2008年11月1日土曜日

和蘭医事問答3:漂流する遺書


● 建部清庵:[早稲田大学図書館]より
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 和蘭医事問答3:漂流する遺書
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 読むたびに涙を流すのは「和蘭医事問答」である。

 杉田玄白と建部清庵との間でやりとりされた四通の手紙である。
 といっても最初の一通目は玄白宛ではなく、質問状として江戸の医者に向けて発せられたものである。
 たった四通の手紙なので、繰り返し読んでいるが、本当に読むたびに涙してしまう。

 蘭学事始は八十余歳の玄白の回顧談である。
 が、和蘭医事問答はまさに解体新書翻訳当時の生の記録である。
 そこにあるのは、人生をかけた、あるいはかけてきた二人の医師の情熱のほとばしりといっていい。
 感動なしには読めない手紙である。


 江戸の医者に向けられた質問状が玄白の家に届いたときの様子を抜書きしてみよう。

 蘭学事始ではサラリと簡単に書いている。
 玄白がその当事者ではそうなってしまうのであろう。

 「解体新書」がまだ出版されないうちのことだったが、奥州一関藩の医官で建部清庵という人が、はるかにわたしの名前を聞き伝えて、ふだんからいだいていた疑問を書きつけて送ってよこしたことがあった。
 その手紙にしるされたことがらは、わが業とする医学についてまことに感服することが多く、これまでたがいに知り合った間柄でもないのに、わたしとまるで同じ志が述べられている。
 まさに、千里へだてていても心はひとつ、の思いであった。


 冬の鷹から。

 玄白は、或る日玄関に立った貧しい服装をした青年の姿を不審そうに見つめた。
 青年は、東北訛り強い言葉で来訪の目的を述べた。
 その眼には、燃えるような熱っぽい光がみちていた。
 青年──衣関甫軒は奥州一ノ関藩田村候の侍医建部清庵の塾生で眼科の勉強に専念していた。
 建部清庵は漢方医であったが、オランダ流医学に強い興味をいだき----。

 清庵のオランダ流医学に対する関心は高まる一方で、たまたま江戸に医学取得のためおもむく門下生衣関甫軒に、オランダ流医学に対する疑問をしるした質問書をわたし、江戸のオランダ流医家の回答を得てくるように依頼した。

 甫軒は、六十歳に近い老師の念願をはたすため江戸の町々を歩いたが、それはすべて徒労に終わった。
 が、帰省の日がせまったころ、かれは江戸にオランダ流医学を講ずる者がいるという話を耳にした。
 甫軒は、師の念願をはたすことができると思ったが、医家たちは、
 「たしかにそのような話は耳にしているが、いずれのだれやらは…」
と、頭をかしげるのみであった。

 やむなく甫軒は一ノ関にかえり、その話を師の清庵につたえた。
 清庵はよろこび、質問書にさらに加筆したものを、ふたたび江戸におもむく甫軒に託した。
 それは明和七年六月中旬のことであった。

 江戸に出た甫軒は、「オランダ流医学を講ずる者」を求めて、医家たちを歴訪した。
 しかし、それは単なる噂にすぎぬらしく目的の医家にめぐり会うことはできなかった。

 二年余が経過し、師から託された質問書はボロボロになっていた。

 明和九年(安永元年)秋をむかえた頃、甫軒は、江戸の医家の間に妙な噂が流れているのを耳にした。
 それはオランダ医書を少人数の医家が寄りあつまって訳出につとめているらしいという風聞であった。
 甫軒は、その源をさぐることにつとめたが、実体はつかめなかった。

 かれは、失望し、それもう浮説にすぎなかったのだと思ったが、年が明けて間もなく、かれは須原屋を版元にして「解体新書」という解剖図が刊行されるという話を耳にした。
 それは、オランダ医書を翻訳したもので、その書の責任者が杉田玄白という小浜藩医であることを突きとめた。
 甫軒はこの人物こそ師の疑問をといてくれる医師であると信じ、玄白の家を訪れてきたのである。

 玄白は、甫軒のさし出した建部清庵のしるした一書をひらいてみた。
 読みすすむにつれて玄白の顔に、感動の色が濃くあらわれた。


 甫軒が、「オランダ流医学を講ずる者がいるという話を耳にし、その話を師の清庵につたえ、清庵はよろこび、質問書にさらに加筆したものを、ふたたび江戸におもむく甫軒に託した」とある。
 それは明和七年六月中旬のこと。
 解体新書の翻訳を実行しようとしたのは、翌明和八年三月のことである。
 ということは、オランダ医学を講ずるものがいるという噂の主は玄白たちではなく、他の誰かということになる。
 それが誰であるかはわからない。

