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ウラン1:単能エネルギー
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原子力でウエブサイトを検索してみると、その内容は大きく2つになるようです。
一つは科学的・技術的なもの、もう一つは安全性に関するもの。
なにしろ、日本は原爆を落とされた唯一の国。
たった1個のバクダンであれほどの「物理的パワー」があるとは信じられない。
それだけなら、うまく制御できれば非常な量のエネルギーを取り出せる宝の山。
しかし、そうはいかない。
でかいオマケがついてくる。
「化学的危険性」、いわく放射能。
下記のホームページのレポートを抜粋コピーします。
★ 愚かな核=原子力利用 京都大学原子炉実験所 小出裕章 2007年07月07日
http://cnic.jp/files/070707koide.pdf
『
今日、標準的となった「100万Kw」の原子力発電所は、広島原爆で核分裂したウランに比べて「約千発分(1,250発)」のウランを毎年燃やし、それだけの「核分裂生成物(30トン)」を生み出します。
一方、六ヶ所再処理工場は、原子力発電所約30基(27基分)が1年毎に取り替える量に相当する「800トン」の「使用済核燃料」を毎年取り扱います。
六ヶ所再処理工場で平常運転時に放出が予定されている放射能のうち、被爆に最も寄与すると考えられている放射能は「クリプトン」「トリチュウム」「炭素14」の3「核種」です。
日本原燃はそれらの核種は「フィルタでは取り除けません。----十分な拡散・希釈効果を有する高さ約150mの主排気塔、沖合い3km、深さ44mの海洋放出口から放出します」と書き、全量を放出するとしています。
六ヶ所再処理工場は、経済的な理由からクリプトン、炭素、トリチウムの捕捉は行わず、「十分な拡散・希釈」をさせるという言い訳の下、それらを全量環境に捨ててしまいます。
六ヶ所再処理工場が毎年放出する「Kr-85」、「炭素14」などは全地球規模に汚染を広げ、全世界では「7,400人・シーベルト」の被爆を与えます。
1,000人/1万人・シーベルトという「がん死」の「リスク係数」を当てはめれば毎年「約740人」、40年の操業では「約3万人」が「がん死」することになります。
』
毎年740人が「がん死する」ことになるという。
大変なことである。
これまで再処理を依頼していたイギリスではソ連のチェリノブイリ事故の半分に相当する放射能をアイリッシュ海に流していたという。
とすれば27基分の処理を行う六ヶ所再処理工場より大きな数の「がん死」データがイギリスあたりから上がってきているはずである。
イギリスは「データ隠し」はしないと思われるので、どこかに公表されているであろう。
できれば、そのデータをこのレポートに入れてくれれば、ひじょうに分かりやすくなったのだが。
イギリスや原子力立国であるフランスあたりで毎年「740人」を上回るような死者データが出ているとしたら、これは即刻、原発は中止すべきであろう。
いまのところ日常情報としての新聞テレビでは、そういうニュースを聞いたことがない。
現在のところはこれは「確証性のないデータ」と判断して、先に進みたいと思います。
というのは、この辺はそれが「許容の安全」以内あるのかどうか、素人にはちょっと難いためです。
『
産業革命以降の人類のエネルギー消費を支えたのは化石燃料です。
特に、現代の西欧型文明が主として依拠している石油については、その枯渇が懸念されてきました。
では石油はいつ枯渇するのでしょう?
