2008年7月9日水曜日
病院へいく1:だから嫌われる
病院へいく1:だから嫌われる
━━━━━━━━━━━━━━━━
送ってもらったビデオを見ていたら、六十少々の陶芸家の方が出ており、「いつ死んでもいいですよ」と言っている。
一瞬うなった。
この人に対してではない。
この映像はCMで、生命保険のCMなのである。
だいたい保険会社のCMというのは長生きを奨励するような方向で作成されるはずなのに、いともアッサリと「いつ死んでもいいですよ」ときた。
昨今はただ「長生き」すればそれでよし、生き方よりもちょいと数年余計に生きることに無上の価値があるような風潮があり、それを作っているのがマスコミであり、マスメデイアだと思っていた。
ジャーナリストの軽薄なヒューマニズムが、分かりやすさを求める「オブラート世論」に迎合している時代である。
それがゆえに、この保険会社の広告部のスタンスに対してうなったのである。
昨年、郵便が民営化され、NHKニュースで「地方のサービスの低下が起こらないような取り組みが求められます」とかいったコメントをアナウンサーが言っていた。
このアナウンサーの後ろは、本当の田舎でわらぶき屋根の家があり、そこを自転車にのった郵便屋さんが走っている。
これにも一瞬うなった。
先進国、日本だ。
どこの世界に、いまどき郵便屋さんが農村の道を自転車で駆け回っているのだろう。
都心真ん中の細い路地を行く郵便屋さんなら分かる。
だが地方のあぜ道もどきを、どこの郵便屋さんが自転車でいくというのだ。
愚民でもこの程度の理屈は分かる。
最低でもモペットだ。
「乗ってる乗ってるヤマハメイト」だ。
地方の郵便局へ行って採用試験を受けてみるがいい。
必ず「運転免許はお持ちですか」と聞かれる。
更に山奥の農村部なら最低で「エアコン付き」の軽自動車だ。
常識であろう。
どこの山奥に自転車での郵便配達を指示する郵便局がある。
フケを掻き落としながら、ゲタで駈けずりまわる、金田一耕助の「八つ墓村」の昔ではないのだ。
それが理解できない頭の「NHK」。
国民を「バカもの扱いしている」。
ということは、このNHKニュースは「やらせ」だ。
予算が国会で審議される国営放送も、ニュースを「やらせ」で作るようになったのか。
ということは、あの国会での「NHKの予算審議」もやらせなのだろうか。
話が「NHKのやらせ」に飛んでしまったが、テーマは「病院の話」なのです。
ここに移ってきて十年余。
その間、医者にいったのは2回だけ。
「じょうぶなのですね」、などということではない。
面倒だからいかない。
単語を並べれば老人の話を向こうは聞いてくれる。
でも病気のことは単語も並べられない。
「面倒だから行かない」
昔は、畳の上で死ぬことを嫌った。
確か宮崎滔天の母親は5人(だったかな、4人だったかな)の息子を「畳の上で死ぬことにないよう」にと育てたという。
昨今は、バカの一つ覚えのように「畳の上で死ぬ」ことを奨励する。
そういえば福沢諭吉が書いていた。
『
わが人生の約束はただ安心居家の一時にあり、
---必ず畳の上にて病死すべしと覚悟を定めたらば、
即日よりその生は「禽獣の生」となり、
また「人類の名を下すべからず」
』
「畳の上で死ぬ」とは「禽獣の生」だという。
「人類の名」に値しないという。
ウーン、「これはきつい」。
昨今は「死に至る人生のプロセス」に価値を見出さなくなった、ということである。
「死に至る身体のプロセス」として物理的なものとしか捉えなくなったということである。
実際は病院のベットの中で死を迎える。
自宅のタタミの上で死を迎える人はほとんどいない。
「死」という人間の終局の場面から、人生的感動が落ちこぼれてしまった。
物理死の「お涙頂戴」的な底の浅いストーリーがそれになりかわっている。
そのうち日本でも浅はかな「泣き屋」が繁盛するかもしれない。
「物理死に感動はない」
だから、泣き屋に「時間つぶし」を依頼することになる。
こういうことを書くから「嫌われる」。
ただ長生きを奨励して、ほとんど自らの死を自覚しないまま、我が家でもない冷え冷えとした無感動の白いスチールパイプの上で死んでいく。
人間に尊厳があるとしたら、この死は限りない冒涜である。
「人がいかにして生きたか」が、まるで語られていない。
家族は死にゆく者に対して薄情である。
分かっていながらそうする。