 よって蘭学事始のなかで「奥州一関藩の医官で建部清庵という人が、はるかにわたしの名前を聞き伝えて、ふだんからいだいていた疑問を書きつけて送ってよこした」というのは、玄白の記憶違いであろう。


 もう一本、同じ場面を。
 なんでそんなに同じところをしつこく書くのかと思われるでしょうが、書きたいのです。
 なにしろ、タイプ打つ手も涙でぬれているのですから。
 ちょっとオーバーで。

 日本の名著の解説[芳賀徹]より抜粋で。

 蘭学事始が老学者の四十年前にさかのぼっての回想記であるとするならば、その創業当時の努力のただなかにあってしるされたなまなましい、劇的な記録が「和蘭医事問答」、すなわち奥州一関田村候の侍医建部清庵と玄白との「往復書簡四通」である。

 解体新書の翻訳がほぼ終わりに近かった安永元年(1772)の末、あるいは同二年の正月のころ、玄白のもとに見知らぬ医学生が一通の所管を届けてきたのである。
 それよりたっぷり「二年半」は前に奥州一関を発した、明和七年(1770)閏六月十八日付、未知の人建部清庵の署名の一通だった。

 玄白はいぶかりながら封を開け、読み進めていって驚いた。
 その内容は……

 この手紙の筆者自身、自分が行っている中途半端な蘭法を久しい以前から憂い、自分はいかさまの祈祷師と同じことをしているのだと嘆いてきたのだ。

 「江戸表には広きことなれば、先立ってこの道を建立したる人あるか。
 また、オランダ医書を翻訳したる人あるべし……。
 かやうの大業は都会の地にて豪傑の人起こり、唱え出さざれば成就せぬ事なり」

 もしすでにそのような書があるならば、わが身はもはや日暮れて道遠し、一日も早くそれが見たくて、このように「遺書」のつもりで、僻遠の地から「定かなあてもなく」江戸に向けて一書を託す。

 という文面である。


 ドラマチックでしょう、そう思いません。
 もう少し続けましょう。


 まさに玄白たちの「解体新書」翻訳の事業と端緒と意図とを、全部言い尽くしたような言葉であった。

 いま海に向かって放たれた一切れの木片のようなこの清庵の書簡が、一関と江戸の間を一、二度空しく往復したのちに、ついに玄白の手元に漂着した…。


 ● 杉田玄白:[早稲田大学図書館]より
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 玄白は抑えきれぬ感激をもって返書をしたためた(安永二年正月)。

 この玄白の答書に対して、ほどなく清庵からの第二信があった(同年四月)。
 それはもはや単なる医学通信である以上に、一個のヒューマン・ドキメントともいうべき熱烈な感動の文章であった。




 いよいよ涙なしには読めないという、「往復書簡四通」を見ていくことにします。

 まず「第一信」から。
 これは玄白宛ではなく、オランダ医学をやっている誰とはわからぬウワサの江戸の医家に対してのものである。

 日本の名著から抜粋で。


 建部清庵からの問書:明和七年閏六月(1770)、奥州一関発
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一.オランダ人は年々日本にやってくるというのに、外科医というのはたしかにいるようだが内科というのは見かけない。
 オランダにはいったい内科の医者はいないのだろうか。

一.いくらオランダといっても、風、寒さ、暑さ、湿気などによる病気、またお産の前後など、なにかと病気はあり、婦人・小児の病気もないということはあるまい。
 日本でオランダ流と称するのは、みな膏薬・油薬のたぐいを扱うばかりで、腫れ物をひととおりなおすだけだというのは不審なことである。
 
一.オランダの本草学の書物があることは話に聞いているが、わたしのいるような片田舎では見ることができない。
 その書物をみれば、草木の形態も効能も「本草綱目」などと同じようにわかるのであろうか。

一.オランダの医書もたくさん日本に渡ってきているものなのだろうか。

 右にあげた四カ条は貴兄(衣関甫軒)こんどまた江戸に出られるときは諸名家に御質問くださって、その答えをくわしく書き付けられてわたしにお教えくださるようにしていただきたいのです。

 このほかにもオランダ医学のことについては年来不審に思っていることがいろいろあります。
 それにわたしはもう老いぼれの身ですから、またお会いできるかどうかもあやしく思われますので、前から貴兄にお話ししたいと思っていたことどもをとり集めて、筆にまかせてこまごまと左に書き綴っておくことにいたします。