それを考えるために、石油の可採年数推定値の変遷を図3(略)に示します。
1930年における石油可採年数推定値は「18年」で、それは長く続く戦争の強力な動機の一つとなりました。
それが10年たった1940年には、逆に「23年」に延びました。
しかし、それでも石油権益を確保することは列強諸国の深刻な課題であり続け、第二次世界大戦の動機となりました。
本来であればこの時点で、石油可採年数推定値には大きな不確かさがあり、それには単純な石油埋蔵量の推定だけでなく、世界の政治状況、個々の国の事情、経済的な思惑などが複雑に絡み合っていることをしっかり認識すべきでした。
それから10年たった1960年には、石油は枯渇するどころか、可採年数「35年」に延びました。
それでも、石油があと30年程度しかもたないというすいては、人類に対して化石燃料の枯渇を心配させるに十分な力を持っていました。
しかし、それから30年たった1990年になっても石油は枯渇するどころか可採年数は「45年」に延びたのでした。
最新の可採年数推定値は「50年」にまで延びています。
おまけに、地下資源には確認埋蔵量の他にも潜在的な資源があることが推定されていて、石油の究極埋蔵量を使い切るまでには100年の年数が必要とされています。
』
「石油枯渇1」の没頭で紹介したように日本石油鉱業連盟の2007年の発表によると、では可採年数は「54年」に延びており、潜在的資源量は「14年」で、合わせて石油枯渇まで「68年」としています。
ちなみに、2002年では、「79年」であり、そこから「68年」へと、「11年」短縮されているという。
ということは、これまで延びていた可採年数推定が頭打ちになってきたということであろうか。
さらに、レポートの石油を「100年」で使い切るということは、「21世紀で終わり」ということになる。
22世紀の人はどうやって、どのような主要エネルギーを確保するのだろう。
『
使えばなくなる資源を「再生不能資源」と呼びます。
問うべきは化石燃料とウランの資源量の多寡です。
地球上に存在している化石燃料とウラン資源の量を、それぞれ発生するエネルギー量で比較して図4(略)に示します。
再生不能エネルギー資源圧倒的な埋蔵量を誇るのは「石炭」で、それを使い切るまでに「1,000年」かかるほど豊富な資源です。
世間では「エネルギー危機」なるものが叫ばれ、多くの人はあたかもエネルギー資源が枯渇しまうかのような錯覚に憑かれています。
しかし、近年急速に消費が増大してきた天然ガスは新たな埋蔵地域が次々と発見されているし、海底のメタンハイドレート、地殻中の深層メタンなど将来が有望視されている化石燃料もあります。
少なくとも「予測可能な未来」において「化石燃料は枯渇しません」
逆に、多くの人たちが抱かされた幻想と違って、ウランは利用できるエネルギー量換算で石油の数分の一しか存在しません。
事実を虚心坦懐に視れば、「原子力の資源であるウランは貧弱で、当面は化石燃料に依存するしかない」というのが正しい表現です。
』
将来が有望視されている化石燃料もあり、予測可能な未来において化石燃料は枯渇しない、という。
「予測可能な未来」の定義がないので、解りにくいのですが、化石燃料があるかぎり、原子力などいらないのです。
『
しかし、そういうと日本原燃などは、燃えないウランをプルトニュウムに変換して利用すれば、原子力の資源は「60倍」に増えると主張します。
しかし、完璧にそれが実現できたところで、せいぜい「石炭に匹敵する資源になるだけ」です。
その上、高速増殖炉は技術的な困難が多く、一度は高速増殖炉開発に夢をかけた世界の核先進国はいずれも「撤退」してしまいました。
日本の原子力開発長期計画による高速増殖炉の開発が初めて言及されたのは1967年でした。その時の見通しによれば、高速増殖炉は「1980年代前半」には実用化されることになっていました。
ところが実際には高速増殖炉ははるかに難しく、----2000年の長期計画では、ついに数値をあげて年度を示すことすらできませんでした。
2005年の「原子力政策大綱」として改定された計画では、「2050年」には初めての高速増殖炉を動かしたいと書かれていますが、そんなことが実現できる道理がありません。