言い訳はある、「先生がそうしなさいというから」。
家族には、それ以上のことは「できない」。
てなことを書いたら、きっとみなさんから「袋叩き」にあうことでしょう。
いえ、やっぱり、
「死は病院のベッドで迎えるべきですよね、安心できますから。そう、それが一番」。
といいながら、続ける。
日本では、毎年健康診断をうけ、ときどき人間ドックに入った。
でもこちらに来てからはだめ。
病気になるとただ寝ているだけ。
「あの世までの、ヒマつぶし」をしている人間のやることはいつも同じ。
一週間も寝ていれば、そこそこ病気も抜け元気になる。
汗をびっしょりかき、絶食し、2キロも体重を落とせば病気は消える。
人間には自然治癒の能力が備わっている。
モノを喰って元気になれば、病気も一緒に元気になる。
これでは直らない。
モノを食うな。
「病気の治癒」は、ヒマつぶし人間の趣味。
これで10日間、ヒマが潰せる。
でも、つらい。
もし、直らなかったら、死ぬだけ。
苦しむくらいなら死んだ方がいい。
苦しむのと、痛いのは嫌い。
「それより死んだほうがマシ」
精神的にも肉体的にもその方がはるかに「衛生的にして健康的」。
「健康に死ぬ」か、「病気で死ぬ」かである。
「死ぬときは、健康でありたい」
医者は「病的に死ぬ」ことを奨励する。
ベッドにしばりつけて、病名をつけ、手術で苦しませ、投薬で苦しませ、生きる必要がないのに点滴とやらを流し込む。
正常に死ねる人を、無理やりこの世がわに足を引っ張る。
どうにかして病人に「でっちあげ」ようと、悪戦苦闘している。
死すべき人に苦痛を与えるのに喜びを感じている。
それを「倫理」という。
「六十まで生きれば、十分生きた」
とりたてて悔いはない。
六十までにできなかったことが、七十までにできるわけがない。
七十までにできなかったことが、八十までにできるわけがない。
できることといえば、もてあました時間を潰すために悪戦苦闘することぐらいだ。
安いパックの海外旅行とやらを、とりあえず考えてみようか。
足腰の老化をふせぐため、やらんでもいい散歩にも行かなければならん。
ボケ防止のために、何か趣味でもみつけなければいかんかな。
どうでもいいことを思い悩む。
そんなところだろう。
あるいは、この電子網のように勝手気ままに愚にもつかない放言をまきちらすだけ。
「性格の悪さ、丸出し」
できることといえば、「あの世までの、ヒマつぶし」
「いかに、ヒマつぶしをするか」、それに悩み苦しむ人生。
それが医療行為の発達した世というもの。
これは、あきらめないといけない。
六十までの営みの中に、生きてきた価値を見出さないといけない。
そこには「生に対する死」が輝いている。
六十を過ぎると、それが「モノとしての死」に変わる。
ただ、「物質が消える」だけの死になる。
「それを待つだけ」になる。
生命保険に出てくる陶芸家と同じ。
「老後について」能書きをあれこれ言う人は、その事実を十分認識していていながら、それを素直に見つめるのが怖いだけ。
老後を多分に語ることによって、いっときでも、「死という見えない恐怖」から目をそらそうとしているだけ。
「ただ、臆病なだけ」
医者は物質が消えるのを延ばそうとする。
それが医者の仕事ならしかたない。
しかし、本人自体が後ろ向きで死んでいってはなにもならない。
「死ぬときは、前向きに」
何かCMにあったな。
「出かけるときは、忘れずに」だったかな。
アメリカン・エキスプレスだっただろうか。
死とはその程度のものということ。
「アンタがいなくなっても、世の中チーとも痛くないよ」
大層な事ではない。
アンタがいなくなることによって、新しい世代が活躍できるのだ。
アンタは若い人の足を引っ張っているのだ。
まだまだ、人類は綿々と続いていく。
生物の連鎖だ。
つまり、アンタは人類連鎖の「綿ゴミの一片」に過ぎない。
その程度の価値しかない。
ちょっと、言い方がきつい。
正直に書き過ぎる。
ものの分かったようなきれい事を並べて、「いい子ちゃん」ならないだけ。
いい子ちゃんでなく、「いいジジー」にならないだけ。
きれい事を並べたところで、もう済んでしまったもんは、取り返しがつかないということ。
六十までの人生に「生きた核」を見出し、それを丹田に収め、六十以降のヒマつぶしの筋にすること。
六十以降には何もない。
六十までのものに、色彩りを添えるだけ。
彩りを得て、核は輝く。
その輝きが人生。
