすると大きくなります>


 そもそも人の生命というものは、外から栄養をとって保たれている。
 外からの栄養とは、つまり飲食のことである。
 飲食物が口に入れば、その中の養分は液となり血となって、体内を循環し周流する。
 それによってこそ身体は生育するのである。

 最初はまず胃に入って、そこから十二指腸に送られ、そこに大幾里児(膵臓)の分泌液や胆汁も入って一緒になる。
 そしてともに空腸を経るうちに混和され、廻腸を経て消化吸収される。
 養分は外に溢れてゆき、それは液(乳*)となって奇婁管(乳*管)で運ばれて、上部の奇婁科臼(乳*槽)に集まる。
 そこでようやく血液と化して、欠盆骨(鎖骨)の下までのぼって動脈に交わる。
 もともと血液は心臓から出て、左右両肺の中をめぐり、その肺によって鼓動する力をえて、動脈の大幹に入るのである。
 動脈によって順行していって各部分の微細なところに注ぎこみ、血脈(静脈)の微細なところに伝わってゆく。
 そしてそれによって逆行していって静脈の大幹に至り、また心臓に帰る。

 心臓に帰ってはまた出てゆき、終わってまた始まる。
 円環に端がないのと同じである。
 腎臓は静脈の大幹の左右につらなっていて、血液中の水分をとり分けてそれを膀胱に送る。
 門脈は腸の中で血液を受け集めて、それを肝臓と脾臓とに伝えるのである。
 肝臓はそれを受けて胆汁をつくる。
 膵臓は門脈と動脈との支脈につながり、そこから養分を受けて膵液をつくる。
 厚腸(大腸)は飲食物の滓を受けて、それを直腸に送りこむのである。

    安永二年春正月
    書肆 江戸室町三丁目 須原屋市兵衛板



 この情熱溢れる、かくも丁寧な手紙を受け取った建部清庵は狂喜し、涙をとめどもなく流し、長いこと手紙を肌身からはなさず、出しては見、見ては懐にいれ、眺め暮らす日々をおくったという。


 その様子を「和蘭医事問答 序 (大槻玄沢)」から抜粋します。


 私は少年のころから建部清庵翁について学んだ。

 翁がそのころいつも嘆いて語っていたのはつぎのようなことだった。
「私のおこなっている外科医術では、むかしからいまにいたるまで、日本・シナのどちらの国にもこの道をきわめたといえるような者がいたためしがない。
 この分野でのわが国近世の名家といわれるような者でも、、その医論の大部分は長崎の通詞から聞いてつくりあげた説にすぎない。
 ここに問題にするにもたりない。
 直接にオランダ語を学んでそのうえでオランダの書を訳すのでなければなるまい。
 そうしてこそ、その医学の真理をとらえることもできるのであろう。
 しかし、この私にどうしてそのような能力のある人物を知りえて、その人とともにこのオランダ医学研究に従うことなどできようか。
 私は年老いてしまった。
 この志を果たすことはもうおそらくできないであろう」

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 伯竜(衣関甫軒)は手紙を玄白先生のもとにとどけた。

 先生(玄白)はこれを読んで------。
 そこで自分の仕事の「意義を明らかにすべく」答書を書き、翁に送った。
 安政二年の年のことであった。

 翁はこの答書を得て、よろこびのあまり気も狂わんばかりであった。
 その手紙をただ宝物のようにありがたがるばかりでなく、くり返しくり返し読んでは何ヶ月ものあいだ手から放そうとしなかった。
 長年来の心の患いも、これでほとんどなおってしまったのである。

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 令息亮策氏と私茂質を江戸にやり、先生のもとに入門させることになった。
 私どもはこうして二人ともども塾生となって、先生の医論を聞くことができたのである



 そして、これに対する「第三信」が建部清庵からとどく。
 この往復書簡集のクライマックス。

 老耄至愚の眼力を以って申し上げ候儀、恐入り候へども、他流は存ぜず、和蘭流においては、古今無双真の大豪傑、文王を待たずしておこると申し候は、先生の事を申すべからんと存じ候。
 御恵与下され候約図拝見、覚えず狂呼、口ひらきて合わず、舌はあがったまま下がらず、瞠若たる老ぼう頻りに感泣仕り候。

 の手紙である。


 抜粋でみていきます。


 建部清庵からの問書:安永二年四月九日(1773)、奥州一関発
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 御面識もございませんが、一書を差しあげます失礼をお許しください。

 かねて衣関甫軒に託しておりました私の長年来の疑問をしるしました一冊子が、さいわいにも大先生の目をけがすことになりましたうえに、各条の疑問について御懇切な教えをいただき、深謝にたえません。

 特に御翻訳の「解体新書」の約図の恩賜にあずかり、はじめて拝見いたしまして、驚き入りました。

 この愚かな老いぼれの心を深く御憐察くださいまして、お仕事がお忙しく寸陰を惜しんでお励みになっておられるなかから、あのように御丁寧な御示教をたまわり、おかげさまで、年ひさしく小雨の降りつづけていた空がにわかに雲はれて青空が望まれてきたような心地、まことにもってお礼の気持ちは筆に尽くしがたく、ただただかたじけなく思っております。