』
なんとなんと、1980年代が2050年にまで「70年」も延びてしまったのが高速増殖炉ということになります。
現代の科学水準からいって、今から「40年後」に実用化したいというのは、ほとんど「言葉の遊び」で、ひじょうに高い割合で見通しが「真っ暗」ということになります。
まるで見通しが立っていない、といったほうが適正でしょう。
「高速増殖炉は、まったく見込みがない」と断言しても差し支えないのではないかと思います。
『
日本では現在、電力の「30%を超える部分」が原子力で供給されています。
そのため、ほとんどの日本人は、原子力を廃止すれば電力不足になると思っています。
また、ほとんどの人は今後も「必要悪」として受け入れざるを得ない、と思っています。
しかし、発電所の設備の能力で見ると、原子力は全体の「20%」しかありません。
その原子力が発電量では「30%」になっているのは、原子力発電所の稼働率だけを上げ、火力発電所のほとんどを停止させているからです。
原子力発電が生み出した電力をすべて火力発電でまかなったとしても、なお火力発電所の設備利用率は「7割」にも達しません。
それほど日本では発電所は余ってしまっていて、年間の平均設備利用率は「5割」にもならないのです。
つまり、発電所の半分以上は停止させねばならないほど余っているわけです。
』
日本の発電所は通常はフル稼動能力の「50%」で動いている、という。
昔、大学で安全率についての講義を受けたことがあります。
うる覚えですが、そのときは安全率は「2」にするのが最もいいと習ったように思います。
たとえば、「100」のものを求めるとき、その能力「100」のものを1台で動かすというのは危険であり、「100」のものを2台いれ、それを「50」「50」で動かすのが最も最良な形であり、それが「2」であるというものでした。
ただ、残念なことにその頃は「100」のものを1台入れることすらおぼつかない経済情勢でしたので、日本の安全率は「0.6」くらいである、といったことを聞いた覚えがあります。
静止的な安全状態を「1」としたとき、そこまでの条件すらを満たすことができなかったのが、その頃の環境だったということなのでしょう。
それが豊かになり「1」を越え、学校で習った「2」になった、というのが昨今だということのようです。
つまり、最も安全係数が適正な環境に今いる、ということになります。
この場合、いかなる非常時にもそこそこ対応できる状態である、ということになります。
よって、通常時「50%」で稼動いているというのは、もっとも安全にして良好な状態であるといえないこともありません。
ちなみに、「安全」とは「ゆとり」であり、別の面からみると「無駄」に見えます。
無駄を取り込むこと、いわば能力一杯でなく「十分な遊び」を持って対応しているということでもあります。
Wikipediaから抜粋してみます。
『
「安全係数」「安全率」はメーカー等が工業製品に指定する使用条件の、理論値や実験によって求められる安全のための使用上限に対する倍率である。
通常、工業製品は材質の経年劣化や環境の違い、想定外の使われ方等、実際の使用環境は多分に不確実性を含んだものであるため、ある程度の余裕をもって設計される。
例えば、「耐荷重量: 100kg (安全係数 2.5)」のように用いる。この場合、100kgまで使用して良い、250kgで壊れる(または計算上壊れる)という意味である。
安全率とは、部材が破壊・変形しない応力(許容応力)と、それが破壊・変形する応力(極限応力)との比である。
通常の設計においては「1.5~2.5」が用いられ、きわめて負荷の大きいものや重大な事故または人命にかかわるものの設計においては「さらに大きな数値」が用いられる。
安全率=σs/σa σs:極限応力、σa:許容応力
安全率とは一言で言えばいわゆる設計上の「遊び」なのである。
安全係数が低い例
──────────
航空宇宙工学では、安全係数が「1.15~1.25」倍と極めて低い事が知られている。
これは、安全のための設備や余裕が、そのまま経済性の悪化につながるためである。