 いまの日本には、オランダ外科伝書と称して八巻書、十二巻書、新伝の六巻書などと勝手に名づけたいろいろさまざまなものが、おびただしくある。
 外科医たちはそれをさもありがたそうにそれぞれの家の秘伝にしたりしているが、実はそれらはオランダ人の医者が著述したものではない。
 もともと医学のことはなんにも知らない通詞の口をとおして伝えられた問答だから、心もとない話である。
 だからほんとうのオランダ流医学とはとてもいえないものであろうと思う。

 オランダの医書が渡ってきたとしても、オランダ文字という言語を知らなければ用に立てようがなかろう。
 日本にも学識のある人が出てきて、オランダの医書を翻訳して漢字で読めるようにしてくれたならば、はじめて正真のオランダ流医学が成立し…、さらには婦人科や小児科の妙術も生まれてくるようになるにちがいない。

 「日本にも学識ある人出て阿蘭陀の医書を翻訳して漢字にしたらバ、正真の阿蘭陀流が出来、唐の書をからず外科の一家立ち、、その外婦人科小児科などの妙術も出べし」

 オランダ流の外科ばかりは、オランダを名のっていながらも、内実をみれば、みなシナの書から抜きとっては寄せ集め、こじつけたものにすぎない。

 これまでの外科医は、…中途半端なインチキの渡世業にほかならず、…いかさま坊主そのままというのがいまの外科医の体たらくなのだ。

 わたしはすでに若いころから、この外科医のありさまを憂いていたのだけれども、オランダの医書は見たこともない。
 たとえ見たとしても、翻訳でなければわかるはずがない。


 わたし自身はもはやすっかり老齢で、気力がおとろえて、日用のことでさえ物忘れするほどである。
 残った子どもたちは幼くて、まだ頼りにもならない。
 ただ弟子たちに、わたしが死んだあとでも、なんとかしてわたしの志をつぎ、独立の外科の一家をなせと教えているだけである。

 江戸は広い都会なのだから、もうとうにこの正統のオランダ流外科の道をうちたてた人がいるかもしれず、またオランダの医書を翻訳した人がいるかもしれない。
 もしすでにそういう本があるならば、さっそく見たいものだと思う。
 蘭書翻訳というような大事業は、都会の地に豪傑の人が出て唱えださなければ、到底成就しえないことである。

 「江戸表にハ広き事なれバ、先達而此道を建立した人あるか、又阿蘭陀医書を翻訳したる人あるべし。若し左様の書あらバ、早速見たきもの也。かやうの大業は都会の地にて豪傑の人起り唱出さざれば成就せぬ事なり」

 オランダ船が日本に来るようになった始まりは、いつごろだったか、年代は知らないが、およそ二百年ぐらい前のことだっただろう。
 それからいままでのあいだに、オランダ医書を翻訳するほどの人が一人もなかったということはあるまい。
 とすればいまごろはもう翻訳書があるのかもしれない。
 このような辺鄙な土地にいては見当もつかないのが無念なことだ。

 さてまたオランダ船には、たくさんの人が乗り組んでいるとの話だが、船長から水夫・舵取りのたぐい、それに商人たちだろう。
 その連中に雇われて船中で一応の治療をして渡世しているような医者に、たいした上手・名人はおるまい。
 また世間のことわざでも、「馬奴船脚:うまかたせんどう」といって船乗りのことをたいそう下劣なものと見なしているようだが、オランダでも船乗りはまさか貴人・公子ではなかろう。
 そして船医はそれに従って歩きまわるのだから、医者としてもきっと本国では、はやらぬ下手医者なのにちがいない。

 世のオランダ流のいい加減な点はいちいち言えないほどたくさんある。
 そんな点までしるしたくわしいオランダ伝書も、江戸や京にはあるかもしれぬが、この田舎にはない。
 それでわたしはオランダ流医術というものを信用する気になれないのだ。

 わたしは一生祈祷師同然のいかさま医者として朽ち果てるよりほかにないのだろう。
 江戸へももう二十五、六年出たことがないから、最近の様子はどうなのか、ちっとも知らない。
 むかし知っていた人たちもみな死んでしまった。
 江戸の様子を問うてやるべきあてさえもない。


 まだ、幼い子どもらが成長ののち江戸に出たならば、ここに語ったような趣を心得て、このわたしの志をつぎ、学問に精勤するように、万事伊藤松台と御相談のうえ、よろしくお導きくださるようにおたのみいたします。
 あれやこれやととり集めて長い話になりましたが、言い忘れることがないようにと、後事を託す気持ちでわたしの悪筆をもってしたためてきましたところ、字を書き落としたりしたところが多かったので最後に書きなおさせました。