 世間にはそんなにもたくさんの蘭書があることを、この年になるまで知らずにおりました。
 ほんとうの田舎翁で一生を暮らしてまいったわけですが、いただきましたお手紙の上ではじめて蘭書の題目をうかがっただけでも、四十余年来の素志がむくいられた思いで、嬉しくてなりません。

 オランダ文字のこと、薬品名が統一されていないわけ……おおよそのところよくわかりました。

 先生は、オランダの解剖書を御覧になって御不審をいだかれ、刑屍体を解剖させて見られたところ、シナ人の説はたいへんな間違いで、オランダ人の図の示すところは寸分の違いもなく、さらにその説明もはなはだ精密であることに気づかれて、ついに決心して「解体新書」の御訳述をなされたとのこと、逐一くわしくお教えくださいましたその経緯を、私はいちいちうなずきながら拝読いたしました。

 私のような老いぼれの愚か者の判断をもって申しあげるのは恐縮に存じますが、他の流儀ではいざ知らず、少なくともオランダ流では、古今無双の真の大豪傑が文王の出現を待たずにして登場するとは、まさに先生のような方こそ申すのであろうと存じました。

 そして御恵与くださいました「約図」を拝見しまして、私は思わず狂呼しました。
 口は開いたまま合わず、舌はあがったまま下がらず、みひらいた老いの眼にはただ感激の涙が流れるばかりでございました。

 オランダ人が日本に来はじめたのはいつのことかよく知りませぬが、二百年はど前のことでもありましょう、それ以来今日までかの国の医書を翻訳してみようと考えた人がなかったというはずがない、いまごろはきっとすでに翻訳書も出ているにちがいない、などと常日ごろ弟子たちに語っていたのでありましたが、その私の憶測にたがわず、大先生がいらっしゃたのです。
 この私のよろこびは、盲の目がにわかに開き、いざりの足が突然立ったといういうようなありさまでした。

 この老いぼれの私も、かねがね魔神祓いの祈祷師にすぎぬ身を嘆いておりましたところ、この先生がたの御盛挙のおかげで、正真のオランダ流外科の一家がたち、本尊もあり宗旨もあることになりました。
 インチキな祈祷師であることをやめ、本当の医学治療の世界を自信をもって独歩したいというのが、私の多年の願いでありましたが、それがいまかなえられて、私はよろこびに躍びあがらんばかりでございます。

 正保年間に来日したカスパルという医者は上手の者で、解剖書には同人の著したものもあるとの由、はじめてうけたまわって納得いたしました。
 カスパルから伝わったという書も見たことがありましたが……日本の医者の文盲のために、オランダの名医までこんな下手に仕立ててしまったのは、罪なことだと思います。

 先生は、日本にはもちろんシナでも周代以来絶えすたれていた医道をいま復興なさろうとして、一家をお立てになさるのですから、衆愚は口やかましく非難して、金をも熔かし骨をも消す勢いの讒言を言い立てるであろうかと思われます。
 まことにさしでがましいことではありますが、その辺を十分に御考慮下さり御用心下さいますよう、願っております。

 申しあげたいことは山ほどございますが、嫌いの悪筆悪文のうえに、老人となりましては長い文章の筆をとることさえままならぬ身でありますので、代筆をもって申しあげました。
  なにとぞよろしくお察しくださいませ。
                       恐惶謹言
   四月九日

 なを、私は多年のあいだ世間なみのオランダ流を勤めてまいりましたために、不学文盲の身、かなまじりの文でお手紙をしたためました。
 今後ともこの点はなにとぞ御容赦くださいませ。
                       以上



 玄白からの返書としての「第四信」も大半は医学的な回答で占められている。
 その部分は抜かして手紙の頭と後を抜粋します。

 「第四信」を抜粋で。


 杉田玄白からの答書:安永二年十月十五日(1773) 江戸発
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 昨年、衣関甫軒氏がおとでけにくださった、従来の御疑問をしるされたお手紙を拝読し、一、二の点につきましてお答え申しあげましたところ、先生のお手もとに無事とどきましたそうで、このたび、去る四月九日づけのお手紙を拝誦いたしました。

 前のお手紙ににありました先生の多年の御疑惑につきまして、その一つ一つに感服いたし、、はばかりながらこれこそ同志のかたと存じあげましたため、私の考えますところを先生の思召しをかえりみず勝手に申しあげたのでありますが、このたびはそれにつきましても縷々過褒のお言葉を頂戴し、まことに汗顔のいたりでございます。
 むかしから、たとえ千年ののちでも自分の志を知ってくれる知己を得るということが、士君子のなによりの望みとすることでありましたが、この私はすでに生涯のうちに先生のような鐘子期にめぐりあうことができました。
 これこそ世にもまれな大幸と、おもわず躍りあがらんばかりです。