そのため、これらの業界は徹底した品質管理が行われ、また整備に多くの時間をかける。
』
この考えを、一般化して当てはめてもとりたてての不都合はないように思えます。
宇宙工学では安全係数「1.25」は極めて低いという。
ということは「1/1.25=0.8」で8割操業では、極めて危険だということになる。
もし安全係数の下限である「1.5」としたら「1/1.5=0.67」となり、「2/3」での操業率が安全率として適正範囲ということになるだろう。
としたら、品質管理レベルからみると「50%」は確かに高すぎる。
言い換えると、さほどに余裕がある日本は、すこぶる豊かであるといえる。
一般平常時での安全率として「1.5」なら適正である。
問題発生時において「2.0」なら対応に十分に余裕があるだろう。
上限の「2.5」は特別の条件がつかない限りムダといって差し支えないであろう。
例えば、ある機械を修理するに、その発電施設を停止しても、他の施設がその停止分を補ってくれる。
非常時ではどうだろうか。
「非常時」とはいかなる事態をいうのだろうか。
非常時の「非常」という内容が分かれば非常ではなくなる。
「想定範囲」になってしまう。
非常とは未知ということであり、想像外の事態をいう。
神戸大震災では、その原因を説明するのに「活断層」という、これまで聞いたこともない熟語が飛び出してきた。
そして、7千人が死んだ。
昨今ではミヤンマーのサイクロン(死者行方不明者14万人)、中国の四川地震(死者7万人)と想定外の出来事が起こる可能性を、常に秘めているというのが、地球という球体の上で生活するものの宿命であることを知らされた。
非常時とは想定できない事態であるが、そのときに対応するとして「50%」稼動は、平常時では「余っている」が、非常時では「過剰に余っている」とは言いがたいように思われる。
「豊かである」ならという条件付きだが、その程度の安全性は考慮しても不具合ではない。
原子力発電所では末端の施設の僅かな被害ででも原子炉は停止する。
地震の多い日本では、想定の揺れを超えた時には必ず停止する。
そして、末端施設までの検査が終了するまで、再開はされない。
原子力とはさほどに微妙な施設であるということである。
安全度がすべてに優先する施設である。
また、そうでなければならない施設である。
原子力発電所をすべて停止し、火力発電所でまかなってもその7割で日本の総発電量をまかなえるという。
7割稼動なら安全率からいって、ほぼ適正値である。
非常時を想定しないなら、原子力発電所の稼動分だけオマケになり、日本では発電所は余りの状態であるということになる。
なぜ、石油発電所でまかなえる状態にありながらも、原子力発電所を造り稼動させようとするのか。
深夜電力のほとんどは原子力発電であるといわれている。
なぜ原子力発電所の稼働率を上げ、石油発電所の稼働率を抑えているのか。
「温暖化」という項目を除けば、その理由は一つしかみあたらない。
エネルギー問題、いいかえれば「油断」である。
なを、温暖化の問題だが、例えば東京湾にある火力発電所の年間稼働率は「30%」である。
たった、30%しか動いていない。
需要がピークになる日中にはフル回転して、「夜は休止」する。
なぜなら、東京都の「窒素酸化物規制」のため、終日運転ができないのである。
「原子力発電所の稼働率だけを上げ、火力発電所のほとんどを停止させているからです」とは、それだけ見れば分かりやすい論理だが、なかなかそうは一筋縄ではいかない。
なら、30%しか稼動していない東京湾の火力発電所など無駄だ、不要だ、廃止してしまえ、という論もある。
が、非常時を想定するとそうもいかない。
以前、クレーン船が川を横切る送電線を切断して、電力供給が間に合わずいっときパニックになったことがあります。
いつ何が起こるかわからない、予想もしなかったことが起こる、想定外の事態が発生する、それに備えるのが社会施設のもつ裏の仕事でもある。
表の数字合わせで済むなら、こんなに楽なことはない。
常に非常時への対応を備えておくこと、もちろんそのときは「窒素酸化物規制」をはじめとする規制は取り払われる。