六十までは「生」。
「生」が先行する。
六十を過ぎて「人生」になる。
「生」に彩りを与え「人生」にする。
「人生」とは「死へ向かうための仕事」
死の向こうには、「何もない」。
「あの世」なんぞは、「この世」の人が考えだしたこと。
もし向こうに何かあるなら、そこにいってやればいいこと。
なにも僅かな80年そこそこの寿命の中でやる必要など、「毛筋もない」。
この世で、あの世のことを念じて何になる。
前倒ししてやったら、あの世でやることがなくて困るだろう。
あの世でも、ヒマをもてあましてしまうだろう。
それよりなにより、この世とやらの生活態度を引きづってては、あの世とやらに「失礼に当たる」だろう。
勝手なこの世の発想でのみ考えずに、あの世に住まわれている方のことを考えてやらねばいかんだろう。
それが、『超究極の気配り』というもんだろう。
見知らぬあの世に、「足を突っ込むな」
何もない、すべて消えて「無になる」。
だから、「人生」にしておかねばならない。
六十以降に何かを求める愚かさは、闇に輝く星を竹竿でおとそうとするようなもの。
野生の動物は自分でエサを獲れなくなったら死ぬだけ。
分かりやすい。
それが生あるものの「正しい生き方」。
たぶん、人間の方が間違っている。
だろう、と思うのだが。
そのことを知っていながら、人の誰もが口をつぐんでいる。
人間の偽善、それを「文化」という。
文化を持つ生物がレベルが高いと思い込んでいる。
つまり、高等生物とは如何に多くの「偽善を抱え込める生物」かということ。
我が人生、どうひっくり返しても、偽善しか出てこない。
偽善だからこういう文章が書ける。
正善だったら、こんなバカを撒き散らしはしない。
口をつぐんで、ニコニコしていられる。
こういうことをいうから「本当に嫌われる」。
ビート・たけしの本の題名にあったな。
だが、よくもまあ、こんなに暴言を吐き散らせたものだ。
きっと「苦しみながら死ぬ」ことになるだろう。
「地獄行きの決まったヤツは」
対策は練っている。
「苦しい、死にたくない」と思ったら、這ってでもキーボードににじり寄り、この文章をクリック一発で削除する。
しかし、しばらくは検索情報がグーグルに残ってしまう。
これは、しかたない。
ところが最近、情報会社のランキングとして「3,900,162」というオマケまで付いてきている。
肝心の本文がまるで出てこないにもかかわらず、この情報が前の方で表示される。
なんという「僭越な」。
「390万」なんて、とてつもない数値の検索順位に何の価値があるのだろう。
発表すれば目に触れる。
中には少しばかり読んでくれる人もいるだろう。
その程度であって、そこにどれほどの意味があるのだろうか。
コンピュータはバカ正直に「390万」なんて数値を出してくる。
コンピュータは検索するが、考えはしない。
大体、百万を超えれば「その他大勢」でいいはずであると思うが。
そういえば、日経平均株価の表示もバカの典型。
例えば「12,345.67円」と出てくる。
1万2345円までは分かる。
「67銭」に何の意味がある。
1万円台のデータに「67銭」が必要か。
まるで「不要」。
そのくらい、誰にでもわかる。
東京証券取引所というのは「左巻き集団」か。
「67銭」というどうでもいい「金魚の糞」を後生大事に抱え込んでいる。
それを「正確」だと思っている。
単なる「割り算の末端数字」であることすらも知らないのか。
デイスカバリーの軌道を計算しているわけではない。
算数は小学校まで。
中学になると数学になる。
数学では、こういうバカな数字は扱わない。
「有効桁数」の定義は。
少しは頭を使え。
「1万2千3百円」とくれば末端の「5円」だって不要に近い。
幼稚園児の「クレヨンしんちゃん」だって分かる。
証券取引所とはその程度のレベルか。
そういえばしばらく見ていないが、光り物のやたら好きな「ヒマワリちゃん」は元気だろうか。
またやった。
「だから、嫌われる」
さて、このどこにでも割り込んでくるうるさい情報会社の画面を表示させない方法は、あるのだろうか。
残念なことに、とてもそんな知識はない。
いつも必要なこと。
「傾向と対策」
さらに重要なこと。
「君子豹変す」
話がこんどは「あの世」と「証券取引所」に飛んでしまった。
もう一度確認、テーマは「病院の話」なのです。
本当に。
<つづく>
【Top Page】
_