 このような世情のおりから、「解体新書」出版のあかつきには衆愚は口やかましく騒ぎたて、金を熔かし骨をもとろかすほどの非難讒言を浴びせられたりするかもしれぬから、大いに用心せよとの御忠告、先生のありがたい御親切に感泣いたしました。
 いずれにしても剣を按じて私どもを待ち伏せしている人は多いにちがいありません。
 しかし、そうは申しましても、敵陣に「一番槍を入れる」には、自分も「敵の槍玉にあがる覚悟」がなければできるものではありますまい。
 たとえそうなっても、一人でも相手を槍で突き刺すことができたら本望のいたりと存じます。

 一度着実な、実証にもとづく説を唱えておけば、いつかは、千年来おかしてきた誤りが改められる日もくるにちがいないと、ただそう期待しているまでのことです。

 まだまだ申しあげたいことは山のように、林のようにございます。
 筆紙に尽くしがたい気持ちではありますが、お手紙への御返事かたがたこれまでといたします。
                       恐惶謹言
十月十五日



 玄白は手紙のなかでは、かれらのもっとも緊急の問題である幕府の鎖国政策に対するおののきをまったく語っていない。

 建部清庵の手紙で「衆愚は口やかましく非難して、金をも熔かし骨をも消す勢いの讒言を言い立てるであろう」から用心せよと言っている。
 これを受けて、対象を幕府に置き換えて、最後の部分で敵陣に「一番槍を入れる」には、自分も「敵の槍玉にあがる覚悟」と、大言壮語しているように見える。
 悲壮感ともとれる。

 いいかえるなら、幕府の恐怖にたいする不安をなんとかおしとどめようとする武者ぶるい、あるいは非常時の自己への納得と諦めを表している。
 もし、清庵の手紙にそういうような周囲の家者連中の懸念を表現する文がなければ、決して書かれることのなかった感情のようにもとれる。

 医者連中の懸念だけなら、もっとサラリと受け流していたのではないだろか。
 解体約図出版後の医家連中の動きを「冬の鷹」はこう書いている。

 当然予想していたことであったが、医家たちの態度は、冷淡だった。
 無名の医家である杉田玄白らの発刊した解剖図を黙殺しようとする空気が支配的であったのだ。


 医家連中の態度は、玄白にとってほとんど考慮するに値するものではなかったのである。
 はるかに心理的圧迫となっていたのは、幕府の動きではなかったろうか。
 「実証にもとづく説を唱えておけば、いつかは、千年来おかしてきた誤りが改められる日もくるにちがいないと、ただそう期待しているまでのことです」
と言って、もし何かがあっても、われらがやったことは間違いではないと、自己に言い聞かせているようにもとれるのである。


 まあ、そういういらぬ詮索は抜きにして、いつ読んでも感激に涙する手紙なのです。


 最後に「跋」を抜粋しておきます。


 和蘭医事問答跋
──────────
 この手紙は、亡父建部先生があるとき暑さをまぎらわせようと、ふだんから心に思っていたことを書きしるしたものである。
 はじめは一篇の述作にしようなどという気持ちはなかったようだが、弟子の衣関甫軒が江戸から帰郷したとき、これを書きあらため彼に託した。
 甫軒はしばらく郷里にいただけで、また江戸に留学し、この手紙をもって杉田先生をたずねた。
 安永二年の歳、杉田先生からの答書を得て、父ははじめて心が晴れたという様子であった。
 これは私がまだ垂れ髪の七、八歳の少年のころ、目のあたりにしたことである。

 杉田先生には男の子がなかったので……ついに私が養子となり、二十歳の私が杉田氏を名のることになった。
 最近は先生のお仕事は世間にひろく知られるようになり、先生の門に学ぼうという者が日ごと各地から集まってくるようになった。
 先生はするとまずこの書簡を彼らに示して、この学問への入門の心得を与えられるのである。

 私はこれが筆写されるたびに種々の写しちがいがあるのではないかと心配していたので、大槻玄沢君と相談して、これを一冊の本として刊行することにした。
 家塾に貯えて門人たちに配り、その筆労をはぶいてやろうという願いからである。

 本書の説くないようについては、世の識者の高見を待つのみである。

     寛政甲寅六年(1794)三月
                       不肖の息子 勤 敬識




 <おわり>




*].
「日本の名著<22>杉田玄白・平賀源内・司馬江漢」に掲載されている杉田玄白の著作をリストしておきます。
 日本の名著はどこの図書館でも置いてあり、中古本ならamazonで千円ほどで手軽に購入できますので、機会がありましたらぜひ読んでみてください。

 1...蘭学事始
 2...解体約図
 3...「解体新書」凡例
 4...和蘭医事問答
 5...狂医の言
 6...後見草
 7...野叟独語
 8...犬解嘲(げかいちょう)
 9...形影夜話
 10..玉味噌
 11..耄耋独語(ぼうてつどくご)
 12..玄白の詩歌


● 日本の名著22:杉田玄白他
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