つまり、規制が取り払われるような事態が起りうること、それを前もって考慮しておかなければ社会施設とはいえない、ということである。
最低限の「地域内対応」の施設は保有しておかねばならない。
それが、安心して暮らせる社会の要件の一つでもある。
生活とは、きれい事だけで済ませられるものでもない。
レポートの締めを上げておきます。
『
いったい、私たちはどれほどのものに囲まれて生きれば幸せといえるのでしょう。
人工衛星から夜の地球をみると、日本は不夜城のごとく煌々と夜の闇に浮かび上がります。
残念ではありますが、人間とは欲深い生き物のようです。
種として人類が「生きることに価値があるかどうか」、私には分かりません。
しかし、もし地球の生命環境を私たちの子どもや孫たちに引き渡したいのであれば、その道はだだ一つ「知足」しかありません。
』
人口衛星からみて、最も輝いているのは海上で、それはイカ釣り漁船の「いさり火」が放つ光だそうです。
ここに、大量の石油が使われていた、ということになる。
しかし、この石油高でイカ釣り漁は真っ先に「休漁」になったといいます。
やむ得ない結果かもしれない。
「イカ」は高価な珍味になる可能性がある。
イカやマグロを食わなくても、いささかも人間の生存に影響はしない。
ただ、ちょっとした「美味しいモノ」が消えるだけのこと。
石油を濫費する業種業職は、このオイル高で淘汰されていくことにならざるを得なくなる。
石油ストーブで栽培する、ビニールハウス温室農業も淘汰されていく。
至極単純な物理的条件で、人間の「放埓な欲望」が押さえ込まれつつある。
歴史の流れが変わってきている、ということなのだろう。
「知足」ということ、無制限な欲望が押さえ込まれてくる時代に突入した。
エネルギー量に対応する「知足の時代」に入りつつある、ということである。
際限のない人間の欲望を、石油というものが、物理的に切り替えてくれるという世紀に一度しか訪れないであろうという「グレイト・チャンス」に恵まれたということである。
「豊かな社会」を目指すことから、「足りる社会」で満足する生活へと、視点が大きく変わりつつあるということである。
「適足」ということが、キーワードになる。
もう一つウエブを見てみます。
★ 嘘で固めた「原発の必要性」
http://ng-nd.hp.infoseek.co.jp/matuo/matuo23.html
『
●原子力は無限のエネルギーか → 原子力(ウラン)こそ貧弱な資源
「石油や石炭などの化石燃料はいずれ枯渇するので原子力が必要」などという宣伝文句を聞くと、「石油もあと30年でなくなるらしいから、やっぱり原子力かな」となんとなく思ってしまう人が多いようだ。
石油枯渇30年説は1960年代広く浸透したが、その30年が過ぎた現在、石油はなくなっただろうか。
もちろん答は「否」である。
今日での石油の可採年数の推定値は約50年と言われており、さらに未確認のものも含めると石油の究極埋蔵量を使い切るには100年はかかると推定されている。
一方、石炭となるとその年数は2000年を越えるとさえ言われる程だ。
もちろん言うまでもなく、これらを使い続ければ、何千年か先にはなくなるということは事実である。
しかし、このことは原子力つまりウランにも当てはまることであって、単にどちらが先になくなるのかという問題に過ぎない。
では、ウランが“無限のエネルギー”と言える程石油や石炭より豊かな資源なのか検証してみよう。
上の図表(略)は、地球上に存在する化石燃料とウランの量を、それぞれが発生し得るエネルギー量で比較したものである。
これを見れば一目瞭然であろう。
ウランなど石油に比べても1/4~1/5しかないし、石炭に比べれば数十分の一から数百分の一しかない非常に心もとない資源なのである。
従って「ウランはすぐに枯渇するので、これからは化石燃料」と言った方が正しいという訳だ。
また、このところ推進側が躍起になって宣伝しているように「プルトニウムを利用すればウランを60倍有効に使える」と考えてみよう。
百歩譲って仮にそうしたとしても究極埋蔵量で約3600に過ぎず、石炭には及ばないのである。
おそらく「21世紀は石炭の時代」になるだろうと言われている。