 たとえ明日死んでも、この手紙の趣意にそって子どもたちをお世話くださりさえすれば、なんの遺恨もありません。
 それでこれはわたしの遺言と同様のものと考え、印章を押して差し出すしだいです。
  以上

 明和七年閏六月十八日        奥州一関  建部清庵  印



 この手紙が二年余の歳月を経て、玄白の手元に漂流してくるのである。

 最後の一行は強烈ですね。
 「遺言と同様のものと考え、印章を押して差し出すしだいです」

 差し出す相手とは、「誰とはわからぬ誰か」である。
 「定かなあてもない」見知らぬ相手である。
 おそらくいるはずであろう「誰かに」、老体を目一杯張りつくしている、そんな気迫が渦巻いている。
 建部清庵の「すごさ」、ですね。
 印章されたこの遺書は「誰とはわからぬ誰か」を求めて、二年余の間、江戸を漂流するのである。

 前に述べたように、この遺書を送りだしたとき、良沢たちはまだ翻訳の「ホ」の字にもかかわっていない。
 それは翌年明和八年三月の話で、九カ月も後のことになる。
 つまり、清庵は「見知らぬ人 玄白」に向けて遺書を送り出したのではない。
 他の別の噂の主に向けて出しているのである。
 清庵は、ただの「ウワサに向けて」遺書を差し出しているのである。

 さほどに、この老人の残り少ない人生における悔しさ、危機感がつのっていたということでもある。

 この遺書が江戸市中を漂流する間に、運よく良沢らの翻訳作業が動き始める。
 そして、二年弱の月日を経て完成間近に、この遺書が玄白の下へ漂着するのである。
 年月とは恐ろしものですね。
 それが涙を誘うのです。


 この建部清庵をWikipediaで見てみる。

 正徳2年生れ。
 享保15年(1730年)、19歳で仙台に遊学、4年後帰郷。
 その後、江戸に出てオランダ医学を学ぶ。
 その際、蘭方医の家として有名な桂川家に入門を願ったが、当時桂川家は弟子をとらないことにしており認められなかった。
 帰郷後、37歳で後を継ぐ。
 以来、一関を出ることはなかったという。

 清庵の医術は絶妙を極め、生前から、

「一ノ関に過ぎたるものが二つあり。時の太鼓に建部清庵」

と歌われるほどだった。
 なお時の太鼓というのは、御三家格の大名でないと認められない時の太鼓が、特別に一関藩に認められたことを指す。


 決して普通の医師ではなかったようです。
 その「過ぎたる者」が、己が知識のつたなさに絶望し、「定かなあてもない、誰とはわからぬ誰か」へ印章した遺書を送り出すのである。

 事実は小説より奇なり、ですが事実ですから涙をそそります。


 建部清庵について、
から

★ 民間備荒録(みんかんびこうろく) 『民間備荒録』(上巻)

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/024.html

 建部清庵(たけべせいあん)(1712―1782)は一関藩の医師でした。
 寛延(かんえん)年間と宝暦(ほうれき)年間の2度にわたる飢饉を体験し、食料に困った農民が餓死(がし)する姿を見て、「自分がふだん安心して生活できるのも農民のおかげである、このようなときにこそこの恩の何万分の一でも報いることができないだろうか」と考えました。
 そこで中国などの古い文献をもとに医師としての知識も加え『民間備荒録』(上下二巻)を書いたのです。
 宝暦5年(1755)、清庵43歳のときでした。

 この本の中で清庵は、ふだんからナツメ、クリ、カキなどの栽培をすすめているほか、一関領と周辺の山野に自生する植物のうち、トチの実、ドングリ、山菜な ど食料になる98種をあげ、食べ方を紹介しています(ハコベ、タンポポ、ツユクサなどの食べ方も載っています)。
 また、草や木の葉による中毒やヘビ・虫の 毒の解毒法(げどくほう)なども紹介されています。
 この本のおかげで、一関 藩では餓死する人がぐんと減ったといいます。
 16年後の明和8年にはこれらの植物の見分け方を知らせるため、特徴(とくちょう)を絵に描いて彩色した『備荒草木図(びこうそうもくず)』(上下二巻)も編集しました。

 建部清庵はまた、東北初の蘭学医(らんがくい)でもありました。
 『解体新書(かいたいしんしょ)』を訳述した杉田玄白(すぎたげんぱく)との往復書簡はのちに『和蘭医事問答(おらんだいじもんどう)』として本にまとめられ、医学を志すものの入門書といわれるようになりました。
 清庵の息子は玄白の養子となりのちに江戸の蘭学者として活躍しています。
 また、江戸で蘭学塾を開いた大槻玄沢(おおつきげんたく)もはじめは清庵に学んでいます。




<つづく>



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