つまり、原子力など“無限”どころか、「極めて貧弱な資源」なのだ。
●原子力は石油の代わりになるか → 原子力は発電以外何の役にも立たない
まず最初に石油についてその用途を見てみよう。
左の図(略)は原油から得られる各石油製品の種類と取れる率、その主な用途を示したものである。
これからもわかるように私たちの身の周りには様々な石油製品が氾濫している。
車のガソリン、ストーブの灯油、食器や電化製品などに使われる多種多様のプラスチック製品、タイヤなどのゴム製品等など。そして、工場のボイラーや発電に使われる重油などだ。
ではこれら石油の広範な用途の中で原子力が肩代わりできるものはどれだろうか。
車や電車に原子炉が積めるだろうか。工場やビルの地下に動力源として原子炉を設置できるだろうか。
はたまた、ウランやプルトニウムでお皿やおもちゃを作れるだろうか。
そう、全く不可能だ。
結局、原子力にできるのは「お湯を沸かして発電することだけ」なのである。
そうなると、石油の肩代わりと言っても発電用の「C重油」(石油全体の34%)の代わりにしかならないことがわかる。
その上、原発は小回りのきかない施設なので、発電だけはできるとは言え、基底負荷用の限られた部分としてしか利用できない。
従って、「C重油」の中でもさらに半分程度の役割しか果たせないのである。
現代社会は所詮石油が無ければ成り立たない「石油文明」なのだ。
それは、原子力自身にも当てはまる。石油を使ってウランを採掘し、石油を使って原発を建設し、石油を使って核燃料を運び、石油を使って核のゴミを埋め捨てる。
結局は原子力そのものが石油なしでは成立しない技術なのだ。
「原発は石油の缶詰」と言われる所以である。
もともと原子力に「石油の代替など不可能」なのである。
』
天然ガスでみたように、フランスの電力の85%は原子力が生み出し、それを輸出している。
「お湯を沸かせる」ことができることによって蒸気機関ができ、近代産業革命が起こった。
「お湯を沸かす力」とはさほどに偉大なもの。
はじめから否定的な目で見ていくと、目先が曇り、肝心のものが見えなくなってくる。
「石油の肩代わりと言っても発電用の「C重油」(石油全体の34%)の代わりにしかならないことがわかる」とは。
何を言っているのだろう。
石油の「34%の代替エネルギー」であるというほどの「極めて豊かなエネルギー」であるということを表現している、ということである。
先のサイトでは、「ウランは利用できるエネルギー量換算で石油の数分の一しか存在しません」という。
「エネルギー量換算で石油の数分の一」も存在するなら、「利用しない手はない」、ということになる。
エネルギー資源の欠乏に深刻に悩む国だ。
ほぼ100%を輸入に頼る国だ。
「石油の数分の一」ものエネルギーがあるなら、それを指をくわえて、ヨダレを流してみている方はないと思うのが妥当というところ。
通常ならそう思って間違いはないだろう。
至極当たり前の考え方。
「利用した方がいいのか」それとも「利用しない方がいいのか」
原子力とは、ただ人間が勝手に「無限」と勘違いして、過剰な期待をしているだけのこと。
その過剰な期待の揚げ足取りをしても、得るものはない。
アワの部分で議論しても、中身は見えてこない。
だいたいの「原子力の持つ姿」が見えてきたように思います。整理してみます。
原子力とは下記のような特徴を持つエネルギーといえるようです。
①.石油と較べて付加価値がない
②.発電用に使われるだけのものである
③.自然資源エネルギーであり、枯渇が見えている
④.高速増殖炉の開発は見通しがたっていない、おそらく不可能
「鉄腕アトム」は小型原子炉を持っていた。
おなじくアシモフのロボットも原子燃料であった(ただし、ウランではない)。
しかし、小型原子炉が実用化されて、自動車に積まれるといったことは、遠い将来にあっても全くありえないということが分かってきている。
人類にとって原子力はさほどに手軽に扱える代物ではないのだ。
石油のように、「原子力合成製品」といった類のものを生み出すものでもない。
せいぜいのところ、発電にのみ使えるというだけの能力しかもっていない、つまりお湯を沸かすだけの「単能エネルギー」ということになる。
なを、これを付け加えておきたいと思います。
前のサイトで言われているように、
●.22世紀は「石炭」の時代がくる可能性が高い
そうならないケースとしては地下から「メタンハイドレート」をどれほど採掘できるか、にかかっている。
しかし、これは採取費用が石炭と比べてバカ高くなる。
エネルギー効率を費用で比較してみて、石油が石炭を駆逐するように、メタンハイドレートが石油を駆逐するといったことは絶対にありそうもないだろう、ということ。
間違いなく、いまのモデルからは22世紀は「石炭の時代」になる。
なぜなら、今のところそれしか大規模エネルギーは残っていそうもないから。
22世紀はいかに「石炭をクリーンに使う」かという技術の開発に主力がおかれてくるでしょう。
いやでも、「それしかないなら、そうするしか仕方がない」ということ。
突然舞い込む思ってもみなかった幸運、あるいはウルトラCなどありはしない。
天然ガスでみたようにメタンとは天然ガスです。
「石油からメタンへ」とは、「液体から気体へ」というプロセスである。
しかし、石炭だと「液体から固体へ」というプロセスに変わってくる。
「食糧とエネルギー」は人類生存の根幹にかかわること。
「予測可能な未来」をどこに設定するかで、論議が反転する。
100年でみるか、200年で見るかで大きく異なる。
100年とは「予測可能な未来」、すなわち「近未来」。
見通しは明るい。
石油も天然ガスもウランもそこそこある。
100年から200年だと、この先100年間の対応の仕方で明暗が分かれる。
人類は100年から200年後も生きている。
そして、300年後も「生きているだろう」と「思う」。
自分の孫が百歳まで生きる可能性があるなら、100年後をうすぼんやりと想定できる。
それが「予測可能な未来」
しかし、200年後となると、誰もそんな人類を考えようがない。
「中未来」あるいは「遠未来」だとどうなる。
自分か、あるいはみえる子孫が満足していればいい、と思うのが当たり前の人情。
中未来、遠未来に「責任はない」といっても言い過ぎにはならない。
でも、200年後に人類が生存しているのなら、孫の孫にエネルギーを失った「砂に沈んだピラミッド」としての地球を与えるわけにもいかなくなってくる。
もちろん、与えてもいい。
後は「未来人が考えること」
でも「分かっていてやる」ということは、チクリと心に痛みを感じる。
石油も使い切った、天然ガスもなくなった。
高速増殖炉は、まったく見込みがない。
メタンハイドレードはそのとき本当に採掘できているのか。
石油枯渇でみたようにメタンハイドレードはさほどに簡単な代物ではない。
メタンハイドレードを取り出したあとの影響は。
どの程度の海底環境破壊を招くのか。
あるいは天然ガスを取り出した後の廃棄物の処理はうまくいくのか。
今のところ何一つ、「分かっていない」
今分かっている論理で、未来のモデルを作ること、それがごく普通の対応。
未知のもので、未知のモデルを作っても「砂上の楼閣」にすぎない。
SFの世界になってしまう。
いまあるデータでモデルを作り、それに将来現実化したものを、繰り入れて修正していくのがノーマルな手法。
「メタンハイドレードがあるさ」だけでは見通しにはなりにくい。
「海底のメタンハイドレート、地殻中の深層メタンなど将来が有望視されている化石燃料もあります。少なくとも「予測可能な未来」において化石燃料は枯渇しません」。
確かにあるものは枯渇しない。
当たり前のこと。
とりあえずは、「要は」見合うコストで取り出せるのか、ということ。
枯渇と利用は別のもの。
「取らぬ狸の皮算用」では「言葉転がし」に終わる可能性を多分に含んでいる。
もちろん未来のことである、何も分かってはいない。
ただ、現在の手持ちのデータから未来を見たら、ということ。
腰痛にならんかなと心配する「アシモ君やムラタ君」が、少し猫背でストリートを闊歩している世界を想像することは楽しい。
でもそれだけでは、人の世は終わらないように思うのだが。
<つづく